宮城県大崎市の大崎氏20万石の戦国期末期の居城、名生城です。いつ頃築かれたかは定かではありませんが、南北朝時代に斯波氏により築かれたと伝えられます。斯波氏は大崎氏を名乗り奥州探題に任ぜられ大崎地方に大きな勢力を持ちましたが、度重なる内紛により次第に勢力を失い、戦国の1560年頃には伊達氏が奥州探題に任ぜられたことにより、地方大名に転落。1588年大崎氏内紛を名目にした伊達軍1万2千の大崎領侵攻を撃退し、大崎氏の最後の意気を示しますが、1590年小田原の戦いに大崎氏は参陣せず改易・滅亡しています。その後、領地は豊臣秀吉家臣木村吉清に与えられ、名生城には吉清の子、清久が入城しますが、1591年葛西・大崎一揆が起こり、名生城は一揆に奪われ一揆の拠点となります。しかし、豊臣秀吉から一揆鎮圧の命を受けた蒲生氏郷の攻撃により城は落城。その後、伊達氏の米沢地方から大崎・葛西領への転封の検分役として検地と岩出山城改修を命ぜられた徳川家康が名生城に立ち寄った記録を最後に文献に現れなくなったため間もなく廃城になったと考えられます。名生城は、大崎氏の領地中心部の江合川の西岸の丘陵に築かれ、本丸、二の丸、三の丸、軍議評定所丸、内舘、北館、小館の7つの郭とそれぞれを囲む土塁・堀からなっていたとされ東西1km南北1.2kmの規模とされます。現在は、北館は浄泉院、その他は耕作地と点在する住宅などになり遺稿はあまり残っていません。小館跡に大崎神社があり大崎氏の城跡の名残を見せています。また、本丸跡には8世紀頃政庁があったとされ国指定遺跡の名生館官衛遺跡の説明板が設置されています。
+ 続きを読む










