岩手県花巻市にある花巻城です。城は三方を川に囲まれた台地に東西710m、南北500mの規模で本丸・二の丸・三の丸を擁する平山城です。古くは鳥谷ケ崎城と言い、前九年の役の安倍氏の城柵と伝えられ、源頼朝の奥州藤原氏征伐の戦功により稗貫郡を領した稗貫氏が1559年ここに本拠を移したとされます。稗貫氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず大崎・葛西・和賀氏と同じく領地没収となり、鳥谷ケ崎城には浅野長政の代官浅野重吉と城兵250名程が入城。奥州仕置軍が引き上げた後、領地没収に不満を持つ大崎・葛西・和賀・稗貫の旧臣などが各地で蜂起、1591年鳥谷ケ崎城は、和賀・稗貫の一揆軍2千数百名が包囲。城は東を北上川、南を豊沢川、北を瀬川が囲む台地に作られた堅城であり、城方が保有する多数の鉄砲により、簡単には落城せず、その間に三戸城の南部信直が5百騎を率いて代官・城兵を救出し三戸城に後退しています。一時的に一揆軍が城を占拠するも、その後、豊臣氏の征伐軍により鎮圧されています。そして、岩手県は南部氏と伊達氏に二分され、南部領の南限は現在の釜石市、遠野市、和賀郡、花巻市が境となります。鳥谷ケ崎城には南部領の南方の抑えとして重臣の北信愛を入れ名も花巻城と改めてます。1600年関ヶ原の戦いを好機とみて、秀吉に領地を没収された和賀・稗貫氏の残党が伊達政宗の煽動により再度一揆を起こし、9月20日の夜一揆軍5百名が花巻城に押し寄せました。関ヶ原の戦いは15日に徳川家康の勝利で終わっていますが、奥羽には情報が届いていなかったためです。花巻城主の北信愛は各方面に蜂起した一揆軍に対して援軍を次々と送り出していたため城内には十数名の兵しか残っておらず、一揆軍は三の丸、二の丸を打ち破ってたちまち本丸に迫ってきたため、信愛は本丸の城門を固め鉄砲に火薬だけを詰めさせ兵以外の次女たちにも空鉄砲を盛んに撃たせ城兵が多数いるように見せかけ必死に防戦、彼我の銃声が多数とどろくと城外に出撃していた南部軍がこれを聞きつけ城ヘ引き返し、一揆軍の背後から襲いかかり、形勢は逆転し一揆軍は潰走したと言わてます。以後、城主の北信愛が没すると藩主利直の次男政直の2万石の城下町となり、政直没後は城代を置き南部藩南境を守る重要な城として明治維新まで続いています。
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