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にのまる

リバーサイドキャッスル (2018/10/27 訪問)

高坂駅徒歩圏の住宅街にある高済寺。お寺を囲むように土塁が残っています。川(リバーサイドパーク)側には大きめの堀もありました。川からは人ではなく水が攻めてくるので、ここの土塁は堤防の役目を果たしていたのではないでしょうか?
松山城攻めでは北条氏政の陣城になったという記録があります。新編武蔵風土記稿の高済寺の縁起には「四方を土塁に囲まれ、堀もあるのでおそらく陣屋跡。北条家臣の高坂刑部の陣所だったという説もあるが、どこから出た話か知らない」というようなことが書いてあります。
道路側の土塁は発掘、整地したばかりの様相でした。周辺は宅地開発が進んでいるようなので、もしかしたら次に行った時にはこの眺めはないかもしれません。

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Snakepit

ほとんど復元 (2018/10/28 訪問)

ほぼ観光地化してますが一部、当時の石垣、土塁、堀あります

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Snakepit

土の城 (2018/10/28 訪問)

復元櫓や虎口門があって分かりやすいです

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ぽんたっく土佐守

表の顔と裏の顔がおもしろい (2018/10/21 訪問)

バスツアーの最後は岡崎城。
いわずと知れた家康公生誕の城です。
東海道が通っているため、
参勤交代の西国大名は
必ずこの城を眺めながら江戸に向かいます。
そのため、
西から見たときの城が一番見栄えが良いように
設計されていたそうです。
城内には空堀から様々な種類の石垣があり、
時代の変遷がよくわかります。
訪れた日は七五三の参拝者やポケモン(?)のイベントで
多くの人で賑わっていました。



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ふじしー

まさに秘境 (2018/10/27 訪問)

肥後菊池氏の末裔、旗本の米良氏が治めた地。
現在は小川地区の民俗資料館、その裏手に宿泊施設があり、この2カ所に当時の石垣が見られる。
施設内はよく整備されており、駐車場近くにはお食事処も(食べてませんが是非…)。トイレも新しく綺麗でありがたい。
城の手前を流れる小川川が大変美しい。
少し遠いが、西米良村中心部にある歴史資料館もおすすめ。
・アクセス
高鍋、西都方面から車で40kmほどの川沿いの道を山奥へ進んで行く。
土砂崩れや狭い道が多いので、観光の際はそれなりの覚悟が必要。
警笛鳴らせの標識、生まれて初めて見た。

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まっつん

五芒星形西洋式城郭 (2018/10/27 訪問)

初めて訪れました!
まず五稜郭タワーから全体を見渡した後で五稜郭を歩き回りましたが、その方が形をイメージしながら見れたので良かったです。
復元された函館奉行所。
ついつい大広間の畳の上にあぐらをかいて座ってしまいました。
やはり自分は日本人なんだなと感じました!

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朝田 辰兵衛

高所恐怖症の人は,ヤバイよ² (2018/10/27 訪問)

標高295m,比高260m(公式)。本丸からは,西側に日本海,東側に長岡市内を眺望できます。本丸は威圧感のある切岸で周囲を遮断しており,尾根筋を南下すると,出丸として機能していたという物見山砦があります。物見山砦からは南西側に柏崎刈羽原発を眺望できます。また,本丸と物見山砦の間の尾根筋には7つの堀切が存在するとのこと。2つは発見でき,そのうちの1つはイイ画像が撮れました。
アクセスルートは,新潟県道23号線から「西山連峰入口」で峠道に入り北上。車1台分ほどの狭い舗装路をしばらく登ると,右側に「物見山砦登城口」,左側に「二田城登城口」があります。ここも,山城ガイドブックに取り上げられてもイイぐらいの城郭だと思います。

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dougen

2016.9.4登城 (2016/09/04 訪問)

和歌山駅でレンタサイクルを借りて、国体道路を南下、紀伊寺駅付近で国道42号に入り、橋を渡った和歌浦口にある津屋公園(城跡山公園)が雑賀城址となります。
遺構らしい遺構はありませんが、主郭跡に妙見堂があり、参道が整備されています。

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dougen

2016.9.4登城 (2016/09/04 訪問)

JR和歌山駅の東側に来迎寺があり、太田城址となります。
街中の平城の宿命から、遺構らしい遺構はありませんが、解説板と立派な石碑が設置されています。
また、秀吉が水攻めを行った城で、秀吉の築堤跡が周辺に残っています。

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ヒロケン

ダニ (2016/06/21 訪問)

小谷城は京極家の譜代家臣から北近江の戦国大名となった浅井家三代の居城です。小谷山南筋に展開する広大な城域は、実に戦国大名の居城らしい縄張りです。織田信長公の妹、お市の方と浅井三姉妹 お茶々(豊臣秀吉の側室)お初(京極高次の正室)お江(徳川秀忠の正室)が暮らした城としても有名です。

北陸自動車道長浜ICから約20分。山麓にはWC等完備された無料駐車場があります、山腹には5~6台分(もっとかな)駐車できる駐車スペースがあります。

今更になりますが、6月の梅雨の季節が一番ダニが増殖するのだそうです。自分も太股の付け根、タマタマの横をガブッとヤられました。市民病院に行き切開して頂きましたが、タマタマの横の切開はちょっと恥ずかしい思いをしました。
皆様も環境の整ったと思っている山城に行くときも、ハーフパンツ等お薦めできませんm(_ _)m

 

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勝野武士

本日、播州三大城制覇!(←遅) (2018/10/27 訪問)

行こうと思えば行けたのにも関わらず、なぜか今日まで行くことがなかった英賀城。
秀吉による播磨平定を語る上で欠かせない重要なお城ですね。
あ、ちなみに、播州三大城とは小寺氏の御着城、別所氏の三木城、そしてこの三木氏の英賀城なのです。

本丸跡の石碑近くにある復元縄張図をみる限りかなり広く感じますが、現地を訪れると改めてその広大さを実感できます。
港近くに本丸、二の丸などの主要な曲輪群を配置し、後になって城下西方に英賀御坊が築かれると寺内町としての要素もプラスされ、土塁と堀で町をぐるりと囲んで総構が築かれ、さながら巨大要塞都市の様相を呈していたようです。
石山本願寺や毛利方の関係がかなり強かったことから、どうしても織田方との対立は不可避であり、結果として三木城が陥落すると英賀城も次いで陥落してしまいました。

現在は大部分が住宅地となってしまい、本丸などの中央部はほとんど面影もありません。
唯一、英賀神社北側に僅かながら立派な土塁が残っています。前述の復元図から推測するに、英賀御坊の北側の総構の土塁の一部のようです。
その土塁の北側に公園があり、なぜか中央に模擬石垣がありました。何の説明文もありませんでした。前述の復元図から推測してみてもこの場所は総構の堀のあたりでは??…個人的には記念碑的なオブジェととらえてます(笑)。
あと、総構の城門の跡や英賀城関連の石碑が町のあちこちに立てられてるのはとてもありがたいですね。

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赤い城

堀が良く残っています (2016/08/21 訪問)

埼玉高速鉄道の新井宿駅から徒歩で20分。
外環道貫通しているものの本丸周辺の空堀が綺麗に残っています。

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赤い城

蕨城址公園となっています (2018/10/27 訪問)

京浜東北線蕨駅西口から徒歩で10分弱。
蕨城址公園として市民の憩いの場となっています。
江戸時代には徳川家の鷹狩御殿として使用されました。
神社池が水堀の跡のようです。

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オダリン

大村公園一帯に (2010/09/28 訪問)

復元された板敷櫓と白壁と石垣が残っている。御船倉の遺構があり昔の面影をそのまま残している。夕映えに映える雰囲気の良い写真写りのいい城だ。

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カルビン

被害甚大 (2014/04/20 訪問)

まだお城めぐり始めて間もない頃、八王子城を頑張って見学した際に管理棟の関係者様からすぐ近くに支城があると聞いて訪問
駐車場が無い為(車を停められるスペースも無さそう)、JRor京王線・高尾駅からバスでの訪問が宜しいかと
(バスの本数が意外に多い・・・行先はバラバラですが、ほぼ小田野城近辺まで行きますので、最寄りのバス停をご確認下さい)

最初の訪問では解説版の場所等知らず、また雨上がりの影響で斜面で思いっきり転倒し、ズボンが泥だらけになるという被害甚大でw
テンション下がって早々に敗走したという苦い思い出がorz

同年夏に再訪し、しっかりとリベンジ攻略を果たしました(苦笑)


遺構はと言いますと、地形はそれっぽいものの、これ!と言えるものは曲輪と切岸くらいで・・・それほどの物はありません

観栖寺台公園にある解説を確認し、その脇にある入口からお城をざっと見学し、北側山裾沿いに降りてトンネル脇の標柱を見て終了・・・ってところでしょうか


ここから徒歩圏内に、武田氏滅亡時に逃れてきた武田信玄四女・松姫が一時匿われていたとされる心源院があります(解説等はありませんが、お寺内に松姫座像があるとの事・一般公開はされていない模様)ので、一緒に見学されると良いかもしれません

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リベロスキー

“九戸の乱”の舞台、中世終焉の地 (2018/10/26 訪問)

政実の見た山並みを見。
政実の見上げ空を仰ぎ見。
政実の立った地に立つ。

それだけで充分。

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河内との国境に近く、東高野街道を見下ろす軍事的拠点 (2018/10/14 訪問)

長藪城は、標高約347mの城山に東の城かL字形の尾根上約600mに渡り、西の城、出城と3ヵ所の拠点が設けられ、堀切などで遮断されている!
かなりの規模で、戦国時代に大幅な改修を受けたと考えられますね!
所在は、橋本市城山台です!
城山台の地名の由来は、この城山から来ています!
長藪城は、楠木正成の家来で、しばしば手柄を立てた牲川左ヱ門頼俊は、南朝が衰え千早城が落ちると十津川に逃れた!
その子の義春になって、伊都郡に入り、長藪城を築いたと伝えられています!
そして、義春は守護畠山氏に仕え、その子義信の時は河内国の一部も領したという!
義信の子義則の時、近畿一円を支配下に治めつつあった松永久秀に攻められ、1558年にたまらず長藪城を退去、同城は松永氏に奪われてしまいました!
しかし、義則の子義次が1560年に松永方を攻めて長藪城を奪い返したと云われております!
だけど、これらは伝承で、残念ながら史実かどうか確認されておりません!
長藪城のように、東の城、西の城、出城と二つ以上の城郭が、城山という一つの城域内に含まれるのを「別城一郭」の城といい、和歌山県下で同様の形式を持つ城としては、海南市の大野城、湯浅町の広城が有名で、長藪城とともに、規模の大きさから畠山氏の主要三城とされております!
尾根続きから敵に攻められるのを絶つため、堀切を施し、郭への虎口は狭く複雑にして、敵の一気の侵入を防いでいます!
また、堀切に続いて堅堀を設け、敵兵の山腹斜面での横移動を制限しているのが特徴です!

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todo94

続日本100名城スタンプ60個目 (2018/10/21 訪問)

日本名城百選の城を精力的に攻めていた9年前も、倉庫跡、才蔵丸、明神丸と土の曲輪を次々と回り、小倉丸にまで脚を伸ばしていたが、今回は更に貯水池跡までチェックできた。しかしこの城の見どころは何と言っても本丸周りの石垣。徳島市街方面の眺望も素晴らしい。阿波九城のひとつである。

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モト

茨城県ではけっこう有名な城址みたいです (2018/10/16 訪問)

城址には土塁や曲輪を見ることができました。
ここ多良崎城は茨城県ではそこそこ有名らしいです。というのも心霊スポットで話題になったことがあるようです。
少々、城址を発見した時と城址へ入りる際はなんとなくドキドキしてしまいました。
霊感がない私にはまったく心霊的な印象はありませんでしたが...。

遺構は入り口から奥へ進むと曲輪があったり、そこを囲む土塁などが見られます。
城址の道はある程度整備されてますので歩きやすく見学もしやすかったです。
けっこう気軽に見れる城址ではないかと思います。
それでいて本郭、二の郭、3の郭としっかり残っているので城址の雰囲気をたっぷり味わえました。

駐車場はありません。
入り口付近に停車してささっと見学してきました。

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にのまる

分倍河原の戦い (2018/10/21 訪問)

新田義貞vs鎌倉幕府のクライマックス直前、分倍河原の戦いで新田義貞が陣を張ったとされるところが現・高安寺です。分倍河原駅前には鎌倉の方角を向いた新田義貞像が建っています。ここでの勝利が大きかったので英雄扱いなのでしょう。(古戦場碑は多摩川に向かう途中の公園にあります。)
百余年後、享徳の乱のはじまりである鎌倉公方足利成氏vs関東管領の分倍河原合戦もありました。古河を向く成氏像はありません。
どちらの合戦も人間味あふれる経過や駆け引きがあり、戦国や幕末じゃなくてもけっこう楽しいです。現地に遺構がなくても空気だけで楽しめる派の人にとっては高安寺の立派な仁王門や鐘楼は記憶に残るものになるのではないかと思います。
でも、分倍河原といえば、私にとっては武蔵小杉に住んでいた学生時代に南武線から京王線に乗り換えるための駅で、ホームの立ち食いそば屋さんの美味しそうな匂いにそそられつつも、うら若き乙女には立ち食いなど考えられなかったそんなセピア色の思い出の地。

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