福島県会津若松市の百名城の一つ若松城(鶴ケ城)です。若松城は、会津若松市街地南側にあり湯川右岸台地西端に本丸、東側に二の丸、三の丸、台地下に北出丸、西出丸を配し東西1.8㎞南北1.3㎞の規模を有していました。明治7年に天守閣を始めすべての建物が取り壊されましたが、昭和41年に現在の天守閣を再建、また黒鉄門なども復元され、鶴ケ城公園として整備されています。会津を領した佐原氏が、故郷の相模国三浦郡芦名に因み芦名氏を称し、この地に1384年7代直盛のとき築城し黒川城と称したのが始まりです。1589年伊達政宗に摺上原の合戦で芦名氏は敗れ、伊達政宗の城となりますが、小田原北条氏を平定した豊臣秀吉が、政宗から会津を召し上げ蒲生氏郷に与え、1592年蒲生氏が近世城郭に改造、名も蒲生氏の出身地にある「若松の杜」に由来する若松城と命名。1593年7層の天守閣が完成、鶴ケ城に改名したと言われています。氏郷の子秀行の時、御家騒動のため転封になると、上杉景勝が120万石で会津に入国。しかし、1600年関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対したため米沢に移されます。その後蒲生氏秀行、そして加藤嘉明が入城。加藤氏は7層だった天守を5層に改築。その加藤氏も改易となり、1643年保科正之が23万石で会津に入っています。正之は二代将軍秀忠の四男で保科家の養子となっていたもので、三代正容のとき松平氏を称しています。幕末、会津藩松平氏は京都守護職となり新撰組を配下に討幕派の薩長浪士を取り締まったことから、明治維新で新政府から征討対象とされたため、会津藩は、国境の会津へ入る母成峠・中山峠・勢至堂峠・日光口の内、主要街道であった中山峠に主力を置き守備。しかし新政府軍は手薄な母成峠を主力部隊で攻めわずか一日で峠を突破、会津藩は予備隊の少年兵である白虎隊まで前線に投入しましたが戦線を突破され、新政府軍に会津若松城下への突入をゆるし城下は炎上。これを見た白虎隊生き残りは落城したと思い飯盛山で自刃したと言われています。会津藩は3万の新政府軍に囲まれ若松城に前線から撤退した藩兵3千と婦女子2千で1ケ月籠城したものの、力尽き降伏開城しています。
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