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夏の雪だるま

戊辰戦争激戦の城 (2015/11/01 訪問)

福島県会津若松市の百名城の一つ若松城(鶴ケ城)です。若松城は、会津若松市街地南側にあり湯川右岸台地西端に本丸、東側に二の丸、三の丸、台地下に北出丸、西出丸を配し東西1.8㎞南北1.3㎞の規模を有していました。明治7年に天守閣を始めすべての建物が取り壊されましたが、昭和41年に現在の天守閣を再建、また黒鉄門なども復元され、鶴ケ城公園として整備されています。会津を領した佐原氏が、故郷の相模国三浦郡芦名に因み芦名氏を称し、この地に1384年7代直盛のとき築城し黒川城と称したのが始まりです。1589年伊達政宗に摺上原の合戦で芦名氏は敗れ、伊達政宗の城となりますが、小田原北条氏を平定した豊臣秀吉が、政宗から会津を召し上げ蒲生氏郷に与え、1592年蒲生氏が近世城郭に改造、名も蒲生氏の出身地にある「若松の杜」に由来する若松城と命名。1593年7層の天守閣が完成、鶴ケ城に改名したと言われています。氏郷の子秀行の時、御家騒動のため転封になると、上杉景勝が120万石で会津に入国。しかし、1600年関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対したため米沢に移されます。その後蒲生氏秀行、そして加藤嘉明が入城。加藤氏は7層だった天守を5層に改築。その加藤氏も改易となり、1643年保科正之が23万石で会津に入っています。正之は二代将軍秀忠の四男で保科家の養子となっていたもので、三代正容のとき松平氏を称しています。幕末、会津藩松平氏は京都守護職となり新撰組を配下に討幕派の薩長浪士を取り締まったことから、明治維新で新政府から征討対象とされたため、会津藩は、国境の会津へ入る母成峠・中山峠・勢至堂峠・日光口の内、主要街道であった中山峠に主力を置き守備。しかし新政府軍は手薄な母成峠を主力部隊で攻めわずか一日で峠を突破、会津藩は予備隊の少年兵である白虎隊まで前線に投入しましたが戦線を突破され、新政府軍に会津若松城下への突入をゆるし城下は炎上。これを見た白虎隊生き残りは落城したと思い飯盛山で自刃したと言われています。会津藩は3万の新政府軍に囲まれ若松城に前線から撤退した藩兵3千と婦女子2千で1ケ月籠城したものの、力尽き降伏開城しています。

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市街地の城 (2016/08/19 訪問)

福島県いわき市の磐城平城です。いわき市はフラガールでも有名ですが、震災により多くの建物が被害を受けたほか、原発事故発生により一時市民の半分が避難したとされますが、放射能の影響が低いことが分かり原発周辺の避難民などが定住し現在は復興し人口が増えたと言われます。1602年徳川重臣鳥居氏がこの地に10万石で入封し前領主岩城氏の大舘城に入城しましたが、1603年新城の築城を開始、十数年の年月をかけ1614年完成させ磐城平城と命名してます。北側の沢を堀にするため丹後という老人を人柱とし完成させたため、この堀を丹後沢と呼ぶようになったと言われます。1622年鳥居氏が山形20万石へ転封すると内藤氏が7万石で入封、1747年には井上氏6万石、1756年安藤氏が5万石で入封し明治維新を迎えています。戊辰戦争では東北諸藩と奥羽列藩同盟に参加、7月13日に新政府軍の攻撃を受けその日のうちに敗れ、城は炎上しています。城は、いわき駅北側の物見岡と呼ばれる丘陵に本丸を中心に北東に二の丸、北西に三の丸、西側に大手曲輪、大手外曲輪、杉平曲輪を配し周囲を水堀が囲み東西500m南北800mの規模とされます。現在城跡は、市街地に呑み込まれ本丸を含め私有地となっており遺構はほとんど消滅、本丸北側に一部石垣と堀が残るのみです。本丸は私有地のため普段は開放していませんが、月に数日はイベントで中に入ることができるようです。城周辺に駐車場はありませんので、いわき駅駐車場へ駐車し駅の南北通路で駅北側へ渡ると、正面に見える丘が磐城平城址です。

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相馬野馬追 (2016/08/19 訪問)

福島県相馬市の相馬野馬追でも有名な中村城です。中村の地は800年頃坂上田村麻呂が菅原実敬に館を築かせたのが始まりとされます。のちに1300年代から1543年まで中村氏の館が置かれますが、1563年相馬氏が支配下におさめ中村館に城代をおいたとされます。江戸時代に入り1611年中村館に新城を築き、それまでの小高城から移り相馬氏6万石の居城として明治維新まで続いています。城は宇多川左岸の丘陵に本丸を中心に二の丸、三の丸、岡田館など複数の郭を配し、周囲に水堀を廻らし東西600m南北650mの規模とされます。当初は本丸西南隅に天守閣がありましたが、1670年落雷により炎上。時の藩主は領民に負担をかけないため再建をゆるさず、その後も相馬藩はその方針を堅持し明治を迎えています。戊辰戦争では大藩である仙台藩に従い奥羽列藩同盟に参加したものの本意では無く、駐留していた仙台藩兵の撤退にあわせ政府軍に降伏、城下は戦火から免れましたが、城内の建物は新政府軍により取り壊され、唯一大手一の門が遺構として残っています。

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愛姫生誕の城 (2016/08/19 訪問)

福島県三春町の三春城です。この地方を領した田村氏が郡山の守山城から1504三春に本拠を移し築城したとされます。田村氏の領地がある仙道地方は、会津芦名氏や米沢伊達氏、常陸佐竹氏など周辺大名の争奪の場となり、力の劣る田村氏はそれら大名と婚姻関係を結ぶなどして領地を守っています。1568年の芦名氏侵攻に対しては伊達氏と結び対抗、1573年の佐竹氏侵攻に対しては芦名氏と結び撃退。しかし、芦名氏と佐竹氏が同盟を結び周辺豪族の二本松氏などもこれに従い、田村氏と婚姻関係のあった相馬氏も、敵対関係にあった伊達政宗へ田村氏が娘を嫁がせ同盟を結んだことから、佐竹氏と連合を結び、伊達・田村氏とその他大名連合の戦いは1585年人取橋で勃発、兵力で劣る伊達・田村氏が劣勢を跳ね返し勝利しています。1586年田村氏当主清顕が死去、男子がなかったため田村氏家臣団は伊達派と相馬派に分裂。相馬氏は三春城へ入城しようとしますが、伊達派が阻止。その後、伊達政宗が三春城へ入城し相馬派を一掃、清顕の甥の宗顕を城主にしています。しかし、小田原征伐へ田村氏は参陣しなかったため改易となり、その後領主が数々替わり1645年秋田氏(戦国時代に秋田県中央部から県北を領した安東氏)が5万5千石で入封し明治維新まで続いています。戊辰戦争では秋田藩は奥羽列藩同盟に近隣諸藩と加盟しますが新政府軍の奥羽攻撃が始まるといち早く新政府軍に降伏、城下が焦土となることを救っています。城は三春町の中心部の標高407mの大志多山に築かれた山城で本丸、二の丸、三の丸を配し、麓に家臣屋敷が配置され、城には天守の代わりに三層三階櫓があったとされます。現在城跡は三春小学校裏手に城山公園として整備され桜の名所となっています。

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二本松少年隊戦いの城 (2015/11/01 訪問)

福島県二本松市の百名城の一つ二本松城です。二本松城は市街地の北、標高345mの山頂に築かれた本丸と山麓に城主の石垣造りの城館を置き、中腹には家臣の屋敷を配した戦国期の城郭に近い城造りとなっています。いつも山麓には霧がたなびくため霧ケ城とも呼ばれていました。山頂へ登ると本丸も立派な石垣造りとなっており、感動ものです。二本松城は1441年にこの地を領した畠山氏により築城されたと言われています。戦国期二本松領は、伊達・芦名の2大勢力の間にあり、当初は芦名氏に従っていましたが、伊達氏の南下が激しくなると伊達氏に従っています。伊達政宗が伊達氏当主になると、二本松領に近い小浜城大内定綱が伊達氏に従うふりをしながら離反。このため、伊達政宗は大内討伐の軍を起こし、これに対して畠山氏当主義継は芦名氏と共に大内氏に味方。しかし、小浜城は落城し二本松城に伊達軍が迫ったため1585年畠山氏は伊達氏に降伏することになりました。伊達側からの降伏の条件は、領地を大幅に没収という過酷な処分であったため、義継は降伏を許してくれたお礼と称し伊達政宗の父輝宗に参上し、突然輝宗を人質にとり逃走。これを知った政宗は逃走を阻止するため父と義継達に向かって鉄砲を撃たせたため、義継と共に父輝宗も亡くなっています。この時政宗19歳。政宗はすぐに二本松城攻めを開始しますが、佐竹氏の援軍もあり二本松城は伊達軍を撃退。しかし、翌年には城内から内通者が出て二本松城は落城してしまいす。その後、二本松城は伊達領となりますが、豊臣秀吉により蒲生領、上杉領とされ、その後、徳川時代には藩主が変遷したのち、1643年丹羽氏が城主となり明治維新まで続いています。明治維新の戊辰戦争では奥羽列藩同盟に参加しますが、白河へ多数の藩兵が出兵した隙をつかれ、新政府軍に手薄になった二本松城を攻められ、1日で落城しています。この際、兵力を補うために動員された二本松少年隊が奮戦したと伝えられています。麓の三の丸駐車場から山頂の本丸まで徒歩で登りましたが、本丸近くまで車でも登れます。

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伊達成実の城 (2016/08/19 訪問)

福島県福島市の大森城です。いつ頃築城されたか定かではありませんが、1548年伊達第14代稙宗の三男実元が大森城主となり、1568年嫡子成実が生まれています。のちに武の成実と呼ばれた伊達政宗の片腕となる武将です。大森城は仙道・相馬地方への侵攻の拠点として重要視され伊達軍がここから出陣しています。大森城主となった成実は仙道攻略の功績により二本松城主となり、大森城には1586年片倉景綱が置かれています。智の景綱と呼ばれた成実と並び伊達家双璧です。その後伊達氏の会津攻略により南陸奥は伊達氏の領国となりますが、豊臣秀吉の奥州仕置により会津は蒲生氏の領地となり1591年大森城には蒲生氏家臣の木村氏が入城しています。1593年木村氏は杉目城へ居城を移し大森城は廃城となりました。1598年上杉氏が会津を領すると大森城に家臣栗田氏を城代として入れています。しかし1600年関ヶ原の戦いでは栗田氏は徳川氏に内応したため上杉氏に討たれ、代わって芋川氏が城代となっています。1664年上杉藩主綱勝が急死、跡継ぎ問題から上杉藩は領地半減となり大森地方は幕府領となったため廃城となっています。城はJR福島駅から南西4kmに位置し、米沢街道と会津街道が分岐する交通の要衝である標高147mの独立丘陵に築かれた山城で、本丸、北側に二の丸、南側に出丸を配し東西150m南北350mの南北に細長い城となっています。城は現在大森城山公園となり遺構はほとんど残っておらず本丸南側の空堀が残るのみで、本丸跡に城址碑、二の丸跡北端に模擬櫓があり、内部に城鳥瞰図と城説明板があります。

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相馬氏の城 (2016/08/19 訪問)

福島県南相馬市の相馬野馬追の祭礼三妙見社の一つ小高神社がある小高城です。南相馬市の小高地区は2016年7月に避難解除になったばかりで、大型スーパーは閉鎖されており、複数の場所で道路沿いの除染作業で片側通行となっていました。住民の方々の苦労が慮られます。奥州征伐の功によりこの地方を与えられた相馬氏は、1323年内陸の太田城に入りましたが、1326年小高城を築き居城としました。南北朝時代には北朝方についたため奥州軍を率いた南朝方の北畠氏に攻められ、小高城は落城。しかし、一族の奮戦で奪還しています。戦国時代に入ると相馬氏は勢力を拡大し北方の伊達氏と合戦を繰り返し、伊達氏の金山城や丸森城を攻略。しかし、1583年から伊達氏の反攻により金山城・丸森城を奪還され、次第に小高城へ迫ります。このため相馬氏は城を枕に討死を覚悟しますが、1590年小田原北条氏を降伏させた豊臣秀吉が停戦を命令、滅亡を免れています。その後、徳川幕府より本領安堵された相馬氏は1611年中村城を築き、移ったため廃城となっています。城は小高川の左岸丘陵に築かれた平山城で、本丸、馬場郭、北二の丸、南二の丸からなり東西200m南北120m程の小規模な造りとなっています。現在城は、本丸跡に小高妙見社があり小高神社となっています。

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南会津の城 (2016/06/19 訪問)

福島県南会津町の鴫山城です。源頼朝の奥州攻めの功によりこの地を与えられた長沼氏が1399年頃築いたとされます。長沼氏は南の宇都宮氏と勢力争いをするとともに、北の会津芦名氏とも衝突を繰り返しますが、1566年の芦名氏との合戦に敗れて以降は芦名氏に従っています。会津芦名氏最後の当主義広の時、長沼氏は伊達氏から養子を迎えようとしたため、伊達氏と敵対していた芦名氏は鴫山城を大軍で襲い養子縁組をあきらめさせたとされます。これに反発した長沼氏は1589年芦名氏と伊達氏の摺上原の合戦には参陣はしたものの合戦が始まる前に引き上げ、合戦に勝った伊達氏に服属の使者を送り本領安堵されています。その後、長沼氏は伊達氏に抵抗する久川城河原田氏と交戦し、1590年長沼氏当主盛秀は討死してます。その後、鴫山城は会津を領した蒲生・上杉氏などの家臣が城主となりますが、加藤氏が会津の領主になると1627年廃城となっています。そして1643年この地は幕府領となり現在の役場に陣屋が置かれこの地を支配したとされます。城は会津から関東へ抜ける日光街道の交通の要衝標高750mの愛宕山山頂から北斜面に築かれた山城で、山頂の詰の城と中腹の内城、大手門前の根小屋と呼ばれる家臣屋敷からなり東西300m南北700mと言われます。大手門部分は蒲生氏時代に石垣で造られ、現在石垣が復元整備されています。城は旧南会津郡役所からも登れますが、大手門に続く大鳥居前にも駐車スペースがあり、今回はそちらから大手門を通り詰の城の愛宕神社へ登り、東尾根の二重土塁を下り、横へ歩き上・下千畳から反対側の西外壁塁へ回り、大手門へ戻るコースで所要時間50分でした。

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蘆名氏の要害城 (2017/04/30 訪問)

続百名城に選定された福島県会津美里町の向羽黒山城です。1561年葦名全盛時代を築いた盛氏により8年の歳月をかけ築かれたとされます。盛氏は会津北部の領内をまとめ上げると、周辺を戦いにより新潟東部から会津地方全域、福島中通り地方を勢力下に置き中興の祖と呼ばれます。城ができると盛氏は家督を唯一の男子盛興へ譲り向羽黒城へ隠居。しかし1574年盛興は世継ぎを残さず病死、二階堂氏からの人質であった盛隆を養子としますが、家臣に惨殺され、跡継ぎに問題を抱える中盛氏は1580年60歳で没します。その後、常陸佐竹義重の子義広を当主に迎えるものの、1589年伊達政宗の侵攻を受け摺上原の合戦に敗れ会津支配に終止符が打たれます。城は黒川(会津若松)城から南西6㎞の標高408mの山頂に一曲輪を置き、周辺に二曲輪、三曲輪の他複数の曲輪を配し、東西1.4㎞南北1.5㎞の東北随一の規模とされます。城は西の越後方面や南の下野方面からの攻撃から守るための戦略上の詰めの城とされ、山城の周辺に城下町が置かれたとされます。葦名氏が去ったあとも、伊達・蒲生・上杉氏が改修を繰り返し会津地方を守る重要な城として整備されたと言われます。しかし、1601年関ヶ原の戦い後、廃城となっています。城麓の会津美里町インフォメーションセンターに無料パンフレットが置いてあります。

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蘆名氏滅亡の発端の城 (2016/07/16 訪問)

福島県猪苗代町の猪苗代城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、芦名氏一族がこの地を与えられ猪苗代氏を称し、この城を築いたとされます。猪苗代氏は宗家芦名氏とたびたび争い、やがて芦名氏に従ったものの、伊達氏の勢力が強くなると伊達氏に帰順。これを怒った芦名義広は1589年1万6千の兵を率い猪苗代城へ迫り、これを聞き伊達政宗も2万三千の兵を率いて、両軍は摺上原で激突。当初西風により風下の伊達軍は苦戦していましたが、東風に変わると形勢は逆転。芦名方は総崩れとなり、芦名義広は黒川城へ撤退。伊達軍が迫るや佐竹氏を頼って落ち延びたとされます。伊達氏が会津を離れると猪苗代氏も従い、会津を領した蒲生氏が猪苗代城を近世城郭に改修したとされます。その後、領主は次々と替わり1643年会津に保科氏が入封すると城代が置かれ、若松城が鶴ケ城と呼ばれたことから亀ケ城と呼ばれたとされます。戊辰戦争では新政府軍が国境を突破すると時の城代高橋氏は城を焼き払い若松城へ撤退。これにより廃城となっています。現在は亀ケ城公園として整備され、石垣や土塁などが残り往時を偲ばせます。城は猪苗代湖北岸の磐梯山麓の半独立丘陵に築かれた平山城で頂部に本丸、二の丸、周囲に帯郭を配し土塁で囲まれ東西200m南北250mの規模となっており、大手口は石垣で固められた桝形虎口となっています。猪苗代城から北西に続く丘陵には猪苗代氏の隠居城と言われる鶴峰城があり、近世城郭へ改修されなかったため中世城郭の面影が残っています。

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しろえ

【冬とお城】木曾義仲が居城したと伝えられている城 (2019/01/19 訪問)

本日3城め。
頂上までの直進コース(約300m)が約10分ということで、こちらを登ることにしました。
石川の冬にしては珍しく風の無い穏やかな晴れの日。
ただ、地面は前日までの雨で濡れているところもあり、所々滑りやすく気をつけて歩いた。
ちなみに周回コースは1Kmあります。

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しろえ

【冬とお城】加越国境城跡群のお城と朝日山城? (2019/01/19 訪問)

本日1城め。
加越国境城跡群及び道のひとつ。(国指定史跡 平成27年10月7日指定)
石川の冬にしては珍しく風の無い穏やかな晴れの日。



土状がとても柔らかい。
だからなのか、近くの朝日山城跡あたりの山では一面に採砂場となっており、城郭の面影は一切無かった。
自分的に2城めとしたが、こちらに載っていないのが頷けた。

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ぴぽぽ

散策というより登山でした (2019/01/19 訪問)

城EXPOで、いただいたパンフレットを整理していて面白そうなのでいってみました
パンフの中に、園内の登山道、クサリ場の文字で、覚悟していきました
本城曲輪を目指して、行きは、ちょっと険しいコース、帰りはらくらくコースでいきました
城坂から、男坂、これは、きつい・・登って折れて、登って折れて、本城と鷹射場のT字路に到着するまで40分くらいかかります
この道を当時の人は、登ったのかと思うと、感慨深かったです
当時の建物は、ないけど、土塁、堀、曲輪と曲輪を結ぶ細い道、引橋があった場所は見ごたえありました
城から見る景色も素敵でした

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夏の雪だるま

大崎氏の居城 (2018/07/01 訪問)

宮城県大崎市の大崎氏20万石の戦国期末期の居城、名生城です。いつ頃築かれたかは定かではありませんが、南北朝時代に斯波氏により築かれたと伝えられます。斯波氏は大崎氏を名乗り奥州探題に任ぜられ大崎地方に大きな勢力を持ちましたが、度重なる内紛により次第に勢力を失い、戦国の1560年頃には伊達氏が奥州探題に任ぜられたことにより、地方大名に転落。1588年大崎氏内紛を名目にした伊達軍1万2千の大崎領侵攻を撃退し、大崎氏の最後の意気を示しますが、1590年小田原の戦いに大崎氏は参陣せず改易・滅亡しています。その後、領地は豊臣秀吉家臣木村吉清に与えられ、名生城には吉清の子、清久が入城しますが、1591年葛西・大崎一揆が起こり、名生城は一揆に奪われ一揆の拠点となります。しかし、豊臣秀吉から一揆鎮圧の命を受けた蒲生氏郷の攻撃により城は落城。その後、伊達氏の米沢地方から大崎・葛西領への転封の検分役として検地と岩出山城改修を命ぜられた徳川家康が名生城に立ち寄った記録を最後に文献に現れなくなったため間もなく廃城になったと考えられます。名生城は、大崎氏の領地中心部の江合川の西岸の丘陵に築かれ、本丸、二の丸、三の丸、軍議評定所丸、内舘、北館、小館の7つの郭とそれぞれを囲む土塁・堀からなっていたとされ東西1km南北1.2kmの規模とされます。現在は、北館は浄泉院、その他は耕作地と点在する住宅などになり遺稿はあまり残っていません。小館跡に大崎神社があり大崎氏の城跡の名残を見せています。また、本丸跡には8世紀頃政庁があったとされ国指定遺跡の名生館官衛遺跡の説明板が設置されています。

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刑部

天下普請の城 (2018/05/04 訪問)

天守が無かった城、石垣素晴らしい城です。個人的には馬出しをしっかり残していたら良かったと思います。

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夏の雪だるま

伊達氏敗北の城 (2018/07/01 訪問)

宮城県加美町の中新田城です。1354年奥州管領に任命され奥州に下向した足利氏一門の斯波家兼の子孫は大崎氏を称し、室町から戦国時代、奥州探題として大崎五郡(加美・志田・玉造・栗原・遠田)20万石を支配し15世紀後半には、中新田城を本拠としたとされます。戦国末期の義隆の時代には周辺大名との争いが激しくなり、本拠を名生城に移しています。1588年大崎家臣の反乱に乗じて伊達政宗は留守政景・泉田重光を大将に大崎領に侵攻。留守政景が5千の兵を率い大崎方の城を牽制するなか、泉田重光が7千の兵で大崎領深く中新田城を攻撃、一気に名生城まで攻めようとしますが、中新田城代南條氏は兵1千5百を率い激戦を繰り広げ、二の丸を落とされるも本丸を死守、夕刻になっても落城しない中、大雪となり形勢逆転、伊達軍は撤退の中、殿軍の小山田氏が討死、泉田氏は包囲される中、大崎領内の味方の新沼城へ籠城、別動隊留守氏も攻撃を受け伊達領へ撤退。伊達氏は大崎氏に人質を出すことで和議を結び、泉田軍の引き上げを許されています。その後、1590年大崎氏は小田原不参を理由に豊臣秀吉から所領没収の処分を受け250年の歴史をとじています。中新田城は、羽後・中羽前街道が交わる交通の要衝に築かれ、規模は東西320m南北250mで、周囲に堀と土塁を築き、その内側に東西130m南北110mの内堀に囲まれた本丸を配した平城となっています。現在は、国道457・347号の交差点の多川稲荷神社や長興寺駐車場が本丸跡、二の丸北側は八幡神社・長興寺・瑞雲寺、二の丸南側は住宅地となり、遺構としては二の丸北側の堀跡が残るのみとなり、八幡神社に裏面に城由来が彫られた城址碑と斯波家兼像が立っています。

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夏の雪だるま

大崎反乱の城 (2018/05/13 訪問)

宮城県大崎市の古川城です。室町時代大崎氏7代教兼の子がこの地に居館を構えたのが始まりと伝えられ、その後子孫は古川氏を名乗っています。1534年泉沢城主新井田氏が主君大崎義直に叛くと古川城主持忠も叛乱に荷担、1536年6月叛乱鎮圧のため大崎義直は伊達稙宗に救援を求め、それに応じた稙宗は3,000騎をもって大崎領に侵攻、古川城は兵1千で籠城するも伊達・大崎連合軍4千騎に攻められ落城、古川持忠は自害しています。その後、一族の古川弾正忠隆が城主となりますが、1590年豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏は滅亡、大崎・葛西領は木村伊勢守吉清に与えられ、古川城には吉清の子である清久が入城しますが、木村氏は葛西・大崎一揆により失脚。木村氏の後、この地は伊達政宗に与えられ、古川城は家臣鈴木氏が城主と成り、鈴木氏はその後3代続きますが1645年、桃生郡深谷に転封となり古川城は廃城となっています。古川城は大崎平野の中心部に位置し、本丸(古館)と南側に二の丸・三の丸(西館)、北西に外郭を配し、東側を流れる緒絶川を堀とし、周囲が土塁と堀に囲まれた東西200m南北600mの規模で、大崎地方の平城では大規模な城であったとされます。本丸は古館とも呼ばれ、現在は古川第一小学校、二の丸・三の丸は住宅地、外郭は古川中学校となっていて戦前は土塁や堀が残っていたそうですが、現在遺稿は残っておらず、小学校正門脇に古川城址の説明板があるのみです。また、近くの瑞川寺に鈴木氏が移築したとされる搦手門が山門として残っています。緒絶川に藤棚が造られ、5月には藤まつりが開かれています。

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伊達・相馬氏の境目の城 (2016/05/14 訪問)

宮城県丸森町金山城から東10km程にある坂元町の坂元城(蓑首城)です。伊達氏の重臣亘理氏家臣坂元俊久が従来の居城愛宕山城を相馬氏に攻撃され父隆俊が討死したことから、愛宕山城を廃城とし新たに1572年築いた城です。その後、1591年亘理氏が涌谷城へ転封となったことから坂元氏も亘理氏に従い、その後数氏が城主になった後、大條氏が2千石で城主となり蓑首城と改名、幕末まで続いています。城は陸前浜街道が城下を通り相馬領へつながる交通の要衝で丘陵先端部に本丸、丘陵続きを大空堀で守り、北側山麓に二の丸、三の丸を配し周囲に水堀を巡らし、東西200m南北350mの規模といわれます。現在城址は、本丸が坂元神社、二の丸が坂元小学校などになり、三の丸が内山邸等になっています。門扉がなくなっていますが、内山邸の門として城の大手門が残っています。

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夏の雪だるま

伊達・相馬氏の攻防の城 (2016/05/14 訪問)

宮城県の福島県境近く丸森町の金山城(金山要害)です。丸森町の中央東寄りの金山の町並みの東南部にある独立丘陵の館山が金山城です。阿武隈川支流の東岸の標高117mの山頂に本丸と石垣があり、周囲に二の丸を、東側に三の丸を配した東西400m南北800mに及ぶ山全体が城跡となってます。福島県相馬野馬追で有名な相馬氏の北の重要拠点として、1560年頃相馬氏家臣の井戸川氏により築城されたとされます。その後戸川将監などが城主となりますが、1576年以降から伊達氏との間でこの城をめぐり激しい攻防があり、長い攻防の末8年後の1584年落城、伊達政宗に帰属しています。この城攻めに手柄の有った伊達家臣の中島宗求が2千石で城主となり相馬氏に備え新たに石塁・土塁・堀切を整備、強固な城に改修。本丸には居館、周辺の平場には兵具倉、煙硝倉、馬屋を配し、これを囲む土塀や埋門、陸橋を設け、山麓に家中屋敷や町場が配置され、伊達藩21要害の一つとして幕末まで続いています。城跡は現在お館山公園となっていて登り口に駐車場があります。

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刑部

続100名城 黒井城 (2018/05/04 訪問)

山頂付近に石垣があります、私の好きな野面積みの石垣! 駐車場に案内板があり 素人の私でもわかりやすく解説、とても良い城址です。

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