永正元年(1504)小笠原氏の一族であった島立貞永が築いた深志城が松本城の前身です。元々この場所には坂西氏の館があったとされ、この頃の深志城の成立過程は不明な点が多いです。信濃守護、小笠原長時を林城から駆逐した甲斐の武田晴信(信玄)は、天文19年(1550)深志城の改修を行い信濃攻略の前線基地としました 。天正10年(1582)武田家滅亡後小笠原貞慶が深志城へ入り松本城と改めましたが、豊臣秀吉の命で関東へ移封となった徳川家康に従って小笠原氏も下総古河3万石で移って行きました。代わって城主になったのが石川数正です。徳川家康の家臣であった石川数正が突如豊臣秀吉に翻り、その功績で和泉国より8万石で松本へ移って来ました。松本城天守はこの石川数正、康長父子の代に創建されたと考えられていて、現存する12の天守を擁する城郭の中では唯一の平城でもあります。
石川氏改易後小笠原、戸田と城主が替わり、寛永10年(1633)越前大野より松平直政が7万石で松本城へ入封。従兄弟である三代将軍徳川家光を迎えるために辰巳附櫓と月見櫓を増設しました。家光は上洛の帰途中山道経由で善光寺を参詣。その足で松本入りする内意が幕府からあったためのものでしたが、結局家光の松本入りは実現しませんでしたが、今に見る連結複合式の松本城天守が誕生しました。大天守、乾小天守、渡櫓は安土桃山時代の様式、辰巳附櫓と月見櫓は江戸時代の様式と、東大寺の三月堂(正堂は天平初期の建築、礼堂は鎌倉時代の建築)のように異なった時代の建築美を同一視点で見ることが出来るのも松本城の魅力です。
松本城との付き合いは、極端な言い方をすれば僕が生まれたその時からと言えなくもないです。ほぼ半世紀近くの付き合いになりますが、改めてその魅力を意識したのは10年ほど前からです。五層六階の大天守は漆喰の白壁に黒漆の下見板が付属する統一した色彩でその威容を際立たせています。装飾性豊かな大天守の千鳥破風は北側は1か所だけ無い所があり、周囲から目立つ位置には唐破風とセットで組み込まれている事が分かります。日本の屋根とも言われる北アルプスの峰々と天守とのコラボは絶好の撮影ポイントで、西に百名山の常念岳、東にこれまた百名山の美ケ原に囲まれ百名城の松本城が鎮座するこの自然風景との調和も素晴らしいです。
松本城の現存遺構は、大天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟(いずれも国宝)ですが、二の丸御殿跡には慶応3年に落成した御金蔵があります。これは明治9年二の丸御殿が焼失した際にも類焼を免れた貴重な現存遺構です。中には入れませんが近くまで行けるので足を運んでみるのもいいかも知れません。
四季を通じて様々な表情で出迎えてくれる松本城。僕にとっては大切な心の拠り所でもあります。
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