八木城大河ドラマ出るかなー②
(2020/02/11 訪問)
麓や人物の話を少し。
昔、暴れ川であった大堰川(桂川)は麓の龍興寺(りょうこうじ)前の道路辺りを流れていたらしく、多くの寺院や塔中が配され、尼寺までも抱える妙心寺派の大寺院であった。現在もおびただしい石垣が残され、内藤氏の居館跡と伝わる東雲寺の入口は枡形となっている。
有事は居館から真っ直ぐの道を駆け城に詰めたと伝わっている。
山頂からは北部が見えないが鶴首山城が配され監視できる体制であったらしい。
さて、内藤家だが、細川の被官であり丹波を支配していたが、松永久秀の弟が養子で入り内藤宗勝を名乗り版図を広げたが、若狭攻めで失敗し、黒井城攻めで討死したことで没落していく。
家督争いに敗れたジョアンは八木城落城の難に遭わず将軍足利義昭に帯同し京から堺を経て鞆の浦に逃れる。ここで小西行長に出会う。
小西に遣えることとなったジョアンは朝鮮の役(文法の役)で共に外交官として活躍し停戦交渉に臨むが秀吉に嘘がばれ怒りを買うがなぜか生き延びる。
その後、主君小西行長は関ヶ原の戦で討死するがジョアンは難を逃れ有馬、加藤の後に前田家の客将となる。この時高山右近とともに高田にいたのではと言われている。
徳川家康がキリシタン追放令ひ発すると高山右近とともにマニラに渡り、右近は2年で亡くなったがその後12年に渡り日本人町の発展に尽くし天命を全うしている。
キリシタンということで家系図からも抹消されていたが近年の研究で様々なことが判明してきており、ジョアンの甲冑は二代将軍秀忠がイギリスに贈りロンドン塔に現存している。
八木城は昨年赤色航測図を作成した成果などを園部城域内にある南丹市文化博物館で3/29(日)まで展示している。
命が軽んじられていた時代に四度の難を逃れ海外を股にかけ信仰に生き抜いた人生は習うべきものがある。是非大河ドラマで取り上げていただきたい。
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