三河・遠江地方で、「北遠」と言うと主に天竜川・信州街道を中心に分布している城で標高も高く、南北朝時代に活躍した城も多い。勿論その後は武田対徳川攻防の中心地でもある。「奥三河」と言うと、僕は主に別所街道沿いをイメージするが、北遠とはかなり違う雰囲気だと思っている。まず、別所街道は、豊橋から別所まで標高が200〜300程度でさほど高くなく、南北朝時代にはあまり出てこなく、築城もどれも戦国時代で、城もこじんまりとしている。
ただ、三河・遠江・信濃に接しているため、武田対徳川の攻防ではそれぞれ城を守る地元豪族達はその時々で厳しい選択を迫られた地域である。
今回は、天竜東栄線から峠を越えて、鶴ケ城→亀ケ城→別所城→裏鹿城へ行った。
さて鶴ケ城だが、今川系の高根城主奥山氏築城。ここを破られると遠州に入られてしまうが、桶狭間直後の徳川方についた別所城主伊藤氏の攻撃に対して、城主の鶴山氏は裏鹿城の日名地氏にSOSをだしたが、日名地氏は信濃に接しており対武田で精一杯で兵を出せず、守りきれなかった。亀ケ城の城主も伊藤氏だが、別所伊藤氏との関係は不明。いずれにしろ、鶴ケ城・亀ケ城とも今川方で対織田であったから一族ではなかろうか。
ところで、この四城とも中央構造線上にある。武田信玄の西侵あたりでは、このあたり武田方についたが、あまり縄張りに武田方の雰囲気を感じないのは城の構造が河岸段丘だけでなく断層の影響もあるのではないかと想像しながら回り、楽しめた。
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