椎津城から転戦。車で35分くらいで着きました。
真里谷城跡入口(35.347768、140.108880)から入り、真里谷城の駐車場(35.344330、140.111526)に駐車して攻城しました。
1456年(康正2年)当時上総国は上杉政憲の支配地であったとされ、これを敵視する古河公方足利成氏の命を受けた武田信長が上総国に進出します。
信長は上総国進出の足がかりとして真里谷城と庁南城と併せて築城し、その後は真里谷武田氏(その後の真里谷氏)の居城となりました。
その後、武田信長の孫の中でも真里谷城に本拠地を構える武田信興から姓を「真里谷」に改めます。
真里谷氏は真里谷信興から信勝、信清の3代の間に最盛期を迎え、真里谷信清(入道恕鑑)の代には対立する原氏が拠る小弓城を攻略し、足利義明を迎えて(小弓公方)、信清自身は「房総管領」を称するようになります。
真里谷信興から数えて4代目真里谷信隆の代に異母弟真里谷信応との間で内争が発生します。
信隆の父である信清から家督を継いだのは庶子の信隆であったのだが、それからまもなく信清の正室が信応を生んだことにより家臣を巻き込んだ後継者問題です。
「嫡子である信応が家督を継ぐのが正当である」と考えた信応派の家臣は足利義明、一族の有力者である真里谷全方の支持を得て、信隆から家督を奪う事に成功し、真里谷城に入城します。
家督を奪われた信隆は北条氏綱庇護の下、椎津城に逃れた後、武蔵国金沢に逃れます。
1538年(天文7年)の第一次国府台合戦の結果、小弓公方方は敗北したことにより信応は失脚し信隆がふたたび真里谷氏当主に返り咲くが、一族の争乱を収める事が出来ず北条氏に臣従するような状況となり、真里谷氏は上総地方の支配力を失います。
この一連の事件を契機に真里谷氏の拠点が真里谷城から椎津城に移ったとされています。以降、この地は北条氏と里見氏の係争地となりました。。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に落城し、そのまま廃城となりました。
現在城址はキャンプ場になっており、本丸跡まで登山道が整備されています。
駐車場前に概念図があり、城山神社➡主郭(千畳敷)➡駐車場➡二の郭➡三の郭➡四の郭➡一杯水➡駐車場と回ってきました。素晴らしい城跡です。
攻城時間は45分くらいでした。
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