次男と二人で行くクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」の4城目は湯築城です。松山城からの転戦です。
2回目の攻城を2020/11に攻城予定でしたが、新型コロナの影響でキャンセルしました。
湯築城は、中世の伊予国の守護であった河野氏が南北朝期から戦国期(14世紀前半〜16世紀末)まで、約250年間にわたって居城としていました。
源平合戦(1180〜1185年)で、河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得たようです。
承久の乱(1221年)で没落するものの、通信のひ孫通有が元冠(1281年)で活躍し、一族の力が復活した南北朝期の通盛の時(1335年前後)に河野郷からこの湯築城へ本拠を移したようです。
その後、有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき近隣の大内・大友・毛利氏などと同盟や縁威関係を持ちつつ、伊予の守護としての地位を確立したようです。
庶子家との争いも克服し、通直(弾正少弼)は、湯築城の外堀を築き(1535年頃)娘婿の村上海賊衆(来島通康)との関係を強化しましたが、後に離反し、一族の力は徐々に衰えていきました。
最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に湯築城を明け渡します。
平安時代末期から戦国期(12世紀末〜16世紀末)までの、実に400年の長きにわたる河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。
天正15年(1587年)、福島正則が城主となるが、程なく国分山城に居城を移したため、廃城となりました。
慶長7年(1602年)、勝山(城山)に松山城の築城が開始され、以降加藤氏(のち蒲生氏、松平(久松)氏)が伊予国松山藩主となります。
建築にあたっては、湯築城の瓦等の建材が流用されたことが発掘調査により判明しています。
道後温泉街近くにある道後公園で、お散歩を楽しんでいる方などもいました。
資料館で「おかご(御駕)」の折り紙をもらいました。いまも持っています。
攻城時間は75分くらいでした。
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