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エグ1394

二本松城 (2019/06/20 訪問)

二本松城へ行ってきました。
二本松城は二本松氏(畠山氏)の居城でしたが、伊達政宗によって攻め落とされています。政宗は片倉景綱、次に伊達成実といった有力家臣を城代としていました。豊臣秀吉による「奥州仕置」以降は蒲生氏郷や上杉景勝が会津若松城に入城し、二本松城はその支城として城代が置かれました。江戸時代には丹羽長秀の孫にあたる光重が入城し、明治維新まで二本松藩主丹羽氏の居城となりました。現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、山上の本丸には天守台が再建されています。また麓に復元された箕輪門近くには幕末の戊辰戦争でふるさとを守るために若い命を散らした「二本松少年隊」の群像があります。

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白石城 (2019/06/20 訪問)

白石城へ行ってきました。
白石城は蒲生氏郷が会津若松城の支城として築いた城ですが、伊達政宗の右腕であった片倉小十郎景綱の居城として知られています。一国一城令が敷かれる中、特例として認められた数少ない城のひとつです。「大櫓」と呼称された天守に相当する三階櫓は明治初頭の廃城令によって壊されましたが、1995年(平成7年)に当時の姿をほぼ忠実に復元されました。戦後の木造復元天守としては高さ、広さとも日本最大級を誇ります。

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白河小峰城 (2019/06/19 訪問)

白河小峰城へ行ってきました。
白河小峰城は日本100名城のひとつで、東北では珍しい総石垣造りの城です。盛岡城、会津若松城とともに東北三名城のひとつにも数えられています。天守相当の御三階櫓は戊辰戦争の際に焼失しましたが、1991年(平成3年)に復元されました。この御三階櫓は数少ない木造復元天守のひとつで、JR白河駅のホームからもよく見えます。

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会津若松城 (2019/06/19 訪問)

会津若松城へ行ってきました。
会津若松城は蒲生氏郷や上杉景勝など著名な大名が城主をつとめた城です。1643年(寛永20年)に保科正之が入封して以降は明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城として用いられ、幕末の戊辰戦争の際には会津戦争の舞台となりました。城址内には会津藩士である西郷頼母、秋月悌次郎らの石碑や銅像があります。現在の天守は1965年(昭和40年)に外観復元されたものですが、さらに2011年(平成23年)に黒瓦を当時と同じ赤瓦に復元しました。また、天守にあるシャチホコは瞳には2カラットのダイヤモンドが埋め込まれています。なお地元では一般的に鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれています。

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会津さざえ堂 (2019/06/19 訪問)

会津さざえ堂へ行ってきました。
会津さざえ堂は寛政8年(1796)福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といいます。(重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」)当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物です。かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていました。 また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。

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大垣城 (2019/05/26 訪問)

大垣城へ行ってきました。
大垣城は「関ケ原の戦い」の際に石田三成らが入城して西軍の根拠地となった城です。その天守は戦前に国宝(旧国宝)に指定されていましたが、1945年(昭和20年)の大垣空襲により焼失しました。現在ある天守は1959年(昭和34年)に外観復元されたもので、中は「関ケ原の戦い」についての資料館になっています。

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岐阜城 (2019/05/26 訪問)

岐阜城へ行ってきました。
金華山(きんかざん)山頂に位置し、1201年に鎌倉幕府執事二階堂行政により初めて砦が築かれたといわれています。岩山の上にそびえる岐阜城は、難攻不落の城としても知られ『美濃を制すものは天下を制す』と言われるほどでした。戦国時代には小説「国盗り物語」の主人公である斎藤道三の居城でもありました。その後、永禄10年(1567年)に織田信長がこの城を攻略し、城主となりました。信長は「井の口」と呼ばれていた地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたといわれています。
天正4年(1576年)に岐阜城を息子信忠に譲るまでの間、「天下布武」の朱印を用いて天下統一の志をかかげ、城下町の復興に力を注ぎました。楽市楽座の保護など当時としては斬新な政策により岐阜城下は大変な賑わいでした。
1600年、関ヶ原合戦の前哨戦の際、信長の孫 秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城し、天守閣・櫓等は加納城に移されました。
現在の城は、昭和31年に復興され、鉄筋コンクリート造り3層4階構造で、岐阜市のシンボルとなっています。城内は史料展示室、楼上は展望台として多くの人に親しまれています。
日没~夜11時まで岐阜城はライトアップされ暗闇の中にその姿が浮かび上がります。

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美濃金山城 (2019/05/19 訪問)

美濃金山城へ行ってきました。
美濃金山城は1537年(天文6年)、斎藤正義が「烏峰城」として築城したのが最初です。その後、織田信長が森可成にこの城を与えた際に「金山城」と改名しました。信長とともに本能寺で討たれた森蘭丸はこの城で生誕しています。安土城の天守とほぼ同時期に建てられたとみられる複合式層塔型2重2階の天守がありましたが、「関ケ原の戦い」直後の1601年(慶長6年)に破城されました。遺構の保存状態も良く、山裾にある公園「蘭丸ふる里の森」からは遊歩道が整備されています。

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岩村城 (2019/05/12 訪問)

岩村城へいってきました。
岩村城は日本三大山城のひとつに数えられる城で、その本丸はもっとも高い海抜717mに位置していました。織田信長の叔母にあたり、絶世の美女だったと伝わる「おつやの方」が女城主として守っていたことでも知られます。岩村城は織田氏と武田氏との境界にある城であったため、たびたび戦火に巻き込まれた城でもあります。遺構の保存状態は良く、現在も石垣や井戸を見ることができます。1990年(平成2年)に表御門や太鼓櫓が復元されました。

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お土産屋 福岡城 (2019/05/12 訪問)

中津川のお土産屋 福岡城へいってきました。

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苗木城 (2019/05/12 訪問)

苗木城へ行ってきました。
苗木城は遠山直廉によって築かれた城です。1万石しかないのに天守を構えた珍しい城として知られています。なお予算がなかったため、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていたそうで、そのために「赤壁城」とも呼ばれています。遺構としては石垣や門跡、堀などが残っており、大手門の扉と柱は中津川市苗木遠山史料館にて展示されています。

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ぴーかる

永井氏城=中途半端・百地丹波城=登城失敗 (2019/09/28 訪問)

【永井氏城跡】
<駐車場他>駐車場なし。付近の田んぼのあぜ道に駐車するしかない。
<交通手段>車

<感想>日帰り伊賀街道攻城の旅2城目。永井氏城跡は百地丹波城跡に行く際に偶然発見したのでついで寄ってみた。
城びとにはないが永井氏城跡は百地丹波城の3㎞程北にある県道53号線と伊賀コリドール道路の交差地点にある。
 
 結果を先に言うと、百地丹波城跡・永井氏城も未登城で失敗してしまった。百地丹波城跡はぼーっとしていたのか城跡の横に伊賀四国八十八石像というのがあって、それを違和感を感じつつ城跡と勘違いしてしまい、永井氏城跡は入口が車道そばで車危ない為に裏側から山を分け行った為に主郭に行けず主郭の横堀までしか到達できず仕舞いでした。ビギナーレベルの失敗になんとも情けない。
 百地丹波城跡と間違えた永保寺四国八十八ヶ所石仏の石仏がすごく可愛くて気に入ったのでそれはそれで良かったです。百地丹波城跡は10/6にリベンジ訪城したので投稿は後日します。

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チェブ

中央本線 富士見駅のうどん。 (2019/09/21 訪問)

雨の長野県、山城は危ないので「先達城」を選びました。
地図を確認すると中央本線の線路近くだったので、山城ではないと確信し向かいました。
、、、車で(笑)
武田 信虎さんが諏訪に侵攻する時、この場所にあった新五郎屋敷をお城に取り立てたそうです。
信玄さんの時は家臣の多田 常昌さんの居館です。
ちなみに常昌さんは長篠の合戦で討死しました。

常昌寺が本丸。一段下がった所も広場で、駐車場かもしれません。
広場、お城のどの部分かは分かりません。
広場の入口、道路沿いに説明板、石碑がありました。
雨だったので奥までは行きませんでした。

この日、この辺りの気温は15度。寒かったので中央本線の富士見駅で、うどんを食べました。
、、、車ですけど。
駅にも駐車場があります。
寒い!この前まで暑かったのに、予想外でした。
立ち食いうどん、駅の中の待合室で座って食べられます。
良い意味で、想像どーりの味。
おいしかったです。

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モト

土塁、空堀が残ってました。 (2019/04/11 訪問)

 城跡を見学するとすぐにそれとわかる空堀や土塁などの遺構が確認できました。
車を階段下のわずかなスペースへ停めました。
そこにすぐに水堀跡は左右に広がります。
階段を上がって本郭へ上がっていきますと広いスペースが土塁に囲まれています。
また、狛犬が置いてありました。
杜はかつてはあったのかはわかりませんが今は狛犬だけです。
う〜ん。
この本郭跡を空堀が囲みます。
この空堀は城跡だという雰囲気満点です。
規模は比較的小さいのでわずかな時間で見学できますし、空堀などの遺構ははっきり確認できる点では行ってとよかったと思う城跡でした。

追伸
う〜ん。
ただ、皆さまの投稿にもありましたが、なんだか暗い印象なのは理解できました。
実際に薄暗いような気もしますし、なんだか薄気味悪い暗さもあります。
遺構を見つけてテンションが上がるはずが、いつもより早足で見学してしまいました。
この感じ今までにない感覚です。
なんでしょうね。

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山口駿河守幻夢斎

平林城跡 (2019/09/30 訪問)

JR平林駅から徒歩20分くらいで、平林城跡の休憩所に着きます。ここに駐車場も備わっています。

この休憩施設、トイレもありますし、平林城跡の発掘成果が展示されていたり、村上市内城跡のパンフレットも設置されています。無料です。

城跡は、草がやや伸びており、引っ付きムシがいっぱいで、草が伸びていない踏み跡のような通路以外は、引っ付きムシだらけになります、

広大な郭を仕切るような土塁、堀状の溝が見られ、主郭である殿屋敷、中屋敷は空堀で囲まれています。また、小川を城内に取り込み自然の堀としているようです。

熊出没情報があり、また、時間的なこともかんがみて、背後の要害城には登っておりません。

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池田城 (2019/05/04 訪問)

池田城へ行ってきました。
池田城は摂津三守護のひとりである池田勝正の居城でした。その後は勝正を追放した荒木村重が伊丹城(有岡城)に移るまで居城としました。その村重が織田信長に謀反を起こした際には池田城には織田軍の陣が張られました。1989年(平成元年)から4年にわたる大規模な発掘調査が実施され、井戸跡や礎石跡など多くの遺構、遺物が発見されています。現在、城址は池田城跡公園として整備されており、模擬大手門や模擬櫓台などの施設が建てられています。

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尼崎城 (2019/05/04 訪問)

尼崎城へ行ってきました。
尼崎城は1617年(元和3年)に入封した戸田氏鉄によって築かれた城です。一国一城令後の築城であり、本丸には4重4階の天守が築かれるなど、5万石の大名には大きすぎる居城でしたが、これは幕府が西国大名の監視を命じていたためです。1635年(寛永12年)に氏鉄が大垣城へ転封となると、替わって入封した青山幸成によって改修されました。1711年(宝永8)以降は桜井松平氏が城主をつとめ、そのまま明治維新まで残ったのですが、1873年(明治6年)に廃城となっています。2015年(平成27年)、旧ミドリ電化(現エディオン)創業者の安保氏が私財を投じて天守を建設することが発表され、2018年(平成30年)11月に尼崎市に寄贈されました。現在は尼崎城址公園内で一般公開されています。

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大阪城 (2019/05/04 訪問)

大阪城へいってきました。
大阪城(正しくは大坂城)は日本でも有数の巨大城郭です。「大坂夏の陣」で廃墟同然となった大坂城(豊臣大坂城)は、1620年(元和6年)に徳川秀忠の命により天下普請によって10年かけて再築されました。豊臣時代の大坂城の跡に高さ数メートルの盛り土をして再建されたため、現在も地下深くに豊臣時代の石垣が埋まっています。現在ある天守は1931年(昭和6年)に復興されたものですが、櫓や門などは江戸時代のものが残っています。天守を中心とした大阪城公園には梅1250本、桜4500本が植えられており、春には花見客で賑わいます。また夜間には天守がライトアップされるため、夜景の名所としても知られています。なお豊臣時代の天守が32年、徳川時代の天守が36年と、いずれも短期間に焼失したため、現在ある復興天守(大阪城天守閣)がもっとも長命の天守となっています。

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岸和田城 (2019/05/03 訪問)

岸和田城へ行ってきました。
岸和田城の歴史は古く、楠木正成が甥の和田高家に城を築かせたのがはじまりとされます(岸和田古城)。羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、江戸時代には徳川家康の妹の子である岡部宣勝が入城し、岡部氏13代の居城となりました。有名な「岸和田だんじり祭り」は岡部氏3代・長泰の時代にはじまったといわれています。現存も城址には石垣や堀が残っており、内堀石垣の下部には犬走りを見ることができます。また1954年(昭和29年)には復興天守が建てられ、天守で結婚式を挙げることもできます。

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和歌山城 (2019/05/03 訪問)

和歌山城へ行ってきました。

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