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まーやん

明智光秀の水城 (2019/10/05 訪問)

来年大河ドラマがあるから…ではなく、ブラタモリを見て比叡山に行こうとなって、急に気が変わり山中越を琵琶湖側に降りて、「そうだ!坂本に行こう!」となった。。。

坂本は比叡山の麓。信長の焼き討ち後に明智光秀に築かせた水城で、瓦葺きの大小天守を持ってたと言われている。

安土城は光秀に築かせた坂本城で得られた情報などを参考にして築かれたのではないか、専門家の間ではそんな話も囁かれている。

お城好きなら誰もが知っている石垣の「穴太積み」の「穴太衆」は比叡山麓の坂本にいた石工集団。
坂本龍馬の坂本姓や升形に桔梗の家紋もルーツはここなのでは、と言われている。

坂本城址はほとんど遺稿がないが、多くの方が町歩きを楽しむ街道の町でもある。

付近には石碑や説明書き、穴太衆石積公園、日吉大社など見所がたくさんある。
大河ドラマで混む前に是非‼️

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エグ1394

岡崎城 (2019/10/06 訪問)

岡崎城へ行ってきました。
岡崎城は徳川家康の生まれた城として知られています。「桶狭間の戦い」で今川義元が敗死した際に家康(当時は松平元康)が今川氏から独立した城でもあります。江戸時代には家康誕生の城として重要視され、譜代大名が歴代の城主を務めています。現在は岡崎公園として整備され、桜の名所となっています。公園内には復興天守のほか、家康や本多忠勝の銅像があります。また1982年(昭和57年)には二の丸跡「三河武士のやかた家康館」が開館しました。

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エグ1394

墨俣城 (2019/09/29 訪問)

墨俣城へ行ってきました。
墨俣城は織田信長が美濃攻略のために、その前線基地として木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に築かせた城と伝えられています。いわゆる「墨俣一夜城」として秀吉の立身出世の象徴として紹介されることが多い城ですが、不明な点が多く、その存在を否定する意見も多いです。現在、墨俣城があったとされる場所は公園として整備されており、模擬天守(墨俣一夜城歴史資料館)が建てられています。犀川越しに見る天守の姿は大変美しく、春には満開の桜に囲まれた天守を見ることができます。

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エグ1394

越前大野城 (2019/09/01 訪問)

越前大野城へ行ってきました。
越前大野城は織田信長の家臣である金森長近によって築かれた城です。長近はのちに「北陸の小京都」と呼ばれるまちづくりを行っています。江戸時代には土井利房が入城し、以降は土井氏が城主を務めました。遺構としては、山頂の本丸跡に石垣が現存しています。建造物としては、櫓門であった鳩門の門部分が光明寺山門として移築現存しています。また、7代利忠の隠居所が無料休憩所「藩主隠居所」(旧柳廼社社務所)として移築現存しており、当時の武家屋敷の姿を見ることができます。本丸跡には模擬天守が建てられており、金森氏や土井氏など歴代の城主に関する資料が展示されています。竹田城や備中松山城と並び、雲海に浮かぶ「天空の城」としても知られています。

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エグ1394

一乗谷城 (2019/09/01 訪問)

一乗谷城へ行ってきました。
一乗谷城は朝倉氏の居城として知られ、一度も戦闘に使用されることなく廃城となった城でもあります。現在でも曲輪や空堀、伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っています。また織田信長の侵攻に備えて築かれた畝状竪堀の一部も残っています。一乗谷城と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる遺跡全体が国の特別史跡や日本100名城に選ばれています。戦国時代、一乗谷は北ノ京とも呼ばれるほど栄えた都市ですが、織田信長の侵攻により灰燼に帰しています。近年、周辺の発掘調査が進んでおり、その結果や史料を参考に当時の町並みが復元され、復原町並として公開されています。こうした原寸大の立体模型は日本初です。

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エグ1394

福井城 (2019/09/01 訪問)

福井城へ行ってきました。
福井城は「関ケ原の戦い」後に、徳川家康の次男である結城秀康によって築かれた城です。天下普請によって築城されました。本丸、二の丸は家康自ら縄張りを行ったという説もあります。幕末の名君、松平春嶽の居城としても有名です。内堀、石垣、天守台などの遺構が残り、石垣は切込接ぎの布積みで積まれているため、大変美しいです。天守台のそばには「福井」の語源由来となったといわれる「福の井」という井戸が残っています。また本丸御殿の一部は第5代、第7代藩主を務めた昌親(吉品)とその母親の高照院の墓所である瑞源寺の本堂および書院として移築されています。天守は現存していませんが、内堀にかかる御廊下橋が復元されています。この橋は屋根付きの珍しい橋です。

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エグ1394

丸岡城 (2019/09/01 訪問)

丸岡城へ行ってきました。
丸岡城は柴田勝家の甥で養子となった柴田勝豊によって築かれた城です。江戸時代には福井藩の附家老として城主をつとめていた本多成重がをつとめていましたが、福井藩主・松平忠直の隠居に伴い独立し、丸岡藩が成立しました。その後、本多家がお家騒動で改易となったのちは、代わって有馬氏が入封し、以後6代がこの地を治め明治維新を迎えました。掘立柱構造の望楼型天守や、笏谷石を使った石瓦などが特長の北陸唯一の現存天守で、最古の天守という説もありましたが、近年の調査により築城年代は江戸初期であることがわかりました。「日本100名城」や「日本さくら名所100選」に選ばれています。

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エグ1394

犬山城 (2019/08/28 訪問)

犬山城へ行ってきました。
犬山城は織田信長の叔父である織田信康が、この地にあった砦を改修して築いた城です。現存12天守のひとつであり、さらに国宝5城のひとつでもあります。木曽川を押さえる、軍事上・経済上・交通上の重要拠点とされてきました。李白の詩にちなんで、「白帝城」とも呼ばれているほど美しい城で、その天守は全国の現存するもののなかでもっとも古いという説があります。2004年(平成16年)までは城主であった成瀬家が個人所有する文化財でしたが、現在は財団法人犬山城白帝文庫に譲渡されています。木曽川の対岸から見る犬山城もがとても美しいので絶好の撮影スポットです。

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足助城 (2019/08/25 訪問)

足助城へ行ってきました。
足助城は三河鈴木氏の諸家である足助鈴木氏の居城として知られています。松平氏に属しており、1590年(天正18年)の家康の関東入国に従って関東に移ったため、廃城となりました。現在は城跡公園足助城として整備されており、高櫓・長屋・物見矢倉・厨(くりや)などの建物が復元されています。発掘調査成果に基づく戦国時代の山城の復元は、国内最初の事例で「全国ではじめて復元された山城」として謳われています。

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岩崎城 (2019/08/18 訪問)

岩崎城へ行ってきました。
岩崎城は丹羽氏清にはじまる丹羽氏の居城として知られています。羽柴秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」における「長久手の戦い」の緒戦となった戦いである「岩崎城の戦い」の舞台としても有名です。本丸跡には古墳の遺構も残しており、現在は岩崎城址公園として整備され、模擬天守が建てられています。また併設する岩崎城歴史記念館には岩崎城の歴史や城跡からの出土品などが展示されています。甲冑着用体験などのイベントのある日にはマスコットキャラクター「にわさきくん」が迎えてくれます。

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名古屋城 (2019/08/17 訪問)

名古屋城へ行ってきました。
名古屋城は徳川家康が豊臣氏に対する最終防衛拠点として天下普請によって築城させた城です。初代城主は徳川義直で、徳川御三家のひとつである尾張徳川家17代の居城として利用されました。伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われているように、古くから名古屋のシンボルとして扱われてきました。天守台の石垣は加藤清正が担当したといわれています。大天守に上げられた金のシャチホコは築城当初のものではありませんが、同じ方法で復元製造された金板張りの木造鯱で、現在は名古屋城でしか見ることができません。また、築城当時は最上層のみ銅瓦でしたが、1755年(宝暦5年)に行われた修復工事の際にすべて銅瓦拭きとなっています。この緑青の屋根も名古屋城の大きな特徴です。2009年(平成21年)から本丸御殿を復元しており、現在公開中です。

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彦根城 (2019/08/14 訪問)

彦根城へ行ってきました。
彦根城は徳川四天王のひとりである井伊直政の子、直継によって築かれた城です。以降、多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城として用いられました。現存12天守のひとつであり、天守は国宝です。幕末に起きた「桜田門外の変」で暗殺された大老、井伊直弼は藩主となるまでをこの城下で過ごしており、当時の屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」としていまも現存しています。JR彦根駅からも徒歩でいけるほど近く、訪問しやすい現存天守のひとつであり、また人気キャラ「ひこにゃん」でも有名な城です。

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小谷城 (2019/08/14 訪問)

小谷城へ行ってきました。
小谷城は浅井氏の居城であり、日本五大山城のひとつに数えられる堅固な山城として知られています。織田信長に攻められ、浅井氏が滅亡した最後の城で、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城です。その後、小谷城は羽柴秀吉に与えられますが、秀吉は長浜城をあらたに築いたため、小谷城は廃城となりました。その際、資材の大半は長浜城築城のために使われたといわれています。現在は国の史跡に指定されており、土塁や石垣などの遺構を見ることができます。

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エグ1394

若狭国吉城 (2019/08/14 訪問)

若狭国吉城へ行ってきました。
国吉城は若狭武田氏の重臣である粟屋勝久の居城として知られています。武田氏の内部分裂、衰退後は越前の朝倉義景によって数度にわたり攻められますが、籠城戦で撃退しています。その後、1570年(元亀元年)の織田信長による越前攻めの際には、信長はこの城を本陣としました。その後、木村定光、浅野長吉、京極高次が支配しましたが、「元和の一国一城令」で廃城となりました。現在、城址は整備されており、曲輪跡や石垣などの遺構を見ることができます。また、佐柿奉行所の跡に若狭国吉城歴史資料館が建てられており、山麓の徳賞寺には栗屋勝久の墓といわれる五輪塔があります。

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清洲城 (2019/08/11 訪問)

清洲城へ行ってきました。
清洲城は織田信長の居城として知られ、信長はこの城から「桶狭間の戦い」に出陣しています。信長の後継者を決める、いわゆる「清洲会議」が行われた城でもあり、歴史的にも大きな役割をになった城です。「関ケ原の戦い」の際には福島正則の居城となっており、東軍の後方拠点として利用されました。江戸時代に入って、徳川家康により清須から名古屋への遷府(清洲越し)が指令されると、清須城は名古屋城築城のための資材として解体されました。なかでも名古屋城の西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」と呼ばれています。現在、城跡の一部が「清洲公園」と「清洲古城跡公園」として整備されており、信長と濃姫の銅像が建てられています。また、1989年(平成元年)には町制100周年を記念して、模擬天守が築かれました。この模擬天守は東海道新幹線の車窓から見ることができます。

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吉田城 (2019/08/05 訪問)

吉田城へ行ってきました。
吉田城は戦国時代初期において三河支配の重要拠点のひとつとして、松平氏と今川氏の間で争奪戦が繰り広げられた城です。江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たしました。かつては酒井忠次や池田輝政が城主を務めたこともあります。また、歌川広重による浮世絵木版画『東海道五十三次』にも描かれています。現在は豊橋公園として整備されており、本丸には隅櫓(鉄櫓)が模擬再建されています。吉田城の石垣にはさまざまな大名家の家紋などが刻まれているものがあり、土佐藩の印などはっきり確認することができますが、これは天下普請で築かれた名古屋城築城の際に余った石垣を転用したことによると考えられます。また、城全体の敷地は名古屋城よりも広いです。

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浜松城 (2019/08/04 訪問)

浜松城へ行ってきました。
浜松城は徳川家康の居城として知られ、家康は29歳から45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」は信玄がこの城を無視したことがきっかけになっています。また江戸時代には歴代城主の多くが幕府の重役に出世したことから「出世城」と呼ばれています。現在は浜松城公園として整備されており、野趣あふれる野面積みの石垣を見ることができます。また、石垣の中からハート型の石を探すのがちょっとしたブームになっています。1958年(昭和33年)に再建された復興天守には家康が19歳のときに着用したといわれる金陀美具足が展示されており、最上階からは北に三方ヶ原古戦場、南に遠州灘、西に浜名湖、晴れた日には東に富士山を臨むことができます。さらに2014年(平成26年)には天守門が復元整備されました。

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掛川城 (2019/08/04 訪問)

掛川城へ行ってきました。
掛川城は山内一豊の居城として知られています。「関ケ原の戦い」の際に一豊が徳川家康に掛川城の提供を申し出た逸話は司馬遼太郎の『功名が辻』にも登場します。明治以降は、廃城令によってほとんどの建物が撤去されましたが、1994年(平成6年)に天守が再建されました。この天守は日本初の木造復元天守です。重要文化財にも指定されている二の丸御殿は二条城などと並んで全国でも数少ない完存御殿建築遺構です。

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妻木城 (2019/07/21 訪問)

妻木城へ行ってきました。
妻木城は土岐氏の一族である土岐明智氏の居城です。戦国時代に入ると土岐明智氏の一族である妻木氏の居城となりました。妻木氏は「関ケ原の戦い」で東軍に味方し、その戦功により妻木一帯を領することになります。現在城址は建造物こそ残ってないものの、石垣や曲輪、土塁等の遺構を見ることができます。さらに妻木城の城門が、麓にある妻木氏の菩提寺、崇禅寺山門として移築され現存しています。また妻木城主は代々と陶器の生産を奨励し、織部焼、志野焼など、現在の美濃焼の基礎がつくった領主として知られています。

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エグ1394

白鷹城 (2017/07/14 訪問)

白鷹城へ行ってきました。
明知城は日本三大山城に数えられる岩村城の城主、遠山景朝の子である遠山景重の居城として築城されました。この城も可児市にある明智長山城と同様、明智光秀生誕の城といわれていますが定かではありません。美濃と信濃の国境界に位置するため、織田氏と武田氏の間で争奪戦が繰り広げられました。武田信玄の家臣・秋山信友や、織田信長の嫡男である織田信忠などによって制圧されています。「関ケ原の戦い」の際に遠山利景によって平定され、そのまま利景が城主となりました。1615年(元和元年)閏6月の一国一城令によって明智城は廃城となり、その後は山麓に築いた明知陣屋で、明治維新による廃藩置県に至るまで、遠山氏がこの地を治めました。『遠山の金さん』のモデルとなった江戸町奉行・遠山景元(金四郎)は子孫にあたります。

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