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昌官忠

佐倉酒々井印西近辺攻城:臼井城 (2018/04/02 訪問)

臼井城址公園駐車場(35.737852、140.178570)に駐車して攻城しました。

享徳の乱の折、1478年(文明10年)12月10日の境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城しました。
7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、1479年(文明11年)には太田道灌の率いる上杉方に攻められ落城しましたが、このとき道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に資忠の墓が残されています。
その後、足利政氏の次男足利義明が小弓城を征圧し小弓公方を自称した際には、臼井城主の臼井景胤は小弓公方側に立ち、千葉孝胤の嫡男勝胤とは立場を異にしました。
だが1538年(天文7年)10月第一次国府台合戦で足利義明が討ち死にした後は千葉氏の影響下に復しました。
その後も千葉氏の家臣、原胤貞が城主を務めていた1566年(永禄9年)には上杉謙信(当時は輝虎)に攻められる(臼井城の戦い)など、何度も合戦の舞台となっています。
1574年(天正2年)に原胤栄(胤貞の子)は里見勢に生実城を追われたため、その後原氏が臼井城を本拠とします。
1590年(天正18年)、小田原征伐により原氏が滅びたのちは豊臣側に接収され、酒井家次が封じられましたが、1604年(慶長9年)、酒井家次の高崎移封に伴い廃城となりました。
現在は城址の一部が臼井城址公園として整備されています。

土橋は土のままであってほしかった。駐車場は10台くらいは停められそうです。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

佐倉酒々井印西近辺攻城:本佐倉城 (2018/04/02 訪問)

防火水そう近く(35.727752、140.254395)に路駐して攻城しました。
後でわかりましたが、本佐倉城跡駐車場(35.728734、140.260910)がありました。

本佐倉城は2回攻城しています。
①2018/04/02  一人で攻城
②2018/09/01    続100名城スタンプ押印目的で一人で攻城

室町時代後期に千葉宗家を倒して家督を奪った馬加氏は、将軍足利義政の命により千葉実胤と自胤を支援した東常縁に討たれ滅亡しました。
また太田道灌も実胤・自胤を支援し江戸城を築城するなどしたそうです。
だが、馬加康胤の子(異説あり)千葉輔胤は、古河公方足利成氏と結んで下総国を平定したことで宗家の地位を確保し、文明年間に従来の亥鼻城よりも内陸のこの地に城を築いて本拠地を移しました。
なお、1479年(文明11年)に太田道灌が千葉輔胤を攻めたときに追い詰められた輔胤の籠城先が臼井城であったことから、この時点ではまだ本佐倉城は完成していなかったと推定されています。
その後、9代にわたって戦国大名千葉氏宗家の本拠地となったが、1590年(天正18年)千葉氏が小田原征伐後に改易されると、徳川氏に接収されて一旦は破却され、代わりに城下に陣屋が設置されました。
1602年(慶長7年)12月に5万石で松平忠輝が封じられるが、ひと月余後の1603年(慶長8年)2月、信濃国川中島に移封されました。
1610年(慶長15年)軍事上の必要から同地に封じられた小笠原吉次、土井利勝が再び本佐倉城に入って佐倉藩の藩庁が置かれました。
1615年(元和元年)藩庁の佐倉城への移転と一国一城制により廃城となりました。
なお、本佐倉の城下町は酒々井宿に移設されて成田街道の宿場町になったと考えられています。

車で行きましたが、ナビがとんでもない道をナビゲートした為、防火水そう付近に路駐して、城址西側(八幡神社側)から攻城しました。
土塁や空堀などの遺構がほぼ完全な状態で残っています。
続100名城スタンプは酒々井町中央公民館で押しました。パンフレットもたくさん置いてあります。
攻城時間は2回目の酒々井町中央公民館も併せて90分くらいでした。(ほとんどは1回目の時間です)

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にのまる

品川区と大田区の区境未訪6城一気に塗り潰しのラスト (2021/02/07 訪問)

①梶原氏館(梶原稲荷神社)
②新井宿城(熊野神社)
③池上氏館(本行寺)
④馬込城(湯殿神社)
⑤荏原氏館(旗岡八幡神社)
⑥品川氏館(貴船神社)👈👈👈ゴール🏁

 日も傾く頃に到着した品川氏館は文献のない推定地とのことですが(「日本城郭大系」より)、めちゃくちゃ達成感ありました。
 さすがにお腹も空いてきたのでソッコー帰りました。
よい一日でした(^O^)/

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名古屋城の金鯱は思った以上にピカピカ! (2021/03/19 訪問)

『名古屋城金鯱展 KIN-SHACHI EXHIBITION ~守り神降臨、海と山の祈り~ 』プレス内覧会に行ってきました!
2021年3月20日(土・祝)~4月2日(金)、名古屋城二ノ丸広場にて16年ぶりに地上に降臨した金鯱を間近に見られるイベント。名古屋城の金鯱は「海シャチ」と「山シャチ」だそうですが、思っていた以上の大きさと金ぴかさにびっくり!

イラストレーター2yangさんの絵画と一緒に「山シャチ」を楽しんだり、水盤に優雅に浮かぶ「海シャチ」と記念撮影できたりと(記念撮影スポットでの撮影は有料)、とても楽しいイベントでした。

せっかくなら、二の丸茶亭の金シャチモーニングと一緒に楽しむのがおすすめです! トーストに小倉餡とホイップクリーム、そしてかわいいシャチが!! しかも、ホイップには金箔も!!

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小城小次郎

いつかまた自由に見られるようになるといいな (2020/12/19 訪問)

地主さんの事情で現在は非公開なので、散策路を順路通りに歩くと強烈な肩透かし感を食らわされるのだが、下から見上げただけでも残存状況の素晴らしさが窺い知れる。いつかまた見られるようになることを祈らずにはいられない。

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ダイエティシャン

亀山城跡(島根県江津市江津)ニ楽閣跡 甍街道 (2021/03/13 訪問)

江津市亀山城を目指しましたが、またまた辿り付けず。近くのニ楽閣跡(じらっかくあと)も、通行止め(1枚目)でした。
近くの【天領江津本町甍街道】は行く事が出来ました。【天領江津本町甍街道】は、かつて天領として栄えたそうです。豪商屋敷跡や、船の様子跡が保存されています。(2〜6枚目)
駐車場は【山辺神社(山辺神宮)】の高い大看板を抜けた奥、【甍街道交流館(旧江津町役所)】(8枚目)の前、7台位駐車可能。
山辺神社(山辺神宮)】(9,10枚目)にもお参り。コロナの収束を願いました。

今回早起きして、6城 目指しましたが、調査不足の為、1城(浜田城)しか辿り付けず。【時は今】ではないかもしれません。
我が領内では、コロナ感染の再拡大も懸念される中、4月からは、領内の攻城になりそうです。

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ダイエティシャン

本明城(ほんみようじょう又は もとあけじょう)福屋城 (2021/03/13 訪問)

本明城(ほんみようじょう又は もとあけじょう)又は福屋城
島根県江津市有福温泉本明けにあるそうですが、調査不足の為、辿り着く事が出来ませんでした。
益田氏庶流の【福屋氏】の居城だそうです。

代わりに、近くの有福温泉にある本明城の地図と有福温泉【御前湯】と手湯の写真を載せます。
【御前湯】とすぐ近くの2湯あり、外湯巡りも楽しそうです。
足湯ならぬ【手湯】があります。
古き良き温泉街です。

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ダイエティシャン

浜田城 (2021/03/13 訪問)

今回、浜田城の城下町巡りもしました。
スマホのバッテリー切れの為、城下町の写真はありません。
大手門跡も行きました。
陣があった【夕日の丸】は見当たりませんでした。後日伺った所、現在は、山を削り住宅街に。地名も残っていないそうです。
江戸時代の思わせる建物も多くありました。
城下町からは、亀山の浜田城跡を見る事が出来、天守閣もさぞかし見応えあっただろうと、思いながら、散策しました。
浜田港にも行き、浜田藩の交易にも思いを馳せました。

この後、近くの周布城を目指しましたが、、墓の大軍に恐れをなし、攻城を断念しました。

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AJ

戦国最強決定戦 -序- (2019/08/21 訪問)

1年に及ぶ包囲戦の末にようやく七尾城(石川県七尾市)を落とした上杉謙信は、本丸のある山頂からの絶景に感動して漢詩を詠んだそうです。軍神と謳われた男の、一風変わった喜びの表現だったのでしょうか。裏を返せば、この城攻めがいかに難しかったかを物語っているのかもしれません。

石動山系に位置する城山の7つの尾根に築かれた能登畠山氏の大要塞。格式高い三管領家の分家にふさわしく、当時は三の丸手前の曲輪で衣服を整えることが求められたとか。削平地である各曲輪は大小の堀切で遮断され独立性が高く、至る所に大がかりな石垣が積み上げられています。注目すべきは本丸前面。2mほどの野面積の石垣を階段状に積み上げることで、当時はまだ未発達だった高石垣の代わりとしたようです。本丸最高部は標高300m。謙信が眺めたであろう七尾湾を一望できます。

アクセスには市内循環バスが便利。JR七尾駅から15分ほどで山麓の資料館まで行けます。また、駅構内にはレンタルサイクルもあります。

さて、この城攻めに際し、一度は兵を引くことを余儀なくされた謙信。その後、力攻めは諦め、彼にとっては珍しく、調略で仕留めています。能登を押さえることで、越中から加賀に侵攻していた上杉勢は後顧の憂いなく越前の織田方と対峙。武田信玄はすでにこの世を去っており、ここに戦国最強決定戦の舞台が整ったのです。

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todo94

城カード櫓シリーズ (2021/03/13 訪問)

今回の最大の目的は、櫓シリーズの城カードゲットだったのですが、16:30の受付にギリギリ間に合って本丸内に入ることができました。平成40年まで有効の城主手形を持っているので入場無料です。二様の石垣や連続する枡形を俯瞰するというのはなんとも新鮮な体験でした。熊本の標本木の開花が5輪に達しておらず開花宣言は出ていませんでしたが、城内の桜はかなり咲いていました。2021年4月26日に天守内部の公開が予定されていますが、新型コロナウイルス感染者数のリバウンドの兆しもあり、予定通り公開の運びとなるのでしょうか。

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昌官忠

印旛日本医大前駅周辺攻城:笠神城➡城びと未登録(千葉県印西市) (2018/04/07 訪問)

南陽院手前の空スペース(35.819207、140.207845)を借りて攻城しました。

笠神城の歴史は東国戦記実録などの軍記に頼るところが多く信頼できるような史料はないために確実なことはわからないようです。
千葉氏に関連する城であることは蘇羽鷹神社の存在から肯定できると思われるそうです。
戦国時代には千葉氏の家臣原肥前守の嫡子原豊前守が笠神城を守っていたが、1575年(天正3年)に豊島氏の居城である布川城を攻めたときに返り討ちに遭い、原肥前守は討死し笠神城の兵士たちも敗走したといわれています。
現在城址は南陽院の境内となっており、土塁や堀切の遺構が残っています。

裏に蘓波鷹神社があり、小さいが城の雰囲気はあります。
自分が攻城した際は、まだ見学できました(?)が、現在は「城跡への立ち入りや境内の写真を撮ることも禁止している」ようなので、見学は控えたほうがよさそうです。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

印旛日本医大前駅周辺攻城:松虫城 (2018/04/07 訪問)

松虫寺の駐車場(35.789202、140.214790)に駐車して攻城しました。

松虫城の詳細は不明ですが、臼井原氏の拠点のひとつだったと推定されています。
関東の諸葛孔明」と評される栗林下総守義長が佐倉の千葉氏を攻めたときに陣屋をおいたと伝わっていますが、栗林義長が実在した人物かどうか定かではありません。
真言宗松虫寺前の解説板には、「1585年(天正13年)2月28日に鵜沢信濃守敏信という名前が刻まれた鰐口(1976年6月1日指定の印旛村指定文化財)が残されている」との説明があります。
廃城時期については1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に、北条氏の滅亡とともに廃城になったものと考えられています。
現在城址には土塁や堀跡などが残っています。

小さな寺はなかなか趣きがありますし、横堀や土塁等が確認できました。
攻城時間は20分くらいでした。

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ながす

にっぽん城祭り in愛知

今週末楽しみだな〜!!
ワクワク😎🤩

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赤い城

主郭は果樹園になっている (2021/03/13 訪問)

国分氏の菩提寺である知足院さんに車を駐めて訪問。
知足院前の道を登っていくと城址があります。
途中の道もそれっぽい雰囲気があります。
主郭部は果樹園となっていて土塁の上に標柱が立っていました。
民家もあるので私有地の部分が多いかな。
堀跡と思われる通路からは帯曲輪っぽい場所もありました。

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ぴーかる

私部城 (2021/02/20 訪問)

【交野城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡南西側にコインPあり。
<交通手段>バイク

<見所>堀・曲輪・土塁
<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング第3弾、大阪府内限定7城目。城跡の説明は現地案内板をご覧下さい。説明板は二郭にあります。二郭内の一部は城跡遺構として広場になっています。二郭と主郭の間の堀と土塁、主郭北側の土塁は凸凹が明確で城跡遺構が色濃く残っています。南側月極め駐車場の南に池堀の一部も残っています。

<満足度>◆◆◇

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にのまる

旗岡八幡神社 (2021/02/07 訪問)

お城めぐりというよりも寺社めぐりな一日。
ゴールが見えてきました。
駅近だけど電車には乗りません。歩きます。

①梶原氏館(梶原稲荷神社)
②新井宿城(熊野神社)
③池上氏館(本行寺)
④馬込城(湯殿神社)
⑤荏原氏館(旗岡八幡神社)👈👈👈[ココ]
⑥品川氏館(貴船神社)

【境内ではマスク着用と控えめな会話を】と大きく掲げられた鳥居を見上げ、そういえば家を出てから誰とも話してないな…と気づく。

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まっつん

鳴滝山城跡 (2021/03/14 訪問)

瀬戸内海国立公園鳴滝山を目指して山道を進んでいただくと、途中で2枚目の写真の駐車場があります。(鳴滝山展望台まで行くと行き過ぎなので要注意!)
そこに車を駐車して歩いてすぐのところに写真3枚目の案内板があるので、その道を進んでいけばわりとすぐに写真5・6枚目の主郭にたどり着きます。写真4枚目のように、途中石垣がありますが、どうやらほとんどは段々畑を造成したときのもののようです。
鳴滝山展望台よりも圧倒的に来る人が少ないのでゆっくりと瀬戸内海の景色を楽しめました!(写真7枚目)
鳴滝山城は、鎌倉時代末期の元享年間(1321年〜1324年)に宮地次政が築城。室町時代の1423(応永30)年、宮地恒躬が城主の頃、対立していた大平山城主木頃経兼の奇襲に遭い落城。恒躬は戦死、妻の鈴姫は自害し、子の明光は因島へ落ち延びて、宮地氏は海賊として有名な因島村上氏の家臣となったそうです。

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リトルボブ

森林浴気分で見学できます (2021/03/16 訪問)

笠間城は関東では珍しい石垣のお城ですが、それ以上に建物が現存していることで関心がありました。
休日出勤の代休が取れたので、平日ならすいているだろうと思い、見に行くことにしました。

千人溜駐車場にバイクを止めて、歩いていきます。
視界は一面緑色で、すっかり森林浴気分。
来てよかったなあ~などと思いながら歩いているとすぐに大手門跡です。
石垣がかつての厳格な雰囲気を想像させます。

さらに進むと広場に出ます。本丸跡です。
土塁に上るとかつては周辺の山々が見えたようなのですが、木が邪魔してほとんど見えません。
ここに建っていた八幡台櫓は真浄寺に移築されて、今でも現存しています。

その先いよいよ天守跡です。

天守台は地震の影響で一部崩れてしまったので周辺はロープが張られてビニールシートがかけてありました。
その上に建つ佐志能神社の拝殿は明治時代に解体した天守の廃材を転用しているそうです。
奥にある本殿を囲う塀は天守の瓦を利用していると思われます。

その後下山し真浄寺に移設した八幡台櫓を見学しました。
さらに坂尾の土塁を見学した後で城下町を思わせる雰囲気の街並みを歩きながら食事を済ませてお土産を購入し、帰路につきました。

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小城小次郎

隣接する右岡城とワンセット (2020/12/19 訪問)

確かな歴史は伝わらないが氏家氏一族が中里氏を称してここに居住したとも。隣接する右岡城とワンセットと考えられているが防御性や機能に特に優劣はないようで、どちらも平時から並列的に用いられた居館なのではなかろうか。

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カズサン

元鳥取城主山名豊国の旗本陣屋 (2014/11/03 訪問)

 鳥取で母の七回忌法要を終えた翌日国道9号線で但馬村岡陣屋へ初登城しました、高校時代キャンプ、山登りで通過点、中国道が開通して無い頃の国道9号線帰省での通過点として馴染みは有るのですが陣屋跡との認識は有りませんでした。
 車は国道9号線山手側の登城口手前の駐車場を利用。登城路を登って陣屋内の御殿山公園にも駐車可能です。

 歴史は秀吉と第一次鳥取城合戦で戦った山名豊国が秀吉に降伏し鳥取城を預かるが部下との抗争で追い出され、秀吉天下時代は御伽衆で秀吉に仕え、関ヶ原合戦で東軍に付き戦後美方郡6700石で交代寄合の旗本、明治元年維新政府に新田開発4300石が認められ11,000石で大名に列し村岡藩を立藩。 室町期隆盛を極めた山名家も山名豊国の流れが明治まで残った。

 遺構は無く陣屋跡は御殿山公園と成り町民の憩いの場、曲輪は西向きに三段に成ってる様子で城郭の構えで有る、下の段に奥方の部屋が移築復元されてる。
 登城口9号線を挟んだ南側に「民俗資料館まほろば」が有る、パンフレット「村岡町城下めぐりマップ」を入手、南に下り城下町を散策、山名氏菩提寺法雲寺、境内の山名蔵(山名資料館)を参拝見学、村岡藩陣屋図が展示されてる。

 終わって八木城へ、車は八木城交流館前に駐車場在り利用、徒歩で9号線を渡り獣除けフェンスの手間に案内解説板が設置されてる、山頂の石垣の本丸までの登城は考えてないので麓周辺と山頂を望み終わりとする。
 情報で八木城のパンフレットが9号線を上って「道の駅ようか但馬蔵」(兵庫県養父市八鹿町高柳241-1)に有るとの事で、観光案内所で話をして入手した。
 この後は豊岡、玄武洞、日和山海岸、城崎温泉泊り湯めぐりを楽しんだ。
 

 

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