みんなの投稿

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山城昇

鬼の棲む城?

登ってはいませんが、下から見ても岩山が圧巻の凄い山城。
今度機会があれば登りたいです

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チェブ

しばし 御待ち下され!鳥居 強右衛門殿! (2018/12/28 訪問)

只今、『みんなの投稿巡り』の毎日です。
皆さんのワクワクするような、紹介文と写真を拝見して楽しんでいます。
ありがとうございます(*´-`*)

戦仕度がまだ整ってないので少し前に、東京の端っこから名古屋に出陣した時に寄った「長篠設楽原PA」を紹介します。
新東名高速道路の下りにあります。
いつもの如く、予習はしていないので寄ってから『織田信長本陣跡』がある事が分かりました。
真夜中ですが目が覚めました!
小高い丘の上の本陣まで、整備されていて夜中でも楽々 歩けます。
長篠 設楽原の合戦の緊張感は公園化され感じません。
でも、みんな 教科書にも載ってる 長篠 設楽原の合戦を思い出すんじゃないでしょうか。
そーいえば、私は日本史の教科書の信長さんにサングラスを落書きしました。ザビエルさんもひどい姿にしてしまったような、、、。
と、ドライブの最中のネタになります。

馬防柵もあり、敵が武田家だと思い出し、いつか武田 勝頼本陣跡があるなら行ってみよう!と思いました。
『長篠設楽原PA』は建物も戦国風で、レプリカの鎧等々の展示があります。
おしゃべりする自販機があり、またもや目が覚めます。
私は長篠 設楽原の合戦と言えば、鳥居 強右衛門さんの勇気ある行動が好きです。
「長篠城」に行ったら褒め称えます。
私の教科書には、鳥居 強右衛門さんが載っていませんでした。
張り付けの強右衛門さん。どうか、落書き されませんように、、、。

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刑部

お墓参りの帰りに (2021/03/28 訪問)

お墓のある場所からは関宿城天守が見えます、お墓参りの後 車を置いて歩いて関宿城へ。車通行不可の橋を2本渡り城址公園の桜を見て周りました。約1時間の散歩でした。

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ぴーかる

津和野城 (2021/03/14 訪問)

【百名城57城目】
<駐車場他>リフト乗り場下る無料駐車場
<交通手段>車

<見所>石垣・堀切・馬場先櫓・物見櫓
<感想>1泊2日中国地方西部の旅2日目6城目。先に麓の藩庁跡にある現存の物見櫓・馬場先櫓・藩庁門跡を見て後リフトにて山頂の城跡に行った。北にある織部丸は工事中で入れず残念だった。いよいよ城跡前まで来て雨男、突然の雨に見まわれたがちょうど建設中の東屋に避難して30分程雨宿りした。城跡東門跡一帯も工事中で一部立入禁止となっていた。西門跡周辺には瓦片が散乱していました。台所の郭には土塀の控え柱が残っています。山頂の三十間台と呼ばれる広い郭が本丸となっており、北側に1段下った所に天守台があり特徴的。太鼓丸・人質櫓の高石垣も見応え十分。門跡の石垣3箇所も見応えあります。南門から南に下るとすぐ土の要塞南出丸(この次に別途投稿します)、さらに南に中荒城(城びと未登録)(次々回投稿)がありここはお勧めですので津和野城に行った際には是非お立ち寄りを。

<満足度>★★★★☆

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にのまる

多摩の山城一気攻めの① (2021/03/17 訪問)

 武蔵五日市駅起点の山城3城がこの日のターゲット。檜原城がいちばん遠くで秘境だったらどうしよう…と少し不安でしたが、麓の吉祥寺のあたり(本宿)は役場やコンビニもあり檜原村の中心部のようでした。

三ツ鱗が北条氏の故地であることを物語る吉祥寺の十三仏巡拝入口アーチが登城口。ところどころにある分岐道が十三仏へのアプローチになってたのでいくつか寄りながら登りました。仏さまの方への道は険しめのところもありましたが山頂への登城路はひたすら歩くものの危険と感じるところはありません。山裾ではびろーんと広がっていた竪堀も登るにつれてだんだんとそれらしくなってきて、がんばれー!と励まされている気分。

 山頂は標高449メートル(比高200メートル)。天下取ったどーの眺望、連続する袖郭、その先の堀切。南郭と北郭の間の土橋からずどーんと落ちる竪堀。小さな空間に見どころが凝縮されていました。「攻め手を足止めさせる役割をもった境目の城」というのも実際にこの場所に立つとイメージがよく湧きます。

 久しぶりの初訪問の山城(戸吹城は除く)で、満足のいく心地よい時間を過ごせました。

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昌官忠

東京近郊11城巡り④:狛江入道館 (2021/04/01 訪問)

東京近郊11城巡り4城目は狛江入道館です。
深大寺城より徒歩12~13分くらいで晃華学園門前(35.663630、139.560511)に着き、その後、里の稲荷神社(35.661700、139.559053)に向かいました。

詳細不明ですが、武蔵七党狛江入道増西の屋敷と伝えられています。
狛江氏は、西党の有力分家由井宗弘の次男二郎にはじまるとされるが、詳しい系譜は明らかでないようです。
狛江入道増西(道西)は、1208年(承元二年)に武蔵国威光寺の寺領に狼藉をはたらいたとして、『吾妻鏡』に記録がある人物だそうです。
他方、館跡南西中腹にある「里の稲荷」は、佐須村名主温井三郎左衛門の先祖とされる佐須豊後が建造したものと伝えられています。
佐須豊後は、村の鎮守虎狛神社の謝辞であったとされるが、出自など詳細は不明だそうです。

女子高はおじさんにはハードルが高いので、生徒のいない学校の春休み期間を狙って攻城しました。
校門付近をカメラを持ってウロウロしていたら、門横の守衛室のおじさんがこちらを見ています。
私は不審者ではありませんと心で叫びながら、校門の写真を撮って里の稲荷神社に向かいました。当然、敷地内の石碑の写真は撮れませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

東京近郊11城巡り③:あいていない深大寺城 (2021/04/01 訪問)

東京近郊11城巡り3城目は深大寺城です。
調布駅より徒歩25分ちょっとで水生植物園入口(35.666443、139.551285)に着きました。

深大寺城の築城年は不明ですが、16世紀には扇谷上杉氏が北条氏に対する南武蔵の防衛ラインとして使用されていたようです。
1530年(享禄3年)6月、上杉朝興は深大寺城に、北条氏康は多摩川対岸の小沢城に陣を敷き、小沢原で合戦になりました。
1537年(天文6年)には上杉朝定が難波田弾正広宗に命じて深大寺城を増築させています。
しかし、北条氏綱が深大寺城を迂回して扇谷上杉氏の本拠である河越城を攻略したことにより、戦略的価値が失われ廃城となりました。
北条氏による改修が行われなかったことで、数少ない「扇谷上杉氏の城」としての遺構が残されています。
現在、城址は神代植物公園の附属施設である水生植物園となっており、空堀や土塁を確認することができます。

開園の30分前の9:00に着いたので、開くまで深大寺近辺を散策し、食事処は開いてはいないので、お蕎麦は諦めてゴマ団子をいただきました。
9:30をすぎても門は開きません。散歩中の方に確認したらコロナの関係でやっていないとのこと。
確かに門に「12/26(土)~当面の間」の張り紙がありましたが、去年の12月から休園中なんて、他のお客さんもビックリでした。
仕方がないので、写真は水生植物園外から撮った園内の写真と深大寺近辺を散策した際のものを投稿します。
攻城時間は40分くらいでした。(付近の散策時間です)

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肉球

鶴舞陣屋 千葉県市原市 (2021/03/25 訪問)

1868年明治になり浜松藩の殿様だった井上正直が上総の鶴舞に所領を移され
1871年の廃藩置県までのわずかな期間存在した陣屋跡です。
陣屋跡には井戸が残り少し南に鶴舞神社があり、その隣が藩校跡地です。

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肉球

本多忠勝ゆかりのお城 (2021/03/25 訪問)

久しぶりの登城だったのですが
以前は無料駐車場だった気がするのですが有料になってました。
その分案内板が増えていたような気がします。

本丸から学校のある二の丸跡への階段付近は当時の雰囲気が残っています。
二の丸跡(高校)の東側は少し低地になっていて空堀か水堀跡なのか想像できます。
その先の少し高台が三の丸跡。ここには大手門があったようです。

 

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カズサン

平成の修理で修復なった本丸多聞櫓 (2014/05/04 訪問)

 三重県に唯一本丸に江戸期から現存する黒下見板張り多聞櫓が平成の大修理で本来の白漆喰塗籠の多聞櫓に修復され、是非観察探訪したいと7年前の5月の連休、甲賀の叔父宅町内祭りに兄弟従妹集まりに合わせ奈良未踏の城廻り、五條代官所、宇陀松山城、松山陣屋、又兵衛桜、柳生陣屋、伊賀の名張陣屋を探訪し叔父の家で2泊、久し振りに叔父夫婦兄弟従妹との会食会話を楽しみ伊勢亀山城へ、車は亀山市歴史博物館の駐車場を利用。
 平成25年修復公開され翌年に探訪観察、白漆喰塗籠成った本丸多聞櫓を本丸内側、グラウンドに成ってる南二の丸側から撮影、多聞櫓には入れず、本丸に在る三階櫓跡と廻る、本丸に在った天守閣は幕命の亀山城天守取り壊しに伊勢亀山城が勘違いされ丹波亀山城の代わりに取り壊されたとか、本丸天守台の跡には多聞櫓が現存し立派な高石垣が往時の趣を表してる。
 こじんまりとした多聞櫓ですが大切にしていきたい現存建物です。

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todo94

倒壊 (2021/03/26 訪問)

登城口にはトイレと駐車場が完備されており、遊歩道が整備されていて快適に攻城できますが、主郭の案内板は倒壊していました。説明板も非常に汚れていて読みずらいです。一応、馬場跡という二の平あたりまで足を伸ばしておきました。それにしても、鶴ヶ城という名の城はたくさんありますね。

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昌官忠

東京近郊11城巡り②:小沢城 (2021/04/01 訪問)

東京近郊11城巡り2城目は小沢城です。
京王稲田堤駅より徒歩16~17分くらいで、きたん坂?入口(35.630007、139.521358)に着きました。

平安時代末期、稲毛三郎重成(あるいは重成の子小沢小太郎)によって築かれた城のようです。
1351年(観応2年)足利直義方の小沢城を足利基氏方の高麗経澄が攻め落とし、この時焼失したようです。
1530年(享禄3年)6月には、小沢城から出陣した北条氏康が、北条領に侵攻した上杉朝興を迎え討つ小沢原の戦いが起こり、氏康が上杉勢を退け初陣を飾っています。
その後、戦国時代以降は廃城になったと考えられています。
現在、城址は緑地公園として保存されており、その中には空堀や物見櫓、土塁などと思われる遺構が残っています。

きたん坂?入口より(登り口はいくつかあります)に多摩自然遊歩道を歩き、城址碑や空堀を確認しました。
攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

東京近郊11城巡り①:長沼城 (2021/04/01 訪問)

東京近郊11城巡り1城目は長沼城です。
稲城駅より徒歩3~4分くらいで石碑前(35.638275、139.499231)に着きました。

長沼城は源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人、長沼五郎宗政の居城とされていますが、詳細は不明のようです。
長沼氏は有力御家人で各地に所領を持っていたため、そのうち武蔵の所領を支配するための拠点として築いた可能性があるそうです。
廃城時期も不明で江戸時代には城址に報恩寺が建立されており、ただしこの寺も1897年(明治30年)に廃されています。
城址は1963年(昭和38年)の多摩ニュータウン造成のため地形も大きく変り、遺構も消滅していますが、城址碑は建てられています。

川沿いに石碑があるだけでした。石碑に城跡についての概要が書かれています。
攻城時間は5分くらいでした。

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宗春

御城印を頂いて来ました。 (2021/03/31 訪問)

城址公園は桜が満開、少し終わりかけでした。
模擬石垣、模擬塀はありますが、遺構と呼べるものはほぼありません。
深谷と言えば今年の大河ドラマ「青天を衝け」で渋沢栄一の故郷ということで、近くに大河ドラマ館ができていて、御城印はそこで入手しました。

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AJ

史実と演出のあいだ (2016/04/01 訪問)

清洲城、と言っても平成生まれの模擬天守です。隣接する城址にも遺構はあまり残っていないというのが多数意見のようです。ただ、やはりその立地は歴史的に意味をもつと感じました。

JR清洲駅、名鉄新清洲駅のいずれからも徒歩15分程度。織田信長の時代は惣構の平城で、決して要害堅固ではなかったそうです。今川義元の大軍を前に籠城策を取れず、打って出た結果、あの奇襲が生まれたという見方があります。

また、近年知名度を増した清洲会議(「清須」の表記が使用される場合も)については、一級と呼べる資料が見つかっていないそうです。つまり伝聞記録を基に映画等が作られているということでしょうか。だとすると、羽柴秀吉が信長の嫡孫である三法師を抱えて織田家臣団の前に現れるクライマックスは後世の脚色だったりするのでしょうか。個人的には好きな場面ですけどね。

形だけとはいえ、少年が政権の中枢に入った例はそれ以前にもあったようです。織田信忠の子である三法師が後を継ぐのは既定路線だった可能性は高く、そもそも会議が紛糾したのかどうかすら怪しいと話す研究者もいます。興味深いですね。

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宗春

御城印を頂いて来ました。 (2021/03/31 訪問)

城趾は碑だけで遺構はありません。城址公園のすぐ南側が烏川ですので、天然の水堀だったのでしょう。
御城印は洋菓子店、和菓子屋、美容室でお買い物をすれば頂けます。御城印は2種類あり、洋菓子店では「倉賀野氏版」が、和菓子屋では「金井淡路守版」が、美容室では両方頂けます。
私が訪問した日は洋菓子店が定休日だったのですが、それを知らなかったため、倉賀野駅→城址→洋菓子店→和菓子屋→美容室と、結構な距離を歩きました。
和菓子屋では塩大福とどら焼きを、美容室ではのど飴を購入して御城印を入手しました。

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肉球

内田陣屋 千葉県市原市 (2021/03/25 訪問)

元々甲斐武田氏に仕えていた伊丹氏が武田氏滅亡によって
徳川家康に仕え一万二千石の大名として築いた陣屋です。
その後分知によって旗本として幕末を迎えたようです。
跡地は最近廃校になってしまった内田小学校のようです。
西側と南側に当時のものと思われる土塁があります。

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橋吉

三好氏と長宗我部氏の攻防の舞台 (2021/03/20 訪問)

一宮城は、南北朝時代につくられた徳島県内で最大級の山城です。
一宮氏が代々居城としてきましたが、三好氏と長宗我部氏の攻防の舞台にもなりました。

登山口前にある一宮神社に3台ほど置ける駐車場があります。
なお、駐車料は初穂料として「少時100円、昼300円,夜300円」と記されていましたので300円入れておきました。
続日本100名城スタンプはここのポストに置かれています。

一周できるようですが、後半の道は荒れていて時間がかかるそうです。
雨が降り出しそうだったので、本丸まで往復することにしました。

最初の7~8分は急坂を登っていきます。
整備されていて、登りやすいです。
しばらくすると、比較的なだらかな山道に変わります。

倉庫跡→竪堀→湧水→堀切→才蔵丸→明神丸→本丸
とまわって戻ってきました。
所要時間はちょうど1時間でした。

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肉球

幕末まで存在してましたが山城です  (2021/03/25 訪問)

以前にも訪れたことがありますが久しぶりの登城です。
舗装された急な坂道に沿って当時の旧道ルートがありますが
そちらは台風と大雨の影響で現在通行禁止になっています。
本丸まで行く間に堀切や久留里曲輪、天神曲輪など
曲輪が沢山あります。
本丸には模擬天守とは別に旧天守台が存在します。
本丸下の波多野曲輪二の丸下の薬師曲輪からは
街を見渡すことができます。その街中にある久留里山真勝寺には
最後の城主黒田直養の菩提寺で城門が移築されています。

専用の大きな駐車場があります。

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ぴーかる

渡川城 (2021/03/14 訪問)

【渡川城】
<駐車場他>城跡専用駐車場が登城口道路を挟んで正面の削平地に3台分程度あります。
<交通手段>車

<見所>堀切・曲輪
<感想>1泊2日中国地方西部の旅2日目5城目。城びと初投稿いただきます。現地案内板を要約すると渡川城は大内氏の三大古城で石州街道の要所として築城された。1470年に大内道頓が阿東町嘉年(賀年城のことかも)に陣して大内氏乗っ取りを謀ったが大内氏家臣の陶弘護がこの渡川城に兵を集めてこれを打ち破った。また1557年には津和野三本松城主、吉見正頼は毛利元就と呼応して山口を挟撃し、この渡川城に立て籠もった陶軍の野上隠岐守を遁走させている。城があったころはかなりの激戦地であったようです。
 城跡は一城別郭になっていて、連郭が北と南にそれぞれあります。登城口に説明板や一応ハイキングコースとなっていて簡単なルート地図があります。登城道はまず墓地の前を通り進みます。倒木が数本あり塞いでいますが越えて進みます。左手に曲がり谷の間を進んで鞍部に着いたら右手は丸太の階段があり北側の曲輪群に行けます。左手の山が南側の曲輪群でこちらは道がないので直登になります。
 まず南の曲輪群を攻略しました。この地点から直登すると連郭の中段辺りに入り込めますが、曲輪内も整備されていないので木々を抜けつつ主郭を目指します。この投稿時の確認で気が付いたのですがこの主郭の南方向に何条かの堀切があるようです。この時は気づかず行かなかった。
 南の曲輪群を攻略し、再び鞍部に戻り次に北の曲輪群を攻略しました。鞍部から北の曲輪群の南端までは数条の堀切があり堀も深く、堀切からの竪掘りも明確に残っており、攻略・見応え十分です。主郭とその南下段の曲輪は広く、こちらが主城であった感じがします。主郭とその下段の曲輪は一度木を伐採したようで見通しは良いが、数年経過しているようで主郭は灌木で覆われており主郭より先へは進めませんでした。眺望が良く眺めていると遭遇しませんでしたが、すぐ背後で大きな獣のガサガサと動く音が突然したので超びっくりしました。

<満足度>◆◆◇

<グルメ>道の駅長門峡に阿東牛というのが販売されています。切り出しを購入して、すきやきとカレーにしていただきましたが牛特有の臭みが全く無くとても美味しかったです。

<その他>この渡川城攻城前に城びと登録の白水山城へ行ったがここも昨日の古城ヶ岳城と同じく城びと未投稿で情報が少なく、登城口がわからず少し山中をうろついて時間がかかりそうなので断念した。山口の山城は未整備が多そうです。

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