2020/05/25
超入門! お城セミナー 第91回【鑑賞】関東にはなぜ、「土の城」が多く残されているの?
初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。お城本ではよく、「東日本は土の城/西日本は石垣の城が多い」といった解説が載っています。実際、東日本でも特に関東地方は石垣の城が極端に少ないのですが、それはなぜなのでしょうか? 関東地方独特の土壌と徳川家康が領主になったことに、理由の秘密が隠されていそうです。
関東を代表する山城であり、「土の城の教科書」とも称される杉山城(埼玉県)。関東に土の城が多く残されているのはなぜなのか
東北や甲信越と比べても、関東の石垣の城の割合は低い
日本人は列島の東西対立が大好き。曰く、「東日本は赤味噌/西日本は白味噌」だとか、「東日本は縄文系/西日本は弥生系」だとか。それに類するお城業界の言い回しに、「東日本は土の城/西日本は石垣の城」というものがあります。東日本の城には土造りの城が多く、西日本の城には石垣造りの城が多い、というものです。
東西対立をあおる説には眉唾なものも少なくないですが、「東日本は土の城/西日本は石垣の城」という説はかなり的を射ています。もちろん東日本にも石垣の城は築かれましたし、西日本にも土造りの城は多く残りますが、相対的に東日本は土の城が多く、西日本は石垣の城が多いのは確かです。
特に関東では、総石垣の城というと江戸城(東京都)と小田原城(神奈川県)、あとは豊臣秀吉が小田原攻めに際して築いた石垣山城(神奈川県)ぐらいしかありません。同じ東日本でも、東北や甲信越と比較して関東は石垣の城の割合が圧倒的に低いのです。
秀吉が小田原城を攻めるための陣城として築いた石垣山城は、関東では珍しい総石垣の城である
ここで疑問に思いませんか? 関東といったら、幕府が置かれた江戸を拠点に、江戸時代の中心地となった地域です。それなのに、西日本や東日本のその他エリアに比べて、権力のシンボルである石垣の城が少ないのはなぜなのでしょう? 戦国時代以降の関東地方の歴史を振り返りながら解説していきましょう。
城造りに適していた関東ローム層
戦国時代の「関東の雄」といえば? そう、早雲から氏直まで5代続く北条氏ですね。北条氏が台頭する以前は、室町幕府の出先機関である鎌倉公方と、本来はそれを補佐する関東管領・上杉氏の争いが長らく続きました。そうした関東の戦国史は150年近くにわたるのですが、その間、一貫して土造りの城が築かれます。総石垣で天守が建つ近世城郭を創出したのは織田信長なのですが、それ以前にも全国各地で石垣の城は築かれています。ただし、関東では太田金山城(群馬県)のような例外を除き、石垣の城は見当たりません。
なぜなら、関東ローム層という関東独特の土壌が、城造りに適していたからです。関東ローム層は、富士山や浅間山などの火山から噴出した土が堆積して形成されており、粘土質で土同士の結束力が強く、またたいへん滑りやすいという特徴を持ちます。粘土質なので土塁や櫓台など一度構築した施設は崩れにくく、さらに滑りやすいので攻め難いわけです。なんて城造りに適した土壌なんでしょう。
赤土と呼ばれることも多い関東ローム層の土壌(写真は新府城[山梨県])。水を含むとねちゃねちゃして滑りやすく、乾燥しても割れにくいという特徴を持つ
高さ10mもある小机城の横堀。土壌のおかげで堀や切岸が崩れることなく、ほぼ往時の姿のまま残されている
そんなわけで、関東では石垣に頼らずとも、堅固な城造りが可能でした。杉山城(埼玉県)や滝山城(東京都)、小机城(神奈川県)など、壮大な堀と巧みな構造を持つ「土の城の名城」が多いのはそうした理由でしょう。
石垣の城への改修を拒んだ徳川家康
さて、長らく関東を治めた北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、関東には徳川家康が移封してきました。家康は江戸を本拠地とし、現在の群馬県や栃木県の一部をのぞき、ほぼ関東全域を領土とします。
この頃、秀吉が天下統一を果たしたことで、秀吉の家臣や秀吉に伏した大名らはこぞって自分の領地に大規模な近世城郭、つまり天守と石垣を持つ城を築きはじめます。会津若松城(蒲生氏郷/福島県)や小諸城(仙石秀久/長野県)、掛川城(山内一豊/静岡県)や広島城(毛利輝元/広島県)、徳島城(鉢須賀家政/徳島県)や岡城(中川秀成/大分県)などなどです。
しかし、徳川家康は自領内に決して石垣の城を築かせませんでした。居城の江戸城も土造りのまま。なぜ近世城郭を拒んだのか? 秀吉に対する対抗意識だったと説明されることもありますが、実際のところはよくわかっていません。
その後、関ヶ原の戦いで勝利した家康は征夷大将軍になって江戸幕府を開府します。この段になって、家康はようやく江戸城の大改修に乗り出し、「天下普請」として改修工事を全国の諸大名に行わせ、日本一の大城郭が完成しました。
ただし、関東のほかの城では徳川重臣である大久保氏の小田原城が総石垣に改修されただけで、同じく重臣であった土井氏の佐倉城(千葉県)や徳川御三家である水戸徳川家の水戸城(茨城県)は、土造りの城として築城・改修されました。西国の総石垣の城は、石高の高い外様大名が権威を誇示するために築いたか(高知城、福岡城、熊本城など)、そうした外様大名を牽制するための徳川方の城であった(福山城、彦根城、名古屋城など)場合が多いのですが、関東地方には親藩や譜代大名が多く、外様大名を牽制する意味合いが薄かったことも、関東に石垣の城が少ない理由となります。
水戸城の本丸と二の丸を分ける大規模な横堀。徳川御三家の城では尾張徳川家の名古屋城(愛知県)も紀州徳川家の和歌山城(和歌山県)も豪勢な総石垣の城だったのに対して、水戸城は土造りで石垣は用いられなかった
関東独特の土壌が城造りに適していたこと、関東の領主となった家康が石垣への改修に消極的だったこと、権力の誇示や外様大名への牽制といった政治力学が城に働かなかったことから、関東には土の城が多く残る結果となりました。関東在住の石垣ファンにはちょっと残念な歴史経緯ですが、そのおかげで貴重な土の城の遺構が今に残り、日本の城の多様性に一役買っているのです。
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。