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赤い城

意富比神社が建っています (2019/01/19 訪問)

最寄りは飯山満駅。
畑の中に建つ意富比神社が跡地。

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赤い城

住宅地に土塁が少し残っています (2019/01/19 訪問)

高根寺と秋葉神社から県道8号線の反対側の住宅地に土塁が残っています。
説明板等はありません。
跡地の多くは私有地になっているようです。

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夏の雪だるま

百名城甲府城 (2016/09/18 訪問)

山梨県甲府市の百名城の一つ甲府城です。武田一族一条氏の一条小山城があったと言われますが、1582年武田氏滅亡後、豊臣氏時代に甲府城の築城が始められ、豊臣秀勝、加藤光泰をへて浅野長政により1600年頃完成したとされます。関ヶ原の戦い後、徳川領となり城番制がしかれますが、1704年柳沢氏が城主となり、1724年再び幕府領となり甲府勤番制となります。城は本丸、二の丸の外各種曲輪を配し、その周囲を堀で囲んでいます。現在城は、舞鶴城公園となり、天守台や高さ17mの高石垣、水堀が遺構として残り、稲荷櫓や鉄門、鍛冶曲輪門などが復元されています。また、舞鶴城公園からJR中央線を挟んで歴史公園に山手御門が復元されています。無料駐車場はないため、民間の有料駐車場を利用しました。

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夏の雪だるま

信玄の居城 (2016/09/18 訪問)

山梨県甲府市の百名城の一つ躑躅ケ埼館です。1519年甲斐を統一した武田信虎(信玄の父)が館を建て、1年後、背後の石水寺丸山に詰めの城要害山城を築城しています。1521年駿河の今川氏が甲斐に侵攻。信虎は臨月の妻を要害山城に避難させ、そこで信玄が生まれています。武田軍は世継ぎ誕生に決起し今川軍を打ち破ったとされます。以来、武田氏は滅亡まで外敵を一歩も甲斐に入れず、躑躅ケ埼館は、信虎・信玄・勝頼三代の居館となっています。館は一辺約200mの方形の主郭を中心に土塁と堀で囲み、その周りにいくつかの副郭が造られた平城です。館の周りには家臣の屋敷が建てられ格子状に整備された城下町があったとされ、正面には裏切りにより武田氏滅亡を早めたとされる御親類衆筆頭と言われた穴山信君の屋敷跡があります。現在、館跡は武田神社となり地元の人々の信仰の場となっています。

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夏の雪だるま

武田最後の城 (2016/09/18 訪問)

山梨県韮崎市の武田氏滅亡前に最後に築いた新府城です。城は、1575年長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗後、武田親族筆頭の穴山信君が甲斐国内に新たな城の築城を武田勝頼に献策(武田家の疲弊と家中分裂を狙った策略とも言われます)、1581年正月勝頼が真田昌幸に織田徳川軍を迎え撃つ堅固な城づくりを命じたのが始まりです。昌幸は躑躅ケ埼館の西15kmの七里ケ岩と呼ばれる釜無川に侵食され断崖となった台地上に1月末から昼夜兼行で築き11月頃には9割方完成、12月末に勝頼は躑躅ケ埼館から移住したとされます。しかし、1582年新府城普請の負担への不満から木曽義昌が謀反・織田軍が武田侵攻をはじめたため、勝頼は1万を率いて迎え撃ちますが、穴山氏などの裏切りが発生したため、武田軍は新府城へ籠城するため引き上げますが、兵の逃亡が相次ぎ新府城へ着いた時は兵2千までに減少。新府城を守るには兵が少なく、勝頼は城に火をかけ重臣小山田信茂の岩殿城へ向かいますが小山田氏も裏切り、途中の天目山で僅か家臣40名程と3月11日最後を迎えています。同年6月本能寺の変で織田信長が亡ぶと徳川対北条の旧武田領の覇権争いが勃発、徳川家康が要害である新府城跡を修復本陣とし、1万の徳川軍に対し兵力で勝る北条軍5万相手に戦線を維持、和睦に至っています。北条氏滅亡後、甲府城が築かれると新府城は廃城となっています。城は釜無川と塩川に挟まれた台地に築かれ西側は断崖絶壁で、本丸、二の丸、三の丸、帯曲輪を配した東西550m南北600mの規模で、甲州流丸馬出しや三日月堀、鉄砲出構などが確認できるようです。訪問日、到着時で小雨でしたがスマホの雨雲レーダーで豪雨となる予報で登城は断念しました。全体を回る場合は県道17号線沿いの駐車場から道路を渡り歩道を釜無川方向へ進み、搦手から二の丸、本丸と回り三の丸から車止めの有る車道を県道17号線へ戻る約50分コースとなるようです。本丸だけなら県道から藤武神社の階段を上りますが、県道付近でもやぶ蚊が多く、虫よけスプレーは必須です。

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松平忠輝監禁の城 (2016/09/23 訪問)

長野県諏訪市の高島城です。1542年信濃の名族諏訪氏を攻略した武田氏は、諏訪氏の居城上原城に諏訪郡代板垣氏を置きますが、中信濃攻略の拠点としてより北にある諏訪氏の支城があった諏訪市街地北方の茶臼山の高島古城を改修し郡代を置きます。武田氏が滅亡、織田信長が本能寺の変で亡くなると、諏訪氏が旧臣とともに蜂起し高島古城に入り旧領を復活、徳川家康が旧武田領を狙い侵攻してくると家康に味方し、領地を安堵されています。その後、諏訪氏は平城の金子城(諏訪市中洲)を築き移りましたが、家康が関東へ移封となると武蔵国へ転封となります。1590年豊臣秀吉家臣日根野氏が高島古城へ入城、新たに諏訪湖湖畔のこの地に、1592年新城の築城を開始1598年完成しています。城は諏訪湖と沼沢地に囲まれ衣之渡川と中門川などの川を堀とし、本丸・二の丸・三の丸・衣渡之郭を配し、金子城の石垣や墓石などを用いられたとされる総石垣造で、諏訪湖の波が石垣に迫る「諏訪の浮城」と呼ばれ、日本三大湖城の一つとされます。築城時、天守閣の屋根は瓦ではなく桧の薄い板を葺く柿葺であり、石垣は野面積みで稜線だけが加工した石を用い、地盤が軟弱なため沈下しないよう大木で組んだ筏の上に石垣が積まれたとされます。1601年日根野氏が下野国に転封になると諏訪氏が2万7千石で復活、初代藩主諏訪頼水から10代続き、明治維新により廃城を迎えています。1626年には改易流罪となった徳川家康6男松平忠輝を預かり監禁場所として南の丸を増設、忠輝は92歳で亡くなったとされます。城は廃城により天守閣など撤去され、現在は二の丸・三の丸が市街地となり本丸が高島公園として一般開放され、昭和45年には天守・櫓・門が再建されています。

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武田軍玉砕の城 (2016/09/23 訪問)

長野県伊那市の百名城の一つ高遠城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、信濃諏訪地方の領主で諏訪神社上社大祝の諏訪氏一族高遠氏の居城とされています。高遠氏は独立心が強く宗家諏訪氏とは反目、1541年武田晴信(信玄)の諏訪氏攻略では武田軍と同調。諏訪氏を攻撃し諏訪氏を滅ぼしますが、諏訪領有を巡って武田氏と対立。武田軍と戦いになり敗れ、1545年高遠城は武田氏に降伏開城。1547年山本勘助の縄張りにより大規模に改修され秋山信友が城主となり信濃侵攻の拠点となっています。1562年武田信玄と諏訪氏娘の子である勝頼が諏訪氏を継承し高遠城主となりますが、武田氏嫡男義信が謀反の疑いで廃嫡となると、勝頼が躑躅ヶ崎館へ移り信玄実弟信廉が城主となっています。1575年長篠の戦いで武田氏が大敗すると、勝頼は国内の守りを固めるため躑躅ヶ崎館に替わる新府城を築城、高遠城には弟の仁科盛信を城主とします。1582年木曽氏が織田へ寝返ると、勝頼は木曽氏攻めに、従兄弟の武田信豊を先鋒として兵5千を向かわせ、勝頼自身も兵1万を率い後詰めとします。それに対し織田氏も5万の兵で武田侵攻を開始。木曽攻めでは鳥居峠で武田軍は敗退。信濃伊那では侵攻した織田軍に恐れをなし、飯田城・大島城は戦わず逃亡、唯一高遠城が織田軍からの降伏勧告を退け兵1千で徹底抗戦。3万余の大軍に夜明けから始まった攻城戦は夕方にまでおよび、城主盛信も含め全員が玉砕したとされます。多くの武田軍が戦わず崩壊した中で唯一激戦を繰り広げた城となっています。武田氏滅亡後、本能寺の変で信長が亡くなると徳川家康がこの地を制しますが、関東移封により伊那領は毛利秀頼に与えられ、秀頼が亡くなると京極氏、関ヶ原の戦い後は、保科氏、その後鳥居氏や天領となり、1691年内藤氏が城主となり明治維新まで続いています。城は三峰川と藤沢川に挟まれた台地上に築かれ、南と西側が断崖となっている堅城で、本丸、二の丸、三の丸、南曲輪、法憧院曲輪、勘助曲輪が配され各曲輪に堀が回されています。明治維新により建物は撤去されましたが、城は現在高遠城址公園として各曲輪や堀が残る桜の名所となっており、民間への払下げにより切り詰められ使用されていた大手門が三の丸に移設され、また、城下の問屋役所の問屋門が本丸に移設されています。

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赤い城

私有地になっています (2019/01/19 訪問)

東武馬込沢駅から徒歩で20分。
私有地となっていて見ることは出来ません。
遺構もほとんど無いようです。

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武田信玄の伊那制圧の拠点城 (2016/09/23 訪問)

長野県飯田市の飯田城です。この城が伝承に登場するのは室町時代で、現在の城地から南西約800mの愛宕神社の場所に城を構えていた坂西氏がこの地に城を移したと伝えられています。その後、武田信玄が下伊那を制圧すると飯田城には伊那郡代として秋山信友が入城し強固に城を改修。1550年から1582年の武田氏の滅亡までおよそ33年間武田氏の支配下にあったと言います。長篠の戦いでの武田氏の大敗や木曽氏の織田への寝返りにより、1582年織田信長の武田氏攻略がはじまると、飯田城主保科正直は戦わずに逃亡、城は制圧され武田軍は高遠城以外まともな抵抗をしないまま武田氏滅亡を迎えます。その後、信長の家臣毛利秀頼が伊那全郡を与えられて飯田城主となりますが、わずか3か月足らずで信長が本能寺の変で倒れると秀頼は京に逃れ、旧武田領を狙う徳川家康の支援を受けた旧武田家臣下条氏が飯田城を掌握、その後家康家臣菅沼氏が入城しています。1590年徳川氏が関東に移封になると、豊臣秀吉から毛利秀頼が十万石を与えられて城主となり、3年後に没し娘婿の京極高知に引き継がれて、近世城郭に改修されたとされます。1600年関ヶ原の合戦後、京極氏が去ると小笠原秀政が入り、1613年秀政が松本城に移ると1617年脇坂氏が入ります。その後堀氏が1672年に城主となると明治にいたる200年弱当地を治めています。城は天⻯川の⽀流の松川と野底川にはさまれた台地の先端部分に築かれた平⼭城で、東から山伏丸、本丸、⼆の丸、桜丸、出丸、三の丸を配していました。現在、本丸は長姫神社、⼆の丸は飯⽥市美術博物館、藩主居館のあった桜丸は県合同庁舎・中央図書館、出丸は追手町小学校、三の丸は商店街となり、遺稿としては、本丸神社境内に土塁と石垣、⾚⾨とも呼ばれる桜丸御⾨が中央図書館裏に、搦手門の水の手御門跡に石垣などが城址に残り、移設されたもので市内松尾久井の民家に、二の丸二の門の⼋間⾨が、桜丸の⾨が市内の経蔵寺山門に現存しています。

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国宝、黒の城 (2016/06/18 訪問)

長野県松本市の百名城の一つ松本城です。1504年信濃国の守護小笠原氏の家臣島立氏が豪族坂西氏の館跡に築城した深志城が前身とされます。1550年武田信玄が信濃攻略を目指し小笠原長時から奪い北信濃進出の拠点となっています。武田氏滅亡後は織田信長から援助を得て木曽義仲が城主となっています。本能寺の変後、父祖の地を継いだ小笠原貞慶が松本城と改称し、城の改修が行われたとされます。1590年豊臣秀吉の小田原攻め後の領地替えにより石川数正が城主となり、大規模な城の改築を行い1594年二代康長の時、現在の天守閣が完成したとされます。その後、石川氏は改易となり城主は小笠原・戸田氏と替わり、1633年城主となった松平氏が天守閣に付随する辰巳附櫓・月見櫓などを増築。その後も城主は次つぎと替わり戸田氏で明治維新を迎えています。城は松本市街地にある平城で、天守閣は外見五層六階建ての黒づくめの外観であり国宝に指定され、城は三重の水堀と土塁を巡らし、本丸と二の丸を内郭とし三の丸を外郭として面積39万㎡、内郭には天守や御殿など藩の施設を置き、外郭は上級家臣屋敷とし、総延長3.5㎞の土塀で囲まれた名城と言われています。

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城下町より低い穴城 (2016/06/18 訪問)

長野県小諸市の百名城の一つ小諸城です。城の起源は平安時代この地を支配していた木曽義仲の家臣小室氏が建てた館が始まりとされ、南北朝時代に小室氏が衰退すると大井氏の領地となり1487年大井氏が築城。この地は関東と信州を結ぶ交通の要衝であり、戦国時代に入る北信濃攻略を狙う武田信玄が大井氏を攻略、小諸城の原型となる連郭式の平山城を完成させています。1582年武田氏が滅亡すると織田信長の家臣滝川一益の領地となり家臣道家氏が城主となりますが、本能寺の変で滝川氏は伊勢へ退去後、旧武田領をめぐり北条氏政と徳川家康が争い、小諸城は徳川氏のものとなりますが、豊臣秀吉の小田原征伐後、仙石秀久が5万石で入封、近世城郭に大改修し現在の城となっています。関ヶ原の戦いでは、徳川氏が上田城の真田氏攻め徳川軍3万8千の本陣として使用したとされます。その後、城主はめまぐしく替わり、1702年牧野氏が城主となり明治維新まで続いています。城は千曲川に面した断崖の上に南北150mの幅で本丸・二の丸・三の丸が700m程の長さで連なり、本丸が一番低く三の丸が一番高い珍しい構造で、城下町より城が低く穴城とも呼ばれたとされます。また、島崎藤村の詩(小諸なる古城のほとり)でも有名な小諸城です。現在本丸・二の丸が市営公園懐古園となって天守台や石垣が残り入口に三の門が現存しています。三の門が訪問時修繕中で、覆いがかけられていました。また、しなの鉄道の線路を越えた所にある大手門公園に大手門が現存しています。

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真田氏の居城 (2016/06/18 訪問)

長野県上田市の百名城の一つ上田城です。1583年真田昌幸により築かれた城で、千曲川の分流尼ケ渕の断崖に臨み、太郎山と千曲川・神川に取り込まれた天然の要害です。1585年昌幸の領地沼田城を北条氏に引き渡せとの徳川家康の命に従わなかったため、大久保忠世等の徳川勢8千の兵が上田城を攻めますが、真田軍2千足らずにより徳川軍は多数の兵を失い退いています。1600年関ヶ原の戦いに際し豊臣方についた真田昌幸・幸村親子は、徳川秀忠率いる3万8千の徳川軍を2千5百の兵で5日間この城で防ぎ、このため秀忠軍は関ヶ原の戦いに間に合わず、真田と上田城の名は天下一に鳴り響いたとされます。その後上田城は徳川氏により破却され徳川方についていた長男の真田信之に引き渡されますが、信之は城を再建せず三の丸に御殿を作り上田を治めています。1622年上田に6万石で入封した仙石忠正政が城を復興、1706年松平氏が5万8千石で入封し明治維新まで続いています。城は本丸・二の丸・三の丸からなり、現在三の丸は市街地となっていますが、本丸・二の丸は西・北・南櫓、土塁・石垣・豪跡が残り上田城址公園となっています。城内に大河ドラマ館等あり観光化が進んでいるのは賛否のあるところです。

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川中島の戦いの信玄の拠点城 (2016/06/18 訪問)

長野県長野市の百名城の一つ松代城です。いつ頃築城されたかは定かでありませんが、武田信玄の前進基地として整備した海津城の名が1560年頃確認されています。上杉氏の拠点飯山城から40km、武田氏の本拠甲府から140kmの位置、上杉謙信と武田信玄が何度も戦った川中島の地にあり、信玄の軍師として知られる山本勘助が網張したとも言われ、武田信玄軍2万と上杉謙信軍1万3千が激戦を戦った第四次川中島の合戦の武田氏の重要な拠点として、海津城と呼ばれていました。武田氏滅亡後は織田氏、本能寺の変後は上杉氏の領地となり、その後も領主が頻繁に代わり1600年関ヶ原の戦いの時に城主となった森忠政が二の丸・三の丸を整備し土塁を石垣に築きなおしたとされます。1620年真田信之が上田城より移封となり松代城と改められ真田10万石の居城となり明治維新まで続いています。城は北西を流れる千曲川を自然の要害として作られた平城で本丸・二の丸・三の丸・花の丸などの曲輪を備え水堀で囲まれていました。明治維新により廃城となり城は破却されましたが、平成16年土塁・堀・太鼓門・不明門などが復元されています。松代城の本丸は9時開城で、朝6時前に着いたため城門が閉まっており、本丸周辺だけの散策となりました。

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上杉・武田の境目城 (2016/06/18 訪問)

長野県飯山市の飯山城です。春日山城の南方40kmにあり、築城時期は不明ですが、鎌倉時代この地に土着した泉氏が築城したのが始まりとされます。戦国時代は南に位置する高梨氏の配下となってます。1558年武田信玄の北信濃侵攻により高梨氏は本城を追われ飯山城に籠城。上杉謙信に援軍を求め、長野から越後への交通の要衝である飯山城を、上杉謙信は1564年大々的に改修、上杉謙信の属城となってます。謙信が亡くなると上杉景勝と武田勝頼の和睦により飯山城は武田氏に割譲。しかし、1582年武田氏が滅亡すると織田氏の城になりますが、本能寺の変で、織田で勢力が撤退すると再び上杉氏の城となっています。上杉氏が会津へ移封後は、数々の城主の入れ替わりがあり、1717年本多氏が城主になると明治維新まで続いています。城は千曲川西岸の丘陵に築かれた平山城で東西300m南北400mの規模で本丸、二の丸、三の丸、西側に西郭を配し、周囲には水堀を廻らしていたとされます。本丸の南側は急斜面と高い土塁・広い堀があり、東西北側は石垣造りで、北西に桝形虎口が残ります。本丸から三の丸には城主の居館・政庁などが置かれ、西郭には重臣屋敷、堀外は家中屋敷、その外側に城下町が置かれていたとされます。城は、城山公園として城門が復元され、平成28年三の丸を整備工事中で、城門なども10年以上をかけ整備する計画のようで今後が楽しみです。

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謙信家臣、色部氏の居城 (2016/05/03 訪問)

新潟県村上市の平林城です。平林城は揚北衆の一人色部氏の居城で、源頼朝からこの地の地頭に任ぜられ大きな勢力をもっていたとされます。戦国時代上杉謙信に従った色部勝長は、本庄繁長が武田信玄に内通反乱を起こすと謙信軍として村上城を包囲。しかし、繁長の夜襲を受け戦死したとされます。色部勝長は関東北条氏との戦いで活躍、武田信玄との川中島の戦いでは上杉軍屈指の勇将柿崎景家の危機を救うなど謙信の信任も厚く、勝長の死に謙信は大いに嘆いたとされます。謙信死後の御館の乱では色部氏は本庄繁長と共に景勝の勝利に大いに貢献したと言われます。上杉氏の会津移封に伴い重臣として同行し平林城は廃城となってます。城は標高281mの要害山を詰めの城した山麓に土塁と堀を廻らした城で国史跡となってます。東西450m南北300mの本丸、二ノ丸、三之丸を有し、北側は滝矢川を自然の堀とし、西と南に幅10m程の堀を作り、東側は詰めの城加護山要害山となってます。写真は城説明板、岩舘曲輪(三之丸)、岩舘と土塁、中曲輪(二ノ丸)、殿堀跡(本丸)、城略図、由来、詰めの城側の土塁、空堀、登口、城入口です。平林城は国道7号線の平林駅近くに平林城の標識がありそれに従い横道を入った千眼寺の先にあります。

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御館の乱、上杉景虎最後の城 (2017/05/02 訪問)

今年続百名城に選定された新潟県妙高市の鮫ケ尾城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、越後守護代長尾氏(のちの上杉氏)が北国街道監視のため1500年代に築いたとされます。謙信の死後勃発した跡目相続の争い「御館の乱」では、鮫ケ尾城主堀江氏は、上杉景虎に味方しました。しかし、景虎は景勝に敗れ、鮫ケ城へ落ち延びますが、堀江氏は景勝に寝返り、城から退去、景虎はわずかな手勢は立て籠もるも落城、自刃したとされます。城は北陸新幹線上越妙高駅南西3㎞付近の矢代川左岸の標高909mの南葉山から東に伸びた尾根の先端標高185mに築かれ、本丸、二の丸、三の丸など配し東西600m南北300mの規模とされ、二の丸からは被熱した陶磁片が、三の丸からは炭化した握り飯が出土したとされ、落城後廃城となったと思われます。城跡には土塁、堀切などが残り往時を偲ばせます。城跡は、上越市から妙高市へ向かう県道63号線から県道85号線に入り斐太歴史の里駐車場へ止め、城跡へ向かいましたが、総合案内所を通る北登城道は工事により平成29年12月末まで通行止めだったため、東登城道で城を目指しまた。城跡手前の中腹に弥生時代の空堀を巡らした住居跡の斐太遺跡があります。

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山の上の石垣の城 (2016/05/03 訪問)

新潟県村上市の村上城です。別名を舞鶴城ともいい、村上市街地の東に築かれた標高150mの山城です。この城は室町時代以降この地の地頭となった本庄氏の根拠地で、揚北衆の一人として戦国時代上杉謙信に対して本庄氏当主繁長は抵抗しました。謙信に従った後も1568年武田信玄に内通し反乱を起こし、村上城に籠城。謙信の攻撃を受けましたが勇猛な繁長はゲリラ戦と夜襲により謙信軍に多大な被害を与え、翌年会津芦名氏の仲介で許されています。1598年景勝の時会津に国替えとなり代わりにこの地に入った村上頼勝が大改造を行い、その後、堀氏、松平氏によって本格的に築造され、三層の天守閣が威容を誇ったとされます。しかし、1667年落雷により天守は焼失。その後1720年内藤氏が城主となり以降幕末まで130年間続いています。戊辰戦争では新政府軍の攻撃受けた村上城は、村上藩兵自らが火を放ち城は焼失、現在は山上の石垣が往時の名残を残すみのです。城は市街地の東の臥牛山の山頂に本丸、二の丸、三の丸を配し、中腹に大小の曲輪を設け、西側麓現在の城山児童公園に城主居館があったとされます。児童公園から歩道を登り約25分程の山頂本丸を目指しますが、公園の駐車場は狭いため、500m離れた市役所駐車場に置いて登りました。

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百名城の新発田城 (2016/05/03 訪問)

新潟県新発田市の百名城の一つ新発田城です。この地に初めて築城したのは鎌倉時代地頭に補任された佐々木氏の末裔新発田氏とされ上杉謙信・景勝時代、揚北衆の重鎮として勢力を固辞していましたが、1581年豪勇の誉れ高き新発田家当主重家は織田信長に内通し、破竹の勢いで周辺領地を占領します。しかし、1582年信長が本能寺の変で亡くなると上杉景勝軍は総攻撃を開始、重家支配下の城を次々に攻略、新発田城に迫ります。これに対し新発田重家は城から出撃、景勝軍に7百騎で突撃し最後は自刃したとされます。その後、上杉氏が会津に転封となり、1598年加賀から6万石で入部した初代藩主溝口秀勝が旧城地に築城を開始、56年後の三代藩主宣直の時に城が完成してます。城は本丸を二の丸が取り囲み、南側に三の丸を配し東西500m南北1000mの規模を有していた平城とされます。本丸は石垣造りでしたが、その他は土塁で作られ天守閣はなく、本丸、二の丸、三の丸に三階櫓を含め11の櫓があったとされます。明治維新により新政府の命で城は取り壊され、本丸表門と石垣、二の丸隅櫓のみが残っています。平成16年に三階櫓と辰巳櫓が復元され、平成18年に日本百名城に認定されています。現在城跡は陸上自衛隊の駐屯地となっていますが、城址公園として本丸の一部に石垣、表門、復元された三階櫓、辰巳櫓、本丸に移築された二ノ丸櫓が遺構として残っています。

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謙信の城 (2016/07/30 訪問)

新潟県上越市の百名城と中世五大山城の一つ春日山城です。城は標高180mの春日山に南北朝時代に築かれ戦国時代長尾為景(謙信の父)、上杉謙信らにより整備拡張され城域は2km四方にわたるとされます。上杉謙信の居城として山頂に本丸を置き周囲に大小200を超える曲輪が配され、重臣の屋敷も山中に建てられています。1578年謙信が49歳の若さで病死すると跡目争いが養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏政の弟)の間で勃発。春日山城の本丸尾根続きに屋敷のあった景勝がいち早く本丸に入り金蔵と兵器蔵を押さえ、本丸下の二の丸から下にある三の丸に屋敷の有った景虎の機先を制します。双方が跡目を譲らず争いが始まり景勝の本丸からの鉄砲などの攻撃に耐え兼ねた景虎が春日山城から脱出、府中の前関東管領上杉憲政の御館へ入り籠城。周辺の上越地方の豪族らが景虎に味方し6千の兵が集まり、これらの兵で景虎は春日山城を攻撃。これに対し景勝に味方したのは新発田氏などの下越地方や実家の上田地方の豪族で春日山城から御館を挟んで遠く離れており、城内の景勝の兵力は少数でしたが、天然の要害である難攻不落の春日山城により景虎の攻撃を撃退しています。しかし、周辺大名の庄内武藤氏、会津芦名氏、小田原北条氏、甲斐武田氏が景虎に味方。特に武田勝頼は2万の兵で越後に侵入してきます。これに対し景勝は信濃北部領地の割譲と本丸金蔵にあった黄金二万両で勝頼との間で和平を締結。これにより勢いをました景勝は次第に景虎方を圧迫。御館は落城し景虎は落ち延びる途中で味方の裏切りにあい自害しています。その後、乱を収束させた景勝は豊臣秀吉に従属。1598年秀吉の命により上杉氏が会津へ転封になると堀氏が春日山城へ入城しますが、1607年不便な山城にかわり直江津湊近くに福島城を築き移ったため廃城となっています。平成28年7月27日までの大雨で春日山城の二の丸・三の丸下方斜面が崩壊したため訪問する前日まで登城禁止でしたが、訪問した7月30日から本丸へ登れるようになりましたが、二の丸三の丸は立入禁止で残念でした。

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夏の雪だるま

天下普請の城 (2016/07/29 訪問)

新潟県上越市の高田城です。1610年60万石でこの地に入封した徳川家康の六男松平忠輝は福島城に入城。徳川幕府は加賀の前田氏、出羽の上杉氏をおさえるため堅固な城を築城することとし、諸大名に国役普請を命じ1614年伊達政宗や上杉景勝など13の大名が工事に参加、大雨などにより難航したとされますがその年のうちに完成させ、福島城を廃して忠輝が入城しています。城は石垣を使用せず天守閣もつくらず本丸西南隅に三重櫓が建てられています。大阪冬の陣の前で工事を急ぎ、付近に石材がなく遠方から集める余裕がなかったためとされます。しかし、忠輝は大阪夏の陣での失態や伊達政宗と陰謀を図った疑いなどから1616年領地没収となり、以降は領主が多数入れ替わり、1742年徳川四天王と言われた榊原康政の子孫の政永が15万石で入城し明治維新まで続いています。城は高田平野の菩提ケ原に築かれ本丸の周囲に土塁と堀、さらに二の丸、南側に三の丸、北側に北の丸を置き、関川と青田川を外堀とし東西1200m南北1000mの規模の平城とされます。現在城は、明治に入り旧陸軍第13師団駐屯のため大規模な土塁撤去・堀の埋め立てが行われ東半分はなくなり、本丸を含めた西側が高田公園となり三重櫓が再建され、公園の桜は三重櫓とお堀に映える様が日本三大夜桜の一つに数えられています。

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