一気に春日山城を攻めたい気持ちを堪えて途中下車。直江津。ご存知のとおり、越後の地は200年間上杉家のものでした。住民の殿様への愛着も相当で、その推しぶりは、逆説的ですが、秀吉が上杉景勝を会津に移した後に造られた城の縄張にも滲み出ているのだから興味深いものがあります。
後任として春日山に入った秀吉の功臣堀氏は1607年、日本海を背負った平野部に福島城(福嶋の表記も)を築きます。鉄砲使用で山城の機能が失われたことに加え、時代はすでにポスト関ヶ原。戦乱の世でなければ、山に拠り続ける必要もなく、国政の中心としての適地に大規模な平城をつくるのはある種の流行でした。ところがこの福島城、海だけでなく川も巧みに利用したガチの水城。天然の要害という点では山城となんら変わりありません。一体何をそんなに警戒したのでしょうか。
堀家の越後支配は難渋したようです。住民からすれば、上杉以外の藩主は全てよそ者。要は気に入らないのです。ことあるごとに一揆が起き、城下町経営どころか、領民との交流もままならないーー。わずかな遺構や縄張図からはそんな地域の歴史が読み解けます。結局、7年で廃城となりました。一方、旧領復帰を目論む上杉が裏から一揆をそそのかしたという疑惑が晴れません。謙信公以来の「義」とは相容れない気もしますが、これも直江兼続の地元「愛」だと言われれば、まあそうなのかもしれません。
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余談ですが堀氏はその後、お家騒動で領地召上げ。同家を断絶しようと考えていた家康にとっては渡りに船で、これを機に自身の六男、「鬼っ子」松平忠輝(伊達政宗の娘婿)を投入。越後を一族で固め、加賀の前田、出羽の上杉を牽制するという北陸方面の警戒態勢が一応の完成をみますが、後にこの選択が家康の“終活”にノイズをもたらすことになります。その話は別の機会に。
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