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じゅんじん

お寺 (2022/02/27 訪問)

三河で屈指の城郭寺院だと思ってます。櫓にしか見えん。堀もある。

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新ろくべえ

富士山の見える名城 (2022/02/27 訪問)

足柄城は、足柄峠(矢倉沢往還)の要所であり、そして見晴らしがよい城です!
城に行ったのですがあまり情報がありませんでした。
なので調べたところ、足柄城は16世紀ごろに後北条氏によってつくられた山城で、
永禄12年ごろから度々普請を行っているのでそのくらい重要なかなめだったらしいです!。
ですが1590年の豊臣秀吉の北条征伐で落城し、廃城となりました。
 
〔城情報〕
〔城情報〕
・築城年      ❙16世紀ごろ
・廃城年      ❙1590年(天正18年)
・築城者      ❙後北条氏
・最後の城主    ❙後北条氏
・廃城理由     ❙後北条氏が滅亡し、城主がいなくなったため
・主な城主     ❙後北条氏
・遺構       ❙堀、石垣、曲輪、土塁
・主な建築物    ❙無
・説明看板 、石碑 ❙石碑だけあり
・駐車場、トイレ  ❙駐車場だけあり
・天守       ❙無
・保存状態(自身判断)❙遺構はあるが予想が出来ない
・備考       ❙・富士山が大きく見える
          ❙・県境

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北風の又三郎

地震

昨日の地震の影響で仙台城の石垣が崩れたり、伊達政宗像が傾いたりしたそうです。死者や怪我人も出たということを聞き、地震の恐ろしさをを痛感しました。
#仙台 #地震 #石垣

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新ろくべえ

河村城に行ってきました (2022/02/27 訪問)

 障子堀が有名だと聞き、行ってみました!
河村城の築城者の、河村氏が秀郷流藤原氏の一族である波多野遠義の次男、
波多野秀高が山北を領し、河村と名乗ったのが始まりといわれています。
源平争乱の1つの戦いである石橋山の戦い(大河ドラマでもやっていますね!)
で秀高の子である義秀は、平氏に味方したため領を没収されますが、
鎌倉の源頼朝に流鏑馬で妙技を見せ、河村に復帰しました。【吾妻鏡によると】
 そして、南北朝時代には足利尊氏軍との戦いの時に、新田義興が籠城しますが
新田軍は河村城を退去しました。【太平記によると】
 戦国時代、河村城は足柄峠が近くにあり、南西には今川家、北西には武田家の
領があったため、小田原北条氏にも注目され、出城として活躍しました。
 その為、北条氏の城によくある障子堀(例・小田原城・山中城など)が確認されています。
しかし1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めによって廃城となりました

★現在は河村城址歴史公園として整備され保存状態がよく、遺構が見やすいのでお勧めです!
なので県内の山城としては初めて、県指定史跡になっています。

〔城情報〕
・築城年      ❙平安時代末期
・廃城年      ❙1590年(天正18年)
・築城者      ❙波多野秀高(河村秀高)
・最後の城主    ❙北条氏
・廃城理由     ❙北条氏が滅亡し、城主がいなくなったため
・主な城主     ❙河村氏、(新田氏)、北条氏
・遺構       ❙堀、障子堀、切岸、曲輪、土塁
・主な建築物    ❙展望あずまや(大庭曲輪辺り)
・説明看板 、石碑 ❙有
・駐車場、トイレ  ❙両方有(きれいに整備されています!)
・天守       ❙無
・保存状態(自身判断)❙保存状態がとてもよく、遺構が良好に残っています。

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大和高原を行く (2022/03/13 訪問)

先に投稿した畑城から更に大和高原を南西に進みます。古城盛衰記さんが、「県道782号線より北に行った、防火水槽横西側にコンクリート舗装の幅1.5mほどの道があり、行き止まりの廃屋右手に登り口」と教えてくれてますが、たまたま出会った麓の村の住人が「なにもないし、誰も行かないので道もない」と言われたことから、城の南西の谷を登る細い舗装道路を行って、城の背後から最短距離で直登することにしました。山の尾根筋は檜の植林で、下草はなく、難なく城域に着きました。
まず、城の背後を守る、高くて急峻な土塁と横堀のセットに圧倒されました。登るすべがありません。土塁を回り込んで本郭に進入。本郭を最高点にして、村落側の南西に郭群が配置されています。南東の尾根に二重の堀切があり、帰りは、そこを越えて山を下ってみました。古城盛衰記さんが教える、廃屋横に降りられましたが、最後のあたりは道が失われつつありました。
大和高原の小盆地と耕地、村落の一例の写真を添付しました。

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コロスケコロコロ

片倉城 ! (2022/03/05 訪問)

片倉駅からお城までマンホールが案内してくれて良かったです。

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カズサン

七曲り登城口から三の丸 (2010/04/17 訪問)

 桜を追って新発田城と村上城を1泊2日で平成22年4月中旬、高速を飛ばして出掛けました前日に村上城を攻めますが雨上がりの曇り日どんよりして写真撮影条件悪し、到着は午後2時過ぎ、車は以前駐車した登城口の一文字門跡にやっと1台駐車出来ました。
 現在グーグルマップで見ると一文字門跡の南西50m程の所に大型駐車場が完備してる様子、便利楽に成りました。

 登城ルート:一文字門跡、七曲登城路、四ツ御門跡、三の丸・調練場跡・靭櫓・玉櫓の探訪と写真を投稿します。
 三の丸内部は昨日来の雨で草が濡れて居り、盛りのカタクリの花も雨でしぼれていました、周囲は低い石垣で構えられています、四ツ御門跡は石垣で構え特殊な造り、戦国時代村上城土の城の埋め門、その下に中世山城の郭群が存在しています、埋め門から覗いただけです、二の丸桝形虎口御鐘門の石垣は厳重な造りです。

 続きに本丸編へ

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イオ

みかんと梅(出城) (2022/02/26 訪問)

(続き)

南東の小曲輪群を抜けて山道を下って行くと、登城道から分岐した舗装道に至ります。案内表示に従って鳳生寺の方向に進むと5分ほど歩いたところで右手に梅園が広がり、その奥の竹藪が出城です。梅園の南縁を奥に進み、丸木橋を渡って出城へ。出城は主郭の周囲に腰曲輪、帯曲輪を配し、北辺に横堀をめぐらせ、東端は三重堀切により東尾根を遮断しています……が、竹藪と雑木林と化していて探索しづらい状況です。

梅園ではちょうど時季的に梅が綺麗に咲いていましたが、本城はみかん山、出城は梅園の奥というのは、有田みかんと南高梅の両産地の間に位置する日高地方らしいなぁ、などと春の訪れを感じつつの亀山城登城でした。
 

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todo94

県内の城めぐり2022② (2022/02/27 訪問)

雪の舞う中駆けつけましたが、3月14日までの冬期間中は閉館でした。今週末、入館できるといいなあ。

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小城小次郎

比高400mは伊達ではないが (2021/11/03 訪問)

武田信玄を二度も撃退して絶頂期を迎えたにも関わらず次第に孤立し、やがて自落の運命を辿ることとなる村上義清の居城はさすがに堅固な山にあった。比高400mは伊達ではないが、やはり一度は訪れてみなければいけないお城だろう。

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じゅんじん

田原城 (2022/02/28 訪問)

朝のお城巡りはすがすがしい。城門と櫓が復元されています。

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じゅんじん

看板見当たらず (2022/02/23 訪問)

自転車で行きました。手前の橋がしろやまはしでした。

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ほにゃにゃら

春 限定御城印

桜色限定御城印を4月3日発売します
200枚限定となります
勝間田城址で販売します

当日静岡古城研究会の方のお話もきけます

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ぴーかる

三日月陣屋 (2022/02/23 訪問)

【三日月陣屋】
<駐車場他>復元表門北側駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>曲輪・石垣・復元門・現存櫓
<感想>三日月陣屋は別名 乃井野陣屋ともいいます。初代三日月藩の藩主森長俊は津山藩主森長継の5男であり津山新田藩15000石を与えられるが1697年津山藩森衆利の代に津山藩が改易されると森長俊は石高そのままで播磨三日月藩15000石で転封され陣屋を築きます。以降9代森家が藩主として明治維新まで続きます。
 陣屋跡正面の表門は現存の物見櫓と復元門2門を含めた見応えある長屋門で石垣・堀もきれいに復元されている。物見櫓は維新後移築され再度元の場所に戻され修復復元され、復元門と一体化させて綺麗に長屋門として復元しています。また中に入ることが出来ます。長屋内には鬼瓦・復元工事の様子の資料が展示されています。表門の北側の御殿跡の曲輪壁にはわずかに石垣が残っています。陣屋跡の西側にある建物は広業館といい、1795年に建てられた藩校の一部を移築改築したもので維新後も学校として利用されていたそうです。広業館の横に陣屋の庭園跡もあります。
 迫力ある長屋門で復元に力を注いだことが窺えます。いい城跡です。

<満足度>◆◆◇

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岩崎城

岩崎城春イベントのご案内

岩崎城春イベント 岩崎城演劇day

岩崎城春イベントを開催します。
子ども劇「ぼくらのまちの岩崎城」、岩崎城刀劇隊による演武を行います。
秦琴愛好会による秦琴と歌のコンサートも開催されます。

4月3日(日)
11:00~ 岩崎城刀劇隊 剣術体験 / 岩崎城歴史記念館前
12:00~12:50 桜海爛漫 秦琴と歌のコンサート / 岩崎城歴史記念館横
14:00~ 子ども劇「ぼくらのまちの岩崎城」 / 岩崎城歴史記念館2階
15:00~ 岩崎城刀劇隊 演武 / 岩崎城歴史記念館前

ぜひ遊びにおこしください!

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カズサン

平成22年復元櫓と桜を満喫 (2010/04/18 訪問)

 平成16年に御三階櫓、辰巳櫓が共に木造で復元された新発田城、復元の翌年には三階櫓、辰巳櫓が見たくて登城しましたが、今回は桜の満開時期に合わせて登城しました。タイミング良く桜満開時に出会う事が出来大変ラッキーでした、前回辰巳櫓には登って居ますので桜と三階櫓、辰巳櫓、二の丸隅櫓を移築した鉄砲櫓周りを桜と共に撮影しました。
 前日は村上城を探訪し宿泊は村上の瀬波温泉ビューホテル、日本海を眺めながらの温泉と料理、地酒を堪能しました。
 大変満足な城探訪でした。

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生太郎

お城EXPOに行ってきました。 (2021/12/19 訪問)

年末にお城EXPOに行ってきました。
安定の面白さでしたが、御城印ばかり売ってました。

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生太郎

小田原市金かけてるなぁ。 (2022/03/16 訪問)

所用のついでに小田原城を写真に撮りました。
駅前からお城まで和風に全振りしていましたね。

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大和高原を行く (2022/03/13 訪問)

畑城主の奥田氏は、大和に進出した松永秀久に仕え、最後は徳川幕府の旗本になったと。
伊賀盆地から大和高原に入り、まだ奈良盆地は遠いが、松永の支配地域なんですね。伊賀は小豪族の集合体であったせいでしょうか。
畑城の北西の高校の脇から上がって行くルートと城の南側を回り込んで行くルートがありますが、城域に登り始める登城口は一つです。登山口と書かれた矢印のところから尾根を登って行きます。説明板にあるように規模は大きいです。
大和高原は、奈良県東北部の高原地帯の総称であり、北から、笠置産地、宇陀山地、室生山地を含みます。笠置城の下を流れる木津川を南に渡ると、標高200〜500mの高低差が少ない丘陵地帯が、奈良盆地と伊賀盆地の間に拡がります。奈良盆地の標高は100m以下、伊賀盆地の標高は200m前後なのでけっこうな比高があります。ここも吉備高原と同じく、一旦平坦になった土地が隆起した準平原と。吉備高原と違い、大きな川が無いので、小さな川が小さな盆地を断続的に作っています。そして、これらの盆地を支配する豪族の城が点在します。

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カズサン

【遠江・宝林寺】静岡県浜松市 金指近藤氏菩提寺 (2010/04/11 訪問)

 住所:静岡県浜松市北区細江町中川65-2
 駐車場:宝林寺の東側、国道362号線に接している。
 公共交通機関:天竜浜名湖鉄道金指駅下車東へ徒歩約15分

 初山宝林寺は井伊谷三人衆と言われた近藤氏の菩提寺、黄檗宗で江戸初期に創建の寺です。
 近藤氏は徳川に与し井伊直政の寄騎として軍功を上げ17000石の大名と成るが子たちに分与し、旗本宗家金指近藤家で5400石で旗本5近藤家に分かれ北遠に領有した、気賀関所も任される。

 12年前の平成22年4月中旬、同じ団地に住み町内会長歴任者の集まりで宝林寺の檀家総代を務める近藤さん(金指近藤家で元お殿様)に春の大祭に誘われ出掛けた時、気のままに撮った写真です。
 近藤家の陣屋跡(チョット分かりにくいかも?)と気賀関所、宝林寺、大河ドラマ直虎の井伊谷城を廻れば一日楽しめます、昼に浜松名物ウナギのかば焼き(店はそこそこ有ります)をゲットすれば一日幸せになれかも?。

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