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織田晃司

東国では珍しい (2021/07/30 訪問)

石垣の城。しかも山城。
排水機能も備えてます。

でも新田金山城の魅力は石垣だけじゃない。

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織田晃司

そこは織田家 (2021/07/29 訪問)

陣屋とはいえ大名扱い。信長の家系ならでは。

武家屋敷も建ち並ぶ歴史の里。

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織田晃司

町中に (2021/07/29 訪問)

ぽつんと建つ乾櫓と東門。
もっと散策すれば土塁などの遺構が点在してるという…

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にのまる

牟礼砦(東京都三鷹市) (2020/05/26 訪問)

 昨年の第一次籠城期間中に行ってきました。
 城びと未登録ですが、ニッポン城めぐりには登場しています。
 牟礼神明社の由緒書きに『1537年、北条氏綱の臣、北条綱種(今の高橋姓)が上杉家の老臣難波田弾正のたてこもる深大寺城に相対して当地に築陣した旧跡で…』とありました。
 パーツとしての遺構はなさそうでしたが、砦っぽい雰囲気を感じてきました( ̄^ ̄)ゞ
 
【まだまだお城川柳】
城跡がゴールのお散歩楽しいな♪

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TMN97

久保田城趾 (2021/08/06 訪問)

久保田城趾

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赤い城

土塁の上に神社が (2021/08/01 訪問)

宍戸駅からも近く、宍戸コミュニティーセンターの隣に土塁が残っていて駐車場もあります。
土塁の上には末廣稲荷神社が建っています。
宍戸氏によって築かれ、戦国末期まで居城としていました。
江戸期には松平氏の陣屋となりました。
この日はかなりの酷暑、神社の脇の木にはアブラゼミの大群が陣取っていました。

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織田晃司

業正がいれば (2021/07/29 訪問)

上州に手出しができないと武田信玄に言わしめた名将・長野業正の居城・箕輪城。

郭馬出西虎口門は目を惹きます。
本丸に架かる木橋を復元中。

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イオ

周辺史跡めぐり (2021/07/24 訪問)

(続き)

崇福寺
長良川北岸にある織田信長の菩提寺で、本堂裏の廟所には信長・信忠父子の野位牌と位牌堂があります。本堂内には信長の書状や肖像画、櫓時計、清洲城の鯱瓦などゆかりの品が展示され、本堂の天井は関ケ原の戦いの前哨戦で落城した岐阜城の血染めの床板を張ったもので血天井と呼ばれています。中でも、独断での伊賀攻めに失敗した織田信雄を叱責する信長の書状は、以前に伊賀の城をめぐった際にその存在を承知していましたので、原本を目にできて感慨深いものがありました。また、信長愛用と伝わる櫓時計は、実際には江戸期作の可能性が高いものの、写真でよく見かけるものだけに、展示されているのを見たときは、思わず「おお…」と声が出てしまいました。他にも、土岐頼高(頼芸の孫)による土岐鷹の画などもあり、拝観料大人200円は安すぎるくらいです。
境内には幼少期に小僧として崇福寺で修業していた稲葉一鉄が寄贈した梵鐘(現在のは戦後に再々鋳されたもの)があり、歴史を見ても、三世住職を務めた快川紹喜が武田信玄に請われて恵林寺の住職となり、武田氏の滅亡に際しては織田信忠に攻められて「心頭滅却すれば火自ずから涼し」の言葉を遺して火定するなど、数奇な歴史の巡り合わせを感じられる寺で、無料駐車場(10数台)もありますし、歴史好きなら訪れる価値は大いに有りです。

道三塚
崇福寺から北西に徒歩7分の住宅地には、長良川の戦いで敗死した斎藤道三の遺体を埋葬したとされる道三塚があります。本来はもう少し南にあったようですが、長良川の氾濫を避けるため、江戸後期に現在の位置に移されています。説明板の前に1台分の駐車場があるものの、ここに駐めると説明板が見づらい(写真も撮りづらい)と思います…。

織田塚
織田信秀(信長の父)が稲葉山城を攻めるも道三の反撃により大敗を喫した際、その死者を埋葬するために道三の依頼により織田塚が築かれました。御薗の榎から南西に徒歩6分の住宅地の一角にありますが、注意しないと素通りしてしまいそうです。また、織田塚から南西に徒歩4分の円徳寺の境内にも織田塚が改葬されています。

円徳寺
上記の織田塚改葬地のほか、信長らの楽市楽座の制札(未確認)や信長寄進とされる梵鐘が伝わり、岐阜城の戦いに敗れた織田秀信が高野山に上る前に剃髪した寺として髪切塚があり、秀信が用いたとされる兜が伝わっています。岐阜駅から北に徒歩10分の街なかの寺ですが、境内に駐車・駐輪可能です。

濃姫遺髪塚
岐阜市役所から北西に徒歩5分の住宅地に濃姫(帰蝶)の遺髪塚があります。濃姫については不明なことばかりで死期についても諸説ありますが、この遺髪塚は、濃姫は本能寺で信長と共に討死し、本能寺を逃れた家臣によってこの地に遺髪が埋葬されたと伝わります。

立政寺
明智光秀の仲介により信長と足利義昭が会見した寺で、義昭公御座所の石碑と説明板が建てられています。西岐阜駅から北に徒歩5分、岐阜城から距離がありますので車で訪れましたが、参道の南側と境内の西側に参詣者用駐車場(無料)があります。

この日の岐阜は猛暑日で、2リットルの麦茶を途中で飲み尽くしてしまうほどの暑さでしたが、あちこちに道三、信長、秀信の各時代にゆかりの史跡があり、城下を存分に堪能させていただきました。
 

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赤い城

武蔵から下総への水運の要衝 (2021/07/22 訪問)

葛西駅から徒歩で20分くらい。清光寺や香取神社のあたりが跡地ですが遺稿は残っていません。
清光寺の山門前に説明板が、香取神社の境内に石碑があります。
江戸川の河口に近く、水運の要衝となっていたと考えられます。
周辺模擬住宅地で名残を見つけるのも難しそうです。

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小城小次郎

崩落しても見どころ満載なことに変わりはない (2021/05/23 訪問)

2011年に城域が大崩落したため暫く立入禁止だったが今は自由に立ち入りできる。崩落部分以外の遺構はよく残り、特に尾根筋に残る連続堀切は圧巻。かの御館の乱で、景虎方(北条方)はここまで侵攻していたそうだ。

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織田晃司

大河ドラマ (2021/07/29 訪問)

「風林火山」や「江〜姫たちの戦国」でロケ地として使用。
中世の北信濃の城を再現した城です。

山城ですが車で近くまで行けます。ただかなり急な坂ですので登りはATのスポーツモードを使用。下りはエンジンブレーキを多用します。
ですから雪が降ると通行止めになります。

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織田晃司

飯山城跡公園 (2021/07/29 訪問)

復元整備図がありましたが、先人方々の投稿からあまり変わってないように思われます。
はたして進むのでしょうか?

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織田晃司

景虎終焉の地に思いを馳せる (2021/07/29 訪問)

御館の乱で相模に敗走中の景虎が鮫ヶ尾城で景勝方に追いつかれ自害。

米蔵跡には焼けて炭化した米が見つかった。

登城ルートは3ヶ所あります。各々自分に合ったルートで登城してみてください。

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イオ

城下町めぐり (2021/07/24 訪問)

岐阜城には3年ほど前にも登城していますが、城下にもいろいろと見どころはあるようなので、遅ればせながらの麒麟がくる紀行として再訪しました。鏡岩緑地の無料駐車場に車を駐めて、折りたたみ自転車で城下めぐりです。

天守遠望
今回は金華山には登らないので、せめて「若き日の織田信長像」越しに岐阜城天守の写真を撮影。長良橋から遠望する天守も夏空に映えていいですね。

御手洗池
金華山北西麓にあり、山上の伊奈波神社に参拝する際に手を洗う池だったことから御手洗(みたらし)池と呼ばれます。関ケ原の戦いの前哨戦として東軍の攻撃により岐阜城が落城した際には、大勢の奥女中たちが身投げしたと伝えられています。

妙照寺
金華山西麓の城下町にあり、元は竹中半兵衛の屋敷跡なんだとか。また、山門は岐阜城からの移築と伝わります。西に徒歩10分の法華寺にも移築門があるようですが、下調べ不足でそちらは見落としてしまいました。

常在寺
城下町にある斎藤道三・義龍・龍興の菩提寺で、境内には道三の墓があります。本堂内の拝観は有料(大人150円)ですが、複製ながら道三や義龍の肖像画をはじめ、斎藤氏ゆかりの品が展示されています。道三の肖像は濃姫(帰蝶)が、義龍の肖像は龍興が常在寺に寄進したものなので、それぞれ実際にこんな容姿だったんでしょうね。

梶川堀・梶川橋
梶川堀は城下町を南北に区切る堀で、東側に武家屋敷、西側に町家が広がっていたと考えられ、現在でも堀の名残の水路が見られます。また、常在寺の西側の堀に架かる橋は梶川橋と呼ばれ、橋の跡地に説明板を設け、歩道の舗装を変えて橋の存在を示しています。梶川堀の南端は城下町の南端を区切る堀に続いており、往時の城下町の姿を感じさせます。

美江寺観音
元正天皇の勅願による奈良期の古刹を、城下町繁栄のために道三が瑞穂市から現在の地に移したとされますが、立派な仁王門や本堂は見られるものの、特に岐阜城(稲葉山城)に関連するものはなさそうです。

御薗の榎
加納市場は信長が楽市楽座を始めた地として知られますが、金華山南西麓の橿森神社の前には、市場の入口に植えられていた榎(の三代目)が移植されています。また、橿森神社の境内には岐阜信長神社として建勲神社が分祀されています。

城下町だけでなく、周辺にも見どころはまだまだありますので、続きます。
 

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加賀の金魚

お城川柳

はやくしろ もっと仕事しろは いやなしろ

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びーこ

貸し切り! (2021/07/23 訪問)

休日だというのに誰もいない・・密もないけど、これはちょっと寂しすぎる。桜の季節はたくさんの人で賑わっているのかもしれない。
登城を始めると、階段や柵が設置され、雑草もきれいに刈ってあって整備が行き届いていることに驚かされる。
西側の入り口から整備されている郭を見て周ったが、暑さにやられて早々に撤退。次回(桜の季節がイイね)は東側から入って東郭群を堪能したいと思う。山城は春か秋に限る・・
安中ではご当地グルメを見つけられなかったので、ちょっと足を伸ばして高崎の人気イタリアンで名物のパスタを頂いた。隠し味に味噌が入っているような濃厚なミートソースは癖になる美味しさ。味噌好き群馬ならではの味かな。

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AJ

街道をゆく (2021/07/08 訪問)

どんなに速度を上げて侵攻してきても、このカーブでは減速を余儀なくされそうです。150年前はこれが車ではなく、人だったのでしょうか。城郭防衛のお手本ともいえるような見事な遺構。地方を歩くとたまにお目にかかれます。

福島県・白河小峰城下。国道294号(奥州街道)を北上し、馬町の交差点を左折。道が曲がって伸びるこの一帯は、敵が城内に侵入するのを遅らせるために屈曲させた小路で、かつて「十軒店」といわれた大鉤形です。市内中心部には今もこうした、意図的につくられた大小のカーブが日常の景色に溶け込んでいます。

一帯は白河口の戦い(1868)の舞台。戊辰戦争の勝敗を決めたとも言われる激戦地で、周辺には宿営地跡や戦死者を祀る寺院もあります。一時は奥羽越列藩同盟の砦となった白河。西軍(新政府軍)との間に起きた小競り合いや大攻撃は3ヶ月弱で10回に及んだといいます。ただ、結成後間もない同盟側の混成兵団は未熟で、戦法・士気・軍器のいずれでも劣っていたようです。東北から函館へと続く戦線の実相なのかもしれません。

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たぬぬ

堀の蓮の花 (2021/08/02 訪問)

蓮の花が満開でした。

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ぴーかる

江尻城 (2021/07/11 訪問)

【江尻城】
<駐車場他>駐車場はなし
<交通手段>車

<感想>1泊2日沼津・三島の城巡り旅9城目。沼津・三島を離れ帰路がてら寄りました。江尻城は1570年に武田氏の馬場信春の縄張りによって築城され、城代に山県昌景を置いた。両名長篠の合戦にて討死後は穴山梅雪が城代となった。織田・徳川連合軍の武田領進攻の際に開城降伏する。穴山梅雪は御存じの通り、本能寺の変の際大阪に居て帰国途中で土民の襲撃に遭い死亡、嫡子は家康の庇護を受けるが夭折し1601年廃城となります。
 城跡に当時の遺構は残されておらず、巴川を背後に現在の江尻小学校が本丸跡、巴川をひきこんだ現地縄張り図を見るに梯郭式であったかと思われる。小学校南西側にある稲荷神社は穴山梅雪が勧進したもので現在は少年サッカー発祥地としてサッカーボールの石碑とスタンプがあります。小学校の城跡説明板の前に停車したので、5分以内マッハで神社とサッカースタンプ押印までしたので息切れ。

<満足度>◆◇◇

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退会済み
ユーザー

バイパス整備中 (2021/08/02 訪問)

朝日城の外城跡地に石碑がある…はずがありませんでした!城下は福良バイパスの整備中でした。肝心の本城(城山)は取り付く島がない状態だったので未確認です。

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