昨年あった大手門が撤去されていました。維持も大変なんですね。模擬天守は健在です。
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2021/11/06 12:18
2021/11/06 10:59
木津城 (2021/10/23 訪問)
【木津城】
<駐車場他>木津城址公園駐車場または城跡入口前<34.731373, 135.829525>駐車できそうです。
<交通手段>車
<見所>土塁・堀
<感想>緊急事態の長い自粛期間終了と急に涼しく秋めいてきたので自儘に今シーズンの山開き解禁、約3か月ぶりの城攻めです。今回は日帰りでこの木津城から東に向かって数城攻略しました。まずは肩慣らしに木津城からスタート!
木津城は築城年は不明だが1457年に畠山義就の攻撃を受けた木津氏が木津城を自焼させたらしい。現地案内板には応仁の乱の際には在地土豪や在地農民が立て籠る砦であったらしい。
城跡は丘城程度の比高のあまりない山で、山裾下半分が整地されていてその箇所は遺構は残っていなさそうです。また城跡入口正面には水道局の敷地で塔が建っています。登城口からは数分で登りきることができ、山頂部は広く四角い形の主郭となっています。土塁囲み、北と南のラインに深い堀があり土橋付きの虎口があります。主郭周囲に物見の小さな曲輪があります。主郭は木が伐採されていて土塁・曲輪の状態がよくわかります。
<満足度>◆◆◇
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2021/11/06 10:49
松代藩江戸屋敷・長野県上田市 (2021/10/15 訪問)
松代藩の江戸屋敷は5箇所ほどあったようですが
虎ノ門にあった中屋敷の建物が何度か引っ越ししながら
長野県鹿教湯温泉に移築され個人所有となっています。
かなり大きな建物ですが山側に玄関があり建物の背中側しか見れません。
見学料千円払えば中も見学できるようですが今回は時間の都合で外側の見学だけにしました。
国道沿いには金額はわかりませんが売却希望の看板が立っていました。早いうちに中の見学をしなければ解体されてしまうかも。
財力のある方保護してみませんか。
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2021/11/06 09:33
2021/11/06 00:33
だいたい2万歩 (2021/10/23 訪問)
今回の散策コースは、
① 清閑亭→三の丸外郭新堀土塁→小峯御鐘ノ台大堀切→水之尾口櫓台
② 蓮上院土塁
です。
「清閑亭」(1906年築)は黒田長成侯爵(黒田官兵衛の子孫)別邸で、小田原城三の丸の南側に位置し、敷地内の傾斜地に土塁と深い堀跡を見ることができました。邸宅は無料で入れ、すてきなお庭や相模湾を眺めながらお茶をいただけるカフェもあります。
ここから今年の6月に出来たばかりの回遊路を通って三の丸外郭新堀土塁(新堀)へ向かいました。新堀は1月に八幡山古郭から住宅街を迷いながら行ったもののお正月休みで入れず、城山公園(大堀切の方)へ行くのも大まわりするしかなかったという忘れられない思い出があるのですが、この回遊路ができたことで小田原城址公園方面からも行きやすくなりました。(なので、お正月に入れなくてよかったと思うことにしています。)
北条氏が総構えを構築する前の外郭だった新堀はその後総構えの一部となり、江戸時代に御留山となってからは長らく立ち入りが禁止されていたそうですが、現在は国史跡として整備され大変美しい景観を楽しむことができます。石垣山も至近です。(開園時間が10時~15時と限られ、それ以外の時間は施錠されますのでご注意ください。)
北側の出入り口から新堀を出ると小峯御鐘ノ台大堀切東堀に繋がっているのでそのまま大堀切に突入します。狙われ放題、討たれまくり体験が永遠にできます……(^^♪
これまで2回の総構えウォーキングは「からたちの花の小径」(水之尾道)を奥の方まで行かなかったのですが、北原白秋と山田耕筰の映画「この道」をアマプラで観て行きたくなりました。トゲトゲのからたちの木、みかんの木、教会墓地、茶畑、猫……すてきな小径です。途中大きな土塁の残っているところに「香林寺山西まで10m」という案内があったので覗いてみました。ロープがあって下りられそうではあったのですが藪を分け入る勇気はなかったのでこちらは冬枯れの頃にまた。そこからしばらく進むと「水之尾口櫓台」に着きました。総構えの最西端で標高120mの最高地点。遥か彼方までよく見えます。包囲する豊臣の陣が全部見えていたのかな😱
車道に出たところで引き返し、なんとなく北に向かって山を抜けました。所謂総構えの散歩道の西側を歩いている感じで、ちらちらと見える遺構がいい感じでした。初めて見る土塁もありました。
そのまま小田原駅を越えて海に向かって突き進み、小田原城址江戸口見附址にほど近い蓮上院土塁へ。暗渠となっている堀跡道から眺める土塁は蓮上院と新玉小学校の敷地内で、高さがあります。太平洋戦争の爆弾着弾跡が残っており「戦国時代に小田原北条氏が築いた土塁に、昭和時代の太平洋戦争の傷跡が残る大変貴重な場所です。」と案内板に書かれていていました。戦争の犠牲者のあった場所を「貴重」と表すことに少々違和感を覚えましたが、自分のことを考えれば、数多の人たちが命を落とした戦国時代の城を嬉々としてまわっているわけで、余程ヒドイやつです。しかし、現地を歩いて戦いの痕跡を見てこそ歴史を知ることができるのだし、どうせだったら楽しく歩きたいし、過去に起きたできごとを正しく知り、それを伝えていくことは大切なことなので、戦場を楽しむのはいいことだと思うことにします。
歴史が僕を問いつめる……♪
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2021/11/05 22:07
箕輪城 千葉県柏市 (2021/10/24 訪問)
1月に上野、100名城で有名。
9月に信濃、福与城の支城。
今年3箇所目の箕輪城です。
我孫子駅から徒歩で40分、手賀病院が建っているところが城跡です。
駐車場のそば、二郭に説明板がありました。
さらに進むと虎口っぽい部分があり、通路となっています。
で、脇から駐車場方面に行くと横堀が残っていました。
この横堀は折れもあり横矢がかかっています。
手賀沼に臨み千葉氏支流の相馬氏の城とされています。
近くには道の駅しょうなんがあり賑わっていました。
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2021/11/05 21:55
大溝城天守台と大溝陣屋惣門を探訪 (2012/07/04 訪問)
琵琶湖一周ウオーキングで高島を通る区間で大溝城を2回目の探訪、前回は認識が無かった大溝陣屋長屋門惣門を初探訪。
JR高島駅が一時集合目途の地でしたのでそこより前回侵入した大溝城三の丸跡の石碑がある辺りの小径から遊歩道、草が茂って居ましたが石垣が目に入り来ます、乙女が池の縁に天守台石垣が残って居ます。
結構大振りの石が使われて居り在りし日の威厳を感じる天守台でした。
大溝陣屋長屋惣門は大溝城天守台跡から直線で約300m程県道300号線大溝港口西に50m程の通りに面して残って居ます。(高島市勝野1688)
信長の甥信澄が築城した湖城と成り琵琶湖の軍事水運を長浜城、安土城、坂本城とのダイヤモンド構築され要の城でした、信長の信頼が厚かったのでしょう。しかし本能寺の変後、光秀の娘婿の為光秀への内通を疑われ織田信孝、丹羽長秀に急襲され大阪で討たれるが惜しまれます。
城主は以後入れ替わりますが関ヶ原後には廃城破却、江戸期の元和5年(1619年)分部光信が伊勢上野より2万石で入封し大溝藩として三の丸跡に陣屋を構える、明治期まで継承される。
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2021/11/05 21:38
青空♬ (2019/09/15 訪問)
高石垣の向こう側 カッコつけた殿様が
民間人を 斬り殺した
ピカピカに光る刃で できればボクの憂鬱を
なで斬りに してくれれば よかったのに…
越後屋にワイロをもらい 生娘の清い操を
ねだるなんて 本気なのか
“義”の心のカケラもなく 笑っているヤツがいるよ
隠している その舌を見せてみろよ
生まれたところや 肌や 重量で
いったいこのボクの 何がわかるというのだろう?
職人さん その城に
ボクも乗っけて くれないか
上下左右 どこでもいい
曲線じゃあ なかったのか?
歴史がボクを 問い詰める
まぶしいほど 青い空の 真下で…
久々に替え歌つくっちゃいました。昨年の籠城戦以来です。
しりとりの影に隠れてましたが,けっこう作ってた気がします。
「ザコシカラオケ」だったら,笑って唄っちゃいそう。
そうそう,来月の前夜祭のチケット取れました。
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2021/11/05 20:02
【長崎奉行所】長崎県長崎市 復元長崎奉行所立山役所 (2012/05/25 訪問)
平成24年5月下旬JRフルムーンパス利用兄弟夫婦長崎熊本鹿児島旅行で長崎を訪ねた折に最近復元された長崎奉行所の情報を得て兄弟での予定のコースを終わった後にタクシーでちょっと寄って貰って短時間で外側の建物、復元石垣、石畳、石段を見学、撮影、内部と併設されてる長崎歴史文化博物館は見学しない消化不良の探訪でした。
発掘調査され発掘された遺物である石垣、石畳、石段は復元に使用され不足物は再生され長崎奉行所立山役所が復元されたようです。
建物内部と長崎歴史文化博物館いつかゆっくりと見学体験したいものです。
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2021/11/05 19:05
2021/11/05 18:58
8年ぶりでした (2021/10/15 訪問)
長野県内独自のGoToを行なっているようで人出が多かったような気がします。
ひと月半前ふゆづきさんの投稿でもありましたが二の丸の駐車場が使用できなくなっていました。
南櫓付近にいた案内の方が言うには
『真田の時代には石垣は無かったんだよ。今残る石垣もどこを誰が築いたかも明確にはされていない』とか。
駅付近を歩いているとビルの裏手に石垣を発見。
何度も訪れていますが新しい発見がありました。
本丸櫓と武者溜まり復元の幟があがっていました。期待してます!
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2021/11/05 17:52
湿地に囲まれてたのがわかります (2021/10/20 訪問)
近くには何度も訪れていましたが初めて足を踏み入れました。
先に守谷小学校近くにある大手門跡に行きました。
この辺りは開発が進み住宅街と化していますが
石碑の横には土塁らしきものが残っています。
その後城の中枢部へ向かいましたが
キッチリとナビをセットしていなかった為に曲がるところをスルー。
狭い道が入り口です。
大手門付近とは違い本丸、二の丸、御馬家台曲輪、空堀が開発されずに残り
見所各所には親切丁寧な案内があり駐車場も完備されていますのでゆっくり見学できます。
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2021/11/05 08:26
発掘された石垣 (2021/10/17 訪問)
荒木村重の籠る花隈城攻略の功により摂津西部を与えられた池田恒興が、破却した花隈城の資材を用いて築いた城で、池田恒興の大垣移封後は三好信吉(羽柴秀次)が入り、その後は豊臣氏の直轄地として片桐氏が代官を務めました。豊臣氏の滅亡後は一国一城令により廃城となりましたが、城跡には尼崎藩領として陣屋が、江戸中期以降は天領として大坂町奉行所の勤番所が置かれました。明治には勤番所が初代兵庫県庁となりましたが、新川運河の開削により遺構は失われました。
陸路(西国街道)と海路の抑えとして兵庫津に築かれた海城で、城跡はイオンモールと運河になっていますが、イオン建設時の調査により、転用石を多く用いた石垣や堀、土橋などが発掘され、主郭の石垣には胴木も確認されています。発掘された遺構は埋め戻されてしまいましたが、発掘調査地には出土した石材を用いた模擬石垣と説明板が設けられています。イオンモール3階にも発掘調査の出土品が展示されているようですが、未確認です。また、新川運河の西岸にも兵庫城跡の石碑と説明板が建てられています。
西国街道からの城下への入口には惣門が設けられ、北の湊口惣門と北西の柳原惣門を結ぶ外郭には都賀堤と呼ばれる土塁と堀があり、柳原惣門から南東方向へ、そして南方向へと続いて、城下を囲い込む惣構を構成していたものと考えられます。都賀堤も惣門も明治に失われましたが、それぞれ跡地に石碑や説明板が建てられています。また、湊口惣門から西国街道を南に進み、西の柳原惣門へと曲がる南仲町の辻󠄀には江戸期に高札場が置かれ、札場の辻と呼ばれていました。このあたりが兵庫の中心地だったようです。
ところで、兵庫城からはずいぶん離れていますが、発掘調査で出土した石垣の一部が神戸市埋蔵文化財センターに移設されているとのことで、ちょうど別件で西神中央駅に行くついでがあったので、見に行ってみました(駅から南に徒歩8分)。移設石垣と説明板はエントランスホールに展示されており、転用石には印が付けられていて、横(断面)から見ると、五輪塔が用いられていることがよくわかります。3階のテラスには発掘された石垣の転用石がまとめて展示されています。これでもほんの一部なんでしょうけど。
神戸市埋蔵文化財センターの常設展示は縄文・弥生から古代にかけてが中心ですが、収蔵展示室には端谷城出土のかわらけや花隈城出土の瓦があったり、この日は「福原京」の企画展が開催されているなど、入館無料(特別展を除く)とは思えないほどに充実していて、土器や古墳にさほど興味のない私でも充分に楽しめました。
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2021/11/05 07:00
2021/11/04 23:55
2021/11/04 23:27
2021/11/04 23:15
2021/11/04 23:00
2021/11/04 22:29
古利根沼に臨む城 (2021/10/24 訪問)
湖北駅から徒歩で15分。住宅地の先の古利根公園自然観察の森が二郭と三郭の跡です。
二郭に説明板があり、堀の位置を確認しますがかなり浅い。
それでも何となくって感じです。
見どころは道路脇、主郭の空堀ですが竹藪で写真にはなりません。
物見台と思われる城域先端部には祠があり、見下ろすと結構な高さがありました。
古利根沼脇には車を停めることもできますが釣り客もいるので確実とは言えません。
別名は芝原城、築城については不明ですが古河公方から北条氏の家臣となった河村氏の居城でした。
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2021/11/04 16:55
復元された中世の山城 (2021/11/01 訪問)
上信越道坂城ICから、国道18号に出て上山田温泉に向かうと、温泉街の背後にある山(冠着山)の中腹に、上山田温泉の文字の後方に櫓が見えてきます。
城跡へのアプローチは、温泉街を抜けて狭い山道に入り(聖高原・姥捨方面の道路は閉鎖されていますが、この荒砥城までは自動車道が通じています)、途中の宗教施設を抜け、駐車場に到着となります。
駐車場から、城山史跡公園管理事務所を経て城内に続く道は舗装されており、アクセスに問題はありません。
城内には漆喰の城壁や天守閣はありませんが、戦国までの中規模城郭(せいぜい3~400人程度で守る城のように思います)がどのようなものであるかが想像されるように、山城が復元されているように思います。
特に虎口周辺の石垣は、余り他に類を見ないような積み方であり、興味を引かれます。 また、櫓から千曲川方面の視界は大きく開けており、この城の本城であった葛尾城はもちろん、上田方面の動きや川中島方面の動きも監視することが可能なように思います。
このような雰囲気のため、大河ドラマのロケ地に設定されたようで、「風林火山(海ノ口城)」や「江(小谷城)」の代わりになった旨が残されています。
攻城時間は40分程度。紅葉の時期でしたが、到着が3時過ぎだったためか、他に訪れる者はなく、中世の雰囲気を満喫できたように思います。
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