鷲津城から東南に400メートル。JRの線路沿いから住宅地のアスファルト坂を上った右手の緑地が砦跡で、外堀跡らしい通路と小さな曲輪が認められました。「丸根砦戦殉難烈士之碑」に、この土地に暮らす人にとって砦跡は過去の出来事を学ぶ場所なのではなく、他所から訪れる者にはわからない様々な思いをもって共生する場所なのだろうと感じました。
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2022/06/21 22:06
2022/06/21 22:04
10/12城目 (2022/05/20 訪問)
中島砦から徒歩20分くらいで北側の入り口に着きました。
「公園」とか「遊具広場」とか書いてありますが、そんなかわいいものではないのは一目瞭然の森が後背に待ち構えています。
城址碑を確認し少し進むと堀跡らしきものが見えてきました。460年前の戦いを伝えるものかと思うと身震いがしてきます。
文字で得た知識も実際に現地に赴き足と目で確認することで現実のものとして記憶に留めることができるのだと実感しました。「多くが討死し砦は落ちた。」の一文の中にある数多の生命のやりとりに改めて思いを致した次第です。
遊歩道を南に下り、丸根砦へ向かいました。
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2022/06/21 20:56
レトロ感がとてもステキです。 (2022/06/11 訪問)
この日の鳥取県の天気予報は,曇りのち雨。午前中が勝負と判断し,予定より1本早い電車に乗り込みました。
若桜駅から,徒歩約10分で八幡広場登城口到着。八幡広場登城口から一気に本丸を目指しました。
下山ルートは,六角石垣を廻り,第一町民会館登城口へ。登城ルートと下山ルートは途中で交差します。足取りは,若桜駅を起点に8の字を書いたようなイメージです。
登城時にはまだ若桜駅前の観光案内所が営業時間前だったので,二の丸小屋でスタンプペッタン。状態は問題ありませんでした。
若桜駅前の観光案内所へは登城後に立ち寄り,パンフレットを入手。
レトロな街並を満喫でき,難読駅名の郡家(こおげ)駅も体感でき,プラスアルファ感はありました。
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2022/06/21 15:28
2022/06/21 15:07
静岡市歴史博物館のプレ広報誌を発行しました!
旧青葉小学校跡地に現在建設中の静岡市歴史博物館は令和4年7月に1階がプレオープンします。
1階に露出展示する「戦国末期の道の遺構」や、展示について紹介するプレ広報誌を作成しました。
静岡市の歴史の流れや、駿府に暮らしていた徳川家康公、今川氏についてもわかりやすく紹介し、子どもでも楽しく読める内容になっています。ぜひご覧ください。
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/2022/05/post-85.html
↑こちらからPDFが見られます。
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2022/06/21 06:35
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:杷木神籠石 (2022/06/10 訪問)
赤司城からの転戦です杷木神籠石見学者用駐車場(33.355703、130.823589)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、7世紀前後に築かれた古代山城の一つといわれています。
駐車場から南の国道386号線から少し入ったところに案内板があり、第一水門と第二水門の場所が書かれています。
第一水門は案内板があるところにある用水路(33.355339、130.824752)のところです。
第二水門は農道を歩いた場所(33.357224、130.826084)にありますが、このGPSではグーグルのナビでは辿り着けない為、第一水門左側の舗装道を進み、後は案内標識に従って進んで行けば着きます。
第二水門確認の後、杷木神籠石入口(33.354338、130.825225)に廻りました。
杷木神籠石入口から登った主郭は神籠石案内図によると、鵜木城(城びと未登録 福岡県朝倉市)になっています。
以下、鵜木城(城びと未登録 福岡県朝倉市)について記載します。
築城年代は定かではないようですが、戦国時代に秋月種実によって築かれました。
種実が大友氏への備えとして築いた長尾城の出城として築かれたもののようです。(ちなみに今回は時間の都合で、長尾城は攻城しませんでした)
国指定史跡杷木神籠石の最南端にあり、国道を挟んだ丘となっています。
頂部は削平され、その下側に土塁が残り横堀のようになっています。
杷木神籠石+鵜木城の攻城時間は35分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。
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2022/06/21 06:11
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:赤司城 (2022/06/10 訪問)
高良山神籠石からの転戦です。納骨堂入口(33.356666、130.606385)から進入し、納骨堂駐車場に駐車しました。
その後、徒歩で城址碑(33.356105、130.605037)➡赤司八幡宮入口(33.356704、130.606932)と廻りました。
築城年代は定かではないようですが、赤司氏によって築かれました。
赤司八幡宮の前身は平安時代以前からといわれ、筑後川流域の肥沃な土地と交通の要所としての位置付けから、勢力争いが繰り広げられ、度々戦火によって焼失したそうです。
これを防ぐ為に八重の堀と七重の築地を巡らした城郭が形成されたそうです。
江戸時代になると、久留米城主田中吉政の家臣田中左馬尉清政が城主となりましたが、元和の一国一城令で廃城となりました。
赤司城は赤司八幡宮一帯に築かれていたようです。
本丸は南の納骨堂の辺りで、石碑は納骨堂の前から西へ進んだ道路にあります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=杷木神籠石に向かいます。
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2022/06/21 06:06
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:高良山神籠石 (2022/06/10 訪問)
福島城からの転戦です。高良大社二の鳥居前(33.302515、130.558134)に駐車しました。
高良山神籠石は標高313mの高良山に築かれた古代山城です。
ほかの神籠石にさきがけて学会に報告されたこともあり「神籠石」という名称の由来となったことから「元祖神籠石」ともいえる存在のようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=赤司城に向かいます。
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2022/06/21 06:01
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:福島城 (2022/06/10 訪問)
猫尾城からの転戦です。民家前空スペース(33.212028、130.556022)に駐車し、八女公園櫓台階段(33.211873、130.556095)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、1587年(天正15年)頃に筑紫広門によって築かれたと云われています。
豊臣秀吉による九州征伐の後の国割りによって、上妻郡には肥前国勝尾城主であった筑紫広門が封ぜられます。
このとき広門は山下城を居城とし、福島城を支城として築いたそうです。
1601年(慶長6年)関ヶ原合戦によって西軍に属した筑紫広門は改易となり、田中吉政が筑後一国を与えられ柳河城を居城としました。
このとき福島城には城代として田中康政が30,000石で入り、城が大改修されました。
1620年(元和6年)田中忠政が嗣子なく没して除封となると破却されました。
福島城は現在の八女公園一帯に築かれていました。
八女公園にある櫓台へ上がる階段横に福島城の石碑があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=高良山神籠石に向かいます。
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2022/06/21 05:55
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:猫尾城 (2022/06/10 訪問)
城村城からの転戦です。城山公園駐車場入口付近(33.216730、130.683080)を曲がらず直進すれば駐車場に着きます。
築城年代は諸説あるようですが、1167年(仁安2年)大蔵大輔源助能によって築かれた説が有力とされます。
助能は徳大寺家の請いによって瀬高荘を管理する為、大隅国根智目(根占)から筑後国上妻郡黒木郷に移り築城したそうです。
この末裔が黒木氏を称し大友氏に属していたが、家永の時に龍造寺氏に従った為、1584年(天正12年)大友宗鱗によって攻められ落城、黒木氏は滅ぼされました。
柳河城に田中吉政が入封すると家臣辻勘兵衛が城代となりますが、元和の一国一城令によって廃城となりました。
猫尾城は現在、城山公園として整備されています。
主郭は山頂にあり、東端に彦山神社が祀られていますが、東端と西側は石垣によって一段高い土壇となっています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福島城に向かいます。
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2022/06/21 05:47
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:城村城 (2022/06/10 訪問)
山鹿城からの転戦です。入口付近の駐車スペース(33.045344、130.674281)に駐車しました。説明板があります。
築城年代は定かではないようです。 菊地氏の家臣城氏の居城といわれています。
1550年(天文19年)熊本古城の鹿子木寂心が菊地義武を助けて大友氏に叛いて没落すると、城親冬は城村城から熊本古城へ移り、一時廃城となっていました。
その後、隈部城に入った隈部親永の子親安が城村城に入ったと云われています。
豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後国に入部した佐々成政は秀吉によって禁止されていた検地を実施すると、隈部城の隈部親永はそれに反発、佐々成政によって隈部城を攻められ落城し逃れました。
その後、隈部親安を中心とした国人一揆衆が城村城に籠城して佐々成政に対抗します。成政は付城を設けて城村城を包囲しますが、居城の熊本古城が国人一揆衆によって攻められ引き上げました。
秀吉は小早川秀秋や立花宗茂に成政救済を命じ、結局は城村城を明け渡す事で和議が成立しました。
台地の北東端を本丸とし、南に二の丸、三の丸などを配していたそうです。
本丸は公園で石碑と説明板が設置されており、南の二の丸との間にわずかに低くなった堀切跡が残っていましたが、城跡全体が草に覆われいました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=猫尾城に向かいます。
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2022/06/21 05:40
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:山鹿城 (2022/06/10 訪問)
正光寺からの転戦です。円頓寺参拝駐車場(33.012632、130.689979)に駐車し、清滝神社入口(33.012692、130.689611)に向かいました。
菊地家の祖・菊地則隆の次男西郷太郎政隆より出た山鹿氏代々の居城でした。
築城時期は不明ですが、1351年(正平6年)に懐良(かねなが)親王と敵対していた記録があり、南北朝時代には北朝に属していたようです。
1584年(天正12年)に島津氏に降伏したが、進駐の際に小ぜり合いが生じているようです。
1587年(天正15年)城主・山鹿彦次郎重安の時、伯父の菊池城主・隈部親永が所領検地のことで国主・佐々成政に一揆を起し、肥後国人(国衆)一揆に発展しました。
山鹿重安は息子の隈部親安と城村城に篭城し、成政の軍とは互角に戦ったが、その後豊臣秀吉の大軍に敗れ、1588年(天正16年)秀吉の命により小倉に於いて切腹させられ、廃城となりました。
城跡は上市の高台一帯を占め、南は清滝口、西は像成寺口、東は菊池口と三カ所の口があり清滝神社の辺りが本丸と云われています。
城跡には円頓寺、清滝神社、光専寺があり、民家が建ち、一部飲食街となっています。
円頓寺南の飲食街の路地を入った清滝神社境内に「山鹿城趾」碑と由来説明看板が建てられています。
南の急崖の下に大きな空堀・土塁があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=城村城に向かいます。
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2022/06/20 22:59
岩国城 (2021/12/06 訪問)
ロープウェイで頂上まで。素敵な風景でした。
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2022/06/20 22:46
国史跡洲本城跡案内図 (2019/07/13 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/20 22:43
篠ノ丸城址立体地図(縄張図) (2016/11/06 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/20 22:40
志知城跡略図 (2019/07/13 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/20 22:20
公民館に石碑 (2022/06/05 訪問)
埼玉高速鉄道の川口元郷駅から徒歩で10分。
住宅地の中、公民館に石碑と説明板があります。
もちろん遺構はありません。
少し歩いた近くには平柳蔵人菩提寺の正覚寺があります。
セットで訪れるのが良いと思います。
いずれにしてもこの辺りは住宅地でタワーマンションも何棟か。
都心にも近く良い立地ですね。
ただしこの路線、運賃が高いです。
わざわざ行くことも無いでしょうけど。
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2022/06/20 21:09
うまっ (2022/06/18 訪問)
おび天は是非とも食べるべし
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2022/06/20 20:37
小松城 (2022/05/21 訪問)
【小松城】
<駐車場他>専用駐車場はありません。小松市役所駐車場は「来庁者以外の駐車禁止」の看板、小松市図書館駐車場は一応そういう看板表記はありません。
<交通手段>車
<見所>芦城公園・石垣・天守台
<感想>1泊2日富山城の旅2城目。天守台が見たかった、夏場でも行けそうな行ってみたかった城としてリストアップしていた城です。小松城の前身は一向一揆の城として若林長門守が築城しました。柴田勝家によって落城します。江戸時代になり、1639年に加賀前田家3代当主前田利常の隠居城として再築(は名目でほとんど新城築城)されました。広大な水堀に浮かぶ浮き城だったようです。天守台には御三階櫓が建っていたそうです。前田利常死後は加賀前田家金沢城の支城として城番が置かれ明治維新を迎えます。
天守台・本丸石垣の残る場所は小松高校グラウンド内の西隅にあり一応一般の方も入れます。天守台の石階段は木板が被せられ上まで登れるようになっていました。現在は本丸は高校グラウンド、二の丸は校舎、三の丸は芦城公園になっています。芦城公園の入口石垣(写真添付)には刻印があり土塀台のような形状になっているので遺構かなと思われます。芦城公園内には前田利常公像や樹齢150年を超える大松が沢山あり小松から大松になったのでしょう。北東にある来生寺の移築現存長屋門は痛恨の見落としました。
<満足度>◆◆◇
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2022/06/20 20:10
広いです (2019/11/04 訪問)
男山展望台を目指して行くとトイレ付の駐車場が有ります。そこから城跡を目指しました。周辺はキャンプ場があり遊歩道もあるので歩き易いです。1179年の築城とありますので結構古いの城跡の様です。4つの城の名前の付く曲輪があるのですがお互いの距離が随分離れています。距離が離れているのは古い城跡の特徴なのでしょうか?
曲輪以外の遺構としては、石積・土塁、なだらかなカーブを描く土橋、そして自然地形かどうか悩んでしまう空堀を確認出来ました。本来はもっと遺構があるのかもしれませんが、城域が広く歩くのに夢中で気が付きませんでした。駐車場に戻る迄は1時間30分強だったかと思います。
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