戸塚高校が跡地で遺構はありません。
鎌倉殿の13人にあやかりEXPO前に再訪。
中川大志さん好演の畠山重忠の子、重保の館跡です。
校門から裏手にまわると坂道になっていてかつては城があったことも覗えます。
グラウンドも一段下にありました。
今年のEXPOは参加された方も多かったようですね。
個人的には地元近くの赤穴瀬戸山城の出典が嬉しかったです。
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検索結果・・・「」を含む投稿
2022/12/28 21:39
畠山重忠の息子 (2022/12/17 訪問)
戸塚高校が跡地で遺構はありません。
鎌倉殿の13人にあやかりEXPO前に再訪。
中川大志さん好演の畠山重忠の子、重保の館跡です。
校門から裏手にまわると坂道になっていてかつては城があったことも覗えます。
グラウンドも一段下にありました。
今年のEXPOは参加された方も多かったようですね。
個人的には地元近くの赤穴瀬戸山城の出典が嬉しかったです。
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2022/12/28 17:42
手作り感満載の整備が実によい (2022/07/09 訪問)
地元の日置南郷会の皆様が手作り感満載の整備を行って下さっているのは有難い限り。紀氏一族の桑波田氏が長くこの地にあったが島津美久と島津忠良・貴久(島津四兄弟の父)との抗争に巻き込まれて歴史の表舞台から姿を消した。
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2022/12/28 14:57
関ケ原古戦場記念館 ① [関ケ原の26人](前書き1) (2022/10/27 訪問)
自分でテーマを決めて、当時の武将の気持ちを空想しながら城旅をして回るのが好きなおじさんが次に選んだテーマは、【関ケ原】です。
私はこの関ケ原に関わった武将の中から26人を選び、実際に関ケ原の地を訪れてその26人の陣跡またはゆかりの城またはゆかりの地を歩いてきました。
次の大河ドラマ「どうする家康」の中でも天下をとった関ケ原戦いはやはり外せない、いやむしろ終盤の最大の見せ場になるのではないかと私は今から勝手に(?)想像しています。そして、この26人の中の数人は今後ドラマにも登場すると思うので、その時々でまた思い出していただければと思います。
ではその前に、関ケ原古戦場記念館に行ってきましたので、その内容からお伝えします。
【関ケ原古戦場記念館】
関ケ原駅を降り、まず「関ケ原古戦場記念館」へ行ってきました(写真①)。1階で受付のお姉さんの案内に従ってチケットを購入し、入場時間まで隣のおみやげ屋や、記念撮影などをして時間をつぶしながら待ちます(30毎に入場です)(写真②③④)。時間になったら案内され中に入ります。
中に入り薄暗い廊下で待つ事5分、周りには不気味というか異様な雰囲気の音と映像が・・・。そしてついに奥へ、まずはグランドビジョン(床面に映し出された映像)で関ケ原の合戦の流れと様子が説明されます。何か聞いているうちにだんだんのめり込んでしまい、いい雰囲気になってきました。そして次は隣のシアターへ案内されます。そこはもういきなりビックリです! 大型スクリーンにすごいド迫力の音と映像、また椅子の振動や風が突然吹く効果で何か身震いするような、いきなり戦場の中に自分が迷い込でしまったような(ここはどこ? あ-どうしよう! わっ-やられてしまう~)といった感じでした。
シアターの後は、2階に上がります。そこは展示室になっていて、関ケ原に関する貴重な資料が展示されています。また合戦の様子がパネルなどで詳しく解説されていました。私の時はたまたま島津に関する特別展も行われていました(ラッキ~!)。ここは時間をかけてじっくり見られる事をおすすめします。そして3階に上がると360°関ケ原が一望できる展望室がありました(写真⑤⑥⑦)。
全部をじっくり見学したら2時間くらいかかりました(それでも私には足りないくらい)。時間に余裕を持って見学されたらいいと思います。(注:今回は平日だったので30分待ちで入れましたが、休日は人が多く待たされる事もあるようでHPで事前予約をするとあまり待たずに入れるようです)
次は、(前書き2(陣跡めぐりと今回の旅の目的))に続きます。
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2022/12/28 13:34
石積みの一部が確認できる (2022/12/27 訪問)
神奈川台場は勝海舟の設計で伊予松山藩が築造担当し、約1年で万延元年(1860)に完成する。海に突き出た主要部を上にし、右下辺りが神奈川台場跡で石柱が建ち、住宅の裏に石積みの一部が確認出来る。
主要部をつなぐ東西2本の道(取渡り道)、その西取渡り道途中に神奈川台場公園がある。遺構は地下に埋まっているらしく地表にはない。埋め戻した石積みの上に位置が分かるように、石列があったらしいが思い出せない。
主要部の遺構は星野町公園で観ることが出来る。公園手前のアーチ状マンションの端に、建設時に出てきた石積みの一部が保存公開されている。公園は台場内ではなく海側になり、主要部は公園のフェンスより北一帯で、現在は大方JR貨物の敷地になっている。公園西の中央卸売市場内にも石積みが見られる。
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2022/12/28 13:15
かつての海側の眺めはよい (2022/12/27 訪問)
城跡は京浜急行神奈川駅から国道1号線(第二京浜)青木橋交差点先の高台にある。線路を挟んで権現山城跡が見える。台場築造の前は尾根続きの急峻な場所だったようだが、台場以外に明治期、鉄道を海に通すため埋め立てように大きく削られたとも。
城跡は本覚寺の境内で山門脇にはアメリカ領事館跡の石碑がある。鎌倉時代1226年の開山とある。本堂の北から西一帯は墓地となり、大部分は本堂より20mほど高く、城(砦)の中心部かと思わせるが、墓地・住宅地になり遺構は遺っていない。権現山合戦後、北条氏領となり家臣の多米氏が大永年間(1521~1528)頃に城主になったと、他の説明書に載っている。
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2022/12/28 13:06
子供たちが遊ぶ普通の公園 (2022/12/27 訪問)
京浜急行の神奈川駅を過ぎると、宮前商店街のアーチが見える。この細い道は旧東海道で、すぐ左奥にフランス公使館跡の甚行寺がある。ちなみに公使館跡から北東へ直線500メートルにフランス領事館跡の慶雲寺がある。慶運寺は浦島寺とも呼ばれ、浦島太郎が竜宮城から観音像を持ち帰ったとの伝説があると載る。
城跡の幸ヶ谷公園には短いが急坂を上る。公園は広く平坦で南際に幸ヶ谷公園コミュニティハウスが建ち、東は一段低くトイレ・遊具などが設置されている。西の線路越しの先は青木城跡・本覚寺が眺められる。
遺構は遺っていないが、権現山合戦の跡の説明が往事を偲ばせる。説明板には永正7年(1510)北条早雲(当時は伊勢氏)が、関東の支配者上杉氏(扇谷・山内)の家臣、上田蔵人を味方にし、ここに砦を築かせた。上杉朝良ら2万の大群が砦を囲み、十日間も合戦が行われ、上田勢が破れた古戦場跡である、と読める。
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2022/12/28 13:01
羽村陣屋・東京都羽村市 (2022/08/30 訪問)
1653年玉川兄弟によって築かれた玉川上水。
多摩川からの取水口管理のため役人が詰めていた陣屋跡です。
跡地は現在も取水管理事務所があり茅葺の陣屋門が残っています。
道に沿って南東へ100メートルほどの所に保育園があり
門前に下陣屋の案内板があります。こちらは江戸から来た役人の生活拠点。
多摩川を渡り羽村市博物館には玉川上水の展示物が盛り沢山。
博物館は駐車場完備。陣屋門前にも砂利の駐車場があります。
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2022/12/28 11:30
2022/12/28 09:59
2022/12/28 08:02
石碑はノーチェック (2022/11/26 訪問)
すっかり住宅地の中に埋もれてしまっていますが、しっかりと発掘調査はなされているようですね。カルビンさん投稿の石碑はノーチェックです。いつか、北陸鉄道完乗と合わせてチェックしたいと思います。
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2022/12/27 23:59
安土城最後の1日 (2016/05/20 訪問)
「逆賊」とされる明智一族にあって後世賞賛された人物がいます。明智秀満(光秀の重臣で、女婿〈異説あり〉)。山崎から敗走後、近江坂本に籠城した秀満は自害する前に文化財を引き渡し、多くの名物が灰燼に帰すのを防いだと言われます。はて、そんな見識ある人物が安土城に火を放つでしょうか。
安土城(滋賀県近江八幡市)は本能寺の変から13日後の1582年6月15日、突如出火。天守と本丸が焼失しています。原因は諸説あるようですが、この際「落雷」と「野盗による放火」は都合が良すぎる感じがしないでもないので除外してしまいましょう。すると容疑者は2人。秀満と、織田信雄(信長の次男)に絞られそうです。
光秀の留守中、安土城を守っていたのは秀満。その後、後詰めで山崎に向かったようですが、光秀敗北を知ると、今度は坂本で籠城。安土が放火で燃えたのがこの時だとする第三者の日記があるようです(吉田兼見「兼見卿記」)。つまり坂本でのアリバイを崩せないと秀満の犯行を立証するのは困難ということ。一方、彼が山崎に向かった後、安土に入ったのが信雄。個人攻撃と受け止められてしまうのは不本意ですが、評判は良くないですね。いずれにせよ、近年では信雄放火説が有力視されているようです。動機(もしあるなら)が知りたいところですね。
私見ですが、仮に信雄が犯人だとして、それが表沙汰にならないよう腐心した人物がいるような気がしてなりません。例えば、彼を織田家の跡目に推した人物、とか。あるいは当時、全てを明智方になすりつけることで最大限得した人物、とか。
信長の「天主」(*岐阜と並んで「天守」の起源とされます)焼失後は秀吉によって廃城となりました。現在の城跡に建物はありません。山頂付近の伝本丸跡には、天主台石垣や伝本丸御殿の礎石が残っています。
復元案は古いもので江戸時代にまで遡るのだとか。「幻」や「謎」というキーワードに惹かれるのはいつの時代も同じということでしょうか。今日も建築、文献、発掘の分野で様々な試みが続いています。
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2022/12/27 22:10
2022/12/27 21:49
カズサンの令和4年登城ベスト10
年々登城数が減って来ましたが令和4年は初登城、再登城合わせて85城を訪ねました。
今年私の思い入れ、記憶に大きく残ったあくまでも私の主観です、10城選び披露させて頂きます。写真は以前投稿したものも入っています。順番は私の思い入れの深い順です。
①越前・白山平泉寺城・・イオさんの投稿で数拾年の疑問が払拭した中世の宗教城郭、圧巻驚愕しました(2022/11/03訪問)
②讃岐・高松城桜御門・・空襲焼失し77年振りに復元した三の丸御殿正門の桜御門(公開R04/07)(2022/10/23訪問)
③備後・福山城天守閣・・築城400年に天守閣裏面を鉄片で覆い往年の状態に改修(公開R04/08)(2022/08/28訪問)
④上野・箕輪城木橋 ・・本丸西虎口と蔵屋敷間の木橋(公開R04/03)(20022/11/13訪問)
⑤播磨・姫路城小天守/渡櫓・・ヒロケンさんの投稿で知り特別公開小天守閣と渡櫓、乾小天守からの大天守閣は圧巻の大迫力、渡櫓も初探訪(2022/08/28訪問)
⑥遠江・浜松城天守閣・・天守閣外装改修64年振り再建時の姿で一新、浜松在住なので(公開R04/12)(2022/12/21)
⑦上野・麻場城・・本丸周囲の深い堀と土塁は圧巻です(2022/11/13訪問)
⑧上総・坂田城・・舌状台地に空壕と土塁、曲輪、景観整備されれば素晴城郭です(2022/05/30訪問)
⑨常陸・小坂城・・赤い城さんの投稿で触発、曲輪/空堀/土塁が技巧的に横矢も掛かりよく残り見所満載(2022/05/29訪問)
⑩陸奥・桑折城・・ぎりょうさんの投稿で知り、樹木伐採で景観整備され城域がよく分かり上から下から見所満載(2022/05/28訪問)
番外として写真投稿は有りませんが、越前・疋壇城(2022/11/03訪問)、上野・山名城(2022/11/13訪問)、丹波・上林城(2022/06/18訪問)
以上私の令和4年訪ねた城郭、復元、改修を観た主観をもとに選びました①からの順番に掲載します。
令和4年の投稿納と致します、1年ありがとうございました、良い年をお迎えください。
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2022/12/27 20:39
きたい丸編 (2022/12/11 訪問)
では月見櫓を出て、鐘の櫓に行きます。鐘の櫓は遠見櫓付近を通った敵を攻撃することができます。鐘の櫓ももちろん石垣しか残っていないですが、石段も残っています。しかもその石段には特徴があってV字になっています。これは氏郷が築いた会津若松城にもあり、同じ技術を取り入れていると思いました。(写真②)
その後、藤見櫓跡を通り、敵見櫓跡まで歩いていきますと、石垣に何やら1箇所だけ穴が空いている場所が。これは一体なんだ?パンフレットにも載っていないのでこれは発見でしょうか?少し嬉しかったです。(写真④)
敵見櫓跡の石垣は綺麗な算木積みになっていました。また12月でしたが、紅葉が石垣と被ってとても綺麗でした。(写真⑦)
天守台がもうそばにありますが、一旦きたい丸を先に攻城。高石垣で構成されていて櫓が建っていたことが想像できます。特に角櫓跡の石垣はすごく高くて綺麗です。(写真⑧)また角櫓には礎石も残っていました。(写真⑨)
では天守台へ向かいます。続く
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2022/12/27 20:14
湯尾城・湯尾峠 (2022/11/27 訪問)
【湯尾城・湯尾峠】福井県南条郡南越前町
<駐車場他>湯尾城跡登城口<35.789717, 136.196680>道路脇に駐車
<交通手段>車
<見所>曲輪・竪堀・石垣(湯尾峠)
<歴史>城びと未登録の湯尾城の歴史は現地説明板によると、
1183年 木曽義仲が湯尾峠に陣を構え燧ヶ城を築き平氏軍を防ぐ。(火打城の戦い)
1336年 杣山城の瓜生氏が関を設け北陸道を塞いだ。上野ヶ原合戦
1574年 府中城主富田長繁と戦う一向一揆勢2万人が拠った。
1574年 織田信長と対陣した時に七里頼周が一向一揆勢と立て籠もった。
1583年 賤ヶ岳の戦いの時に羽柴秀吉軍が敗走する柴田勝家軍の反撃に備えて湯尾に陣を張った。
湯尾峠は今庄集落と湯尾集落を分ける峠で古代から北陸道が通る交通の要衝でした。戦国時代に柴田勝家が大改修を行って湯尾城と湯尾峠は今の形となりました。湯尾峠は疱瘡よけの孫嫡子信仰でも有名であり江戸時代には4件の茶屋が建ってお札を売って、「おくの細道」や江戸期の作品に多く取り上げられています。明治には明治天皇が北陸巡幸の際に休憩されて石碑が残ってあります。
<感想>麓に上野ヶ原古戦場跡があります。上記場所に駐車して峠を進むと上野ヶ原合戦で瓜生軍が討ち取った高師泰方の大将首を洗ったといわれる血頭池があります。馬の水飲み場や明治天皇御膳井跡を過ぎると峠にたどり着きます。峠の南北に虎口があり石垣遺構があります。この石垣は江戸期の茶屋が建てられたときのものらしいですが、南側には大竪堀が残っていて柴田勝家が築造したものを改修利用したものとも思いたい感じがする見事さがありました。峠虎口の東側曲輪の奥に巨大切岸の山があって主郭方向に進めます。上に登って尾根上の平坦な曲輪を進むと堀切があってその先に主郭があります。主郭の東側に古道の虎口遺構があって転落石があったので石積みであったような感じがしました。古道の方は藪化して下方に畝状竪堀があるようでしたが進めませんでした。主郭の更に東側に鉄塔の建っている曲輪があります。
湯尾峠の東側に文化遺産でもある旧北陸道湯尾トンネルがあって登城前にここを車で通ってやって来ました。明治にできたそうですから古代から130年程前までの長い時を街道の要衝として使われ、また幾多の合戦の場所だったことも勉強になりました。見所あるいい所です。
<満足度>◆◆◇
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2022/12/27 20:11
表門跡、月見櫓編 (2022/12/11 訪問)
では周って表門跡へ行きます。表門跡は比較的低い石垣で枡形を形作っていました。そのあと遠見櫓(写真①)に目を通して、月見櫓へ向かいました。なおこの時写真をあまり撮っていませんが、復路で月見櫓台などを撮ったので後の投稿で転送します。
本丸下段に入り、月見櫓を見ようとしたところ、何と本丸上段に続く石段にロープがかかっており、石垣の積み直しが行われていました。(写真④)まさかまた通行止めと思い機嫌はますます悪くなります。
ひとまず月見櫓の上に立ってみると石垣がとっても高かったです。(写真⑧)友人が怖い怖いと冗談っぽく言ってましたが、これはほんとに怖いかも。柵がないので転落には十分に警戒してください。
月見櫓からは表門を見ることができます。表門の枡形虎口がはっきり上から見えました。(写真⑨)
さてルート変更となってしまいましたが、次は鐘の櫓へ向かいます。 続く
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2022/12/27 19:53
訪問し易いです (2022/11/04 訪問)
西側の日吉神社駐車場に停めて、神社左側から登山道に入って行きました。三の郭までの登山道の右手にはいつからか空堀が走っています。城の遺構か分かりませんが眺めながら山頂を目指しました。
参考訪問データー:55分:1.6km:累計高低差158m
標高234.4mの山頂周辺が城域です。北から南に、三の郭・一の郭・二の郭の順で一の郭から東に旧三の郭が有ります。見どころは一の郭と二の郭の境の堀切でしょうか。脇には高石積も残っています。こちらも訪問し易い城跡です。
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2022/12/27 13:20
シンポジウム「今川館(いまがわやかた)の姿にせまる」を開催します!
令和4年2月に開催予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため延期となりました、シンポジウム「今川館の姿にせまる」の振替日が決定しました。
日時:令和5年2月4日(土)10:00~16:00(開場9:30)
場所:静岡市民文化会館大ホール
受付開始:令和5年1月6日(金)~
申込方法や詳細は下記URLをご覧ください。
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/2022/12/post-91.html
文献史・考古学・都市史の分野の垣根を超え、各研究の第一人者の先生方にお集まりいただきます。先生方の貴重なお話や熱い議論をお見逃しなく!
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2022/12/27 09:58
シロノヒカリ (2022/11/06 訪問)
姫路城のシロノヒカリに行って来ました。
世界遺産の姫路城は、年に一度シロノヒカリというイベントを夜に行っています。
日中に見る姫路城とは、また違ったもうひとつの姫路城が浮かび上がってきていますね。
また、来年の2月11日より1ヶ月に渡って特別公開があります。
今回は、菱の門です。
菱の門と言えば、火灯窓が左右にあり、格子窓、武者窓もあります。
火灯窓は、伏見城より移築されたという説もありますが、真偽は不明です。
両柱の上の冠木に、木彫りの菱の紋を打っているところからこの名前が付いています。
門番部屋と馬見所があり、二階の櫓部内には3部屋あります。
この二階の櫓部に入るには、横の雁木を登り西側の火灯窓の隣に入り口があります。
二階の櫓部内は、初公開となります。
この特別公開は、行く価値が高いと思います。
西小天守も特別公開して欲しいと個人的に思っております。
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2022/12/27 08:45
細川越中守忠興屋敷跡 (2022/12/07 訪問)
大坂城三の丸にはかつて細川忠興の屋敷があり、屋敷跡の道路脇には細川越中守忠興屋敷跡の石碑が建てられています。また、石碑の道向かいには屋敷の台所のものと伝わる井戸があり、越中井の石碑と説明板が設けられています。
大坂城の細川忠興屋敷といえば細川ガラシャ最期の地として知られますが、越中井の石碑側面にはガラシャの辞世が刻まれています。また、越中井から南に徒歩3分の大阪カテドラル聖マリア大聖堂は、細川忠興屋敷跡に建てられていることから、大聖堂入口右側にガラシャ像(左側には高山右近像)が、南東向かい側にはガラシャ慰霊塔が建てられています。カトリック信者でなくても見学できるようなので大聖堂内に入らせてもらうと、両脇のステンドグラスから差し込む光と堂内に響くパイプオルガンにより荘厳な雰囲気が漂っていました。正面奥には和装の聖母の両脇に高山右近と細川ガラシャを配した大壁画が掲げられ、右側にはガラシャの最期が描かれています。
…ということで、麒麟がくる紀行の一環としてガラシャの出生、新婚、幽閉、そして最期の地をめぐってきましたが、最期の地に立ってみて、改めて何とも言いいようのない気持ちになりました。ガラシャの生きざまに心を動かされる一方で、誰の記憶にも残らない平凡な一生であっても幸せに暮らせていたなら、という思いもあって……だめだ、やっぱ何も言えねぇ…。
# 訪問時に屋敷跡石碑の写真を撮りそこねていたので、翌週に雨の中を再訪する羽目になりました。やれやれ。
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