千葉氏の居城。近くに貝塚もあり、20万年前は海だったことも納得。
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2024/06/23 17:22
城山散策 (2024/06/23 訪問)
千葉氏の居城。近くに貝塚もあり、20万年前は海だったことも納得。
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2024/06/23 17:03
藤棚 (2024/04/28 訪問)
城内に子供が楽しい公園があり、藤棚きれいでした。
天守閣からは富士山も望め、内部は昭和感あり居心地良かった。
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2024/06/23 16:57
熊本のパワーを感じた (2024/03/03 訪問)
市内からの存在感に魅せられ、城内の雰囲気に居心地の良さを感じ、天守閣に復興の力強さを感じた。まさに名城。
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2024/06/23 16:48
群馬 岩櫃城 (2024/06/20 訪問)
沼田城から日本ロマンチック街道に指定されている国道145号を走行し
1時間くらいで岩櫃城登山口下の駐車場に到着しました。
観光案内所で色々とお話を聞き、登城記念スタンプや記念はがきや
「上州真田三名城訪問記念ファルダ」をいただきました。
平沢登山口から本丸に向かおうとしたところ、6月になってからの熊出没注意の
警告看板が目に入り引き返してしまいました。
もう一度出直して登城を達成したいと思います。
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2024/06/23 16:30
留守氏館 大隅正八幡宮「四社家」の館 (2023/01/06 訪問)
大隅正八幡宮(鹿児島神宮)は和銅元年(708)の建立で、平安時代に八幡宮が勧誘されました。大隅国の一宮とされ鎌倉時代には源頼朝の庇護の下、勢力が拡大します。多くの神官・僧侶らが在住し「四社家」「十家」あるいは「一家」「衆徒十五坊」「殿守十二家」「四十七家」「隼人十八家」など百十家もの衆徒集団がいたようです。
「四社家」はそれらを統括する立場であり、世襲で行われ、桑幡・留守・沢・最勝寺らが知られており、留守氏は貞治2年(1363)に石清水八幡宮から当地に来たとされています。留守氏館は霧島市隼人町にあり大隅正八幡宮の南東側に控えています。辻公園の西側に位置し土塁が良好に残っています。
明治維新の際にもこれらの衆徒は存続していたようで、四社家だと桑幡家は神主、留守氏は執印留守、沢家は田所、最勝寺家は別当と家職が記されています。十家には桑幡性が二件含まれ、検非違使が三件います。時間の流れが止まっているようですね。
(三ツ石友三郎編 1985「隼人郷土史」参照)
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2024/06/23 16:05
106【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (安土で直政が見たものは?) (2024/04/09 訪問)
(26人目)井伊直政の続き⑧です。
高天神城攻めでの水の手を断った功績で、武田滅亡後に2万石に加増された万千代は、元服し名を「直政」と改めます(この時22才)。そして1582年、信長は武田を滅ぼした家康をねぎらうため、完成したばかりの安土城へ招待します。直政は、酒井忠次・石川数正・本多忠勝とともに家康の供として安土城を訪れました。
安土城へちょうど桜が満開の時に行ってきました。その様子は4月にお伝えしましたので、今回はその時に直政の気持ちになって登城した感想をお伝えします。
下から見上げると、この大手道のまっすぐな階段の先には黄金に輝く天主がありました(写真①)。直政はまずこの光景を、ここからどんな思いで見上げたのでしょうか? きっと信長への憧れが芽生えたのではないでしょうか?
この大手道は帝(おそらく正親町天皇)を招くために造られた道ではないかと伝わっています。今では誰もが登れますが、当時はそのため誰もここからは登る事はできなかったとか? もしそれが本当なら、家康一行はおそらくこの大手道は下から見上げただけで、実際は現在の摠見寺口(写真②)から入り、仁王門(写真③④)→三重塔(写真⑤)→本堂(写真⑥)を通り登城したと思われます。摠見寺は江戸時代末期の1854年に、仁王門と三重の塔以外は火災で焼失したようで、今はこの二つのみが現存しています。途中「仏足石」もありました(写真⑦)。信長の信仰心の厚さも伺えます。
そして途中にある石垣(写真⑧は天守台石垣)、おそらく直政は石垣造りの城を見たのはこの時が初めてだと思います。そして、ここで見た事・学んだ事・そして信長への憧れは、後の箕輪城の築城に大いに影響する事になります。それは箕輪城のどの部分に現われているでしょうか? 安土城と箕輪城の両方を訪れた事がある方は、思い浮かぶものがありますよね!(あれかな?🤔)
そして一行は、天主に招待され信長に謁見し、最上階から琵琶湖を眺めます。私も天主跡(写真⑨)に立ち琵琶湖を眺めましたが、さらにこの上に5層6階の高さ32mに最上階があったので、そこから見た琵琶湖はどんな景色だったのでしょうか? その高さから見て見たい気持ちになりました(展望台でも作ってくれないかな?)
そして、夜になると江雲寺御殿にて宴がもようされます。そこで魚の臭いに怒った信長が明智光秀を皆の前で折檻するという、あの有名な事件が起きてしまうのです。直政はこの事件の一部始終を、この時いったいどんな思いで見つめていたのでしょうか? ここも気になります。
一行は、この後京都に立ち寄った後、堺へ向かいます。そして堺見物の最中に、本能寺の変が起きてしまいます。
次は、「伊賀越え」に続きます。
途中に立ち寄ったとされる山口城(宇治田原城)を訪れます。
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2024/06/23 15:20
洲本城の石垣 (2023/08/12 訪問)
まちさんの投稿を拝見しました(城びとへようこそ)。洲本城の石垣で合ってますよね?
洲本城にこんな積み方をしている場所があったとは知りませんでした。今度訪問した際に、登り階段と合わせて確認したいと思います。洲本城は天正13年(1585)に脇坂安治によって石垣が築かれ天守が造営されたとされています。洲本城の各所の石垣を確認すると、まだ算木積の技術が完全に確立されていないようです。穴太積でつまれていますが隅部の石は加工がなされ、長方形の石でなんとか強度を確保しようとしているようです。洲本城の築かれている山は和泉砂岩の岩山と見られ西の丸あたりに石切り場があったようです。
投稿された写真の部分と天守台の部分の写真を確認すると、いずれも和泉砂岩を使用しているようです。天守台の部分だけ算木積の精度が高いですが、ちょっと詳しい方に確認してみようと思います。※
和泉砂岩は白亜紀の地層から採取される砂岩で岸和田城や和歌山城にも使われています。ちなみに淡路で取れる砂岩でも和泉砂岩です。おそらく石灰岩を除いて最も崩れやすく風化しやすい石材で洲本城もあちこち崩落しています。加工は比較的容易なのですが投稿された写真の箇所を見るに、よほど鋭角に加工せねばならないので、このような積み方になったのかもしれません。
若桜鬼ケ城の六角石垣もなんとか強度を保とうと苦心している様子が伺えます。隅部を鋭角に落として何とか重量を交互に支えていますが、あまり高く積むことは出来ません。投稿の部分は、後世に積み直したか、崩れたらまた積むからいいやで「えいや」で積み上げたのかは‥不明ですが、手前の石を取ってやりたくなりますね(全崩壊)。
雨でヒマなので投稿させていただきましたが、どなたか石垣に詳しい方、いろいろ補完をしていただけると助かります。
※すみません、ちょっと憶測でモノを言ってしまったので修正します。また確認が出来ましたら追って投稿させていただきたいと思いますのでご了承願います。
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2024/06/23 14:39
大森代官所の出張陣屋 (2024/06/01 訪問)
奥出雲への帰省途中に立ち寄りました。
開館前の歴史文化資料館の駐車場に車を置き登城です。
元は天領の代官所として設置されますが後に縮小され、石見銀山を管轄する大森代官所の出張陣屋となりました。
陣屋跡には石垣が残っています。
また、町内の民家には門が移築されています。
上下の街並みも整備されていて観光にも力を入れているようですが訪れるのにはちょっと不便かな?
ここ出身のアンガールズ田中さんにアピールしてほしいですね。
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2024/06/23 14:35
忍城 (2024/06/22 訪問)
行田市駅から徒歩で登城。
資料館のガイダンスで、地元出身の鳥居強右衛門の子孫が忍藩老中だった事を知りました。
街中に石碑が多数設置されています。
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2024/06/23 12:38
蝶番 (2024/06/22 訪問)
南の丸から東の丸途中にある初めて見た、まるで蝶番のような石垣の形状(私が初めてなだけで普通でしたらごめんなさい)、左右から詰んできてお互いを合わせず、ここでどんなやりとりが有ったのかと想像してしまいました。
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2024/06/23 12:26
登り石垣 (2024/06/22 訪問)
麓の淡路文化資料館で「史跡洲本本城跡調査成果速報展」を見てから登城へ、樹木の伐採をしており横からの東登り石垣が見えました。大きな階段みたいで感動しました
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2024/06/23 12:16
無印 小田原城 北条氏墓所 (2024/01/26 訪問)
小田原城の天守最上階は展望台になっていて周囲を良く見渡すことが出来ます。北条氏の時代とは位置関係が異なるとは思いますが、相模湾や石垣山城のある丘陵を一望できます。
小田原市の栄町の一角に北条氏政・氏照の兄弟の墓所があります。二人の墓が仲良く並んでいて、その前に二人が切腹をしたと見られる生害石が置かれています。左の塚が氏照公、中央が氏政公、右の大きな五輪塔が氏政夫人の墓とされています。関東の覇者であった北条家四代当主と、その弟で右腕のような存在であった人物の墓にしては慎ましやかなものですが、ここは神妙に拝んで立ち去りました。
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2024/06/23 11:50
天守は城の「華」 (2024/01/26 訪問)
北条時代に比べると城の規模は小さくなりましたが、近世城郭の小田原城も良い城です。本丸に至るまで馬出しが連続しているのですが、整然とした形で、姫路城のように迷路のような縄張りではありません。これも潔くて良いと思います。
私はコンクリの復興天守や模擬天守は正直好きではないです。いくら戦後の復興期のドタバタや建築基準の問題が有ったとしても、貴重な石垣の上に史実を無視したコンクリ造りの建造物を量産するのは遺構に対して不敬であると思うし、中にはIQを疑いたくなるようなものが多々あるのも事実です。それでも天守が有る城に人が集まってくるのも事実なんだよな。
やはり天守は城の「華」ということでしょう。なので否定はしません。模擬だろうがなんだろうが天守が有れば必ず登ります。その時には割り切って考えるようにしています。
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2024/06/23 11:04
麓を散策 (2024/02/26 訪問)
福井遠征の帰路で途中下車し、小谷城へ
JR北陸本線 河毛駅下車。河毛駅前には浅井長政・お市の方の銅像が鎮座しています。
小谷城戦国歴史資料館まで徒歩30分。道中には、織田信長の小谷城攻略の際に築いた虎御前山城もあります。資料館内で日本100名城スタンプを押印。
福井遠征の影響で疲労困憊であったこともあり、山城にはアタックせず、麓を重点的に散策。
麓には追手道入口、小谷城下町跡、北国脇往還(大谷市場)などがあり、説明板や石碑が充実していました。
また織田信長が陣を張った虎御前山城が谷から間近に見えて、かなりの威圧感がありました。
山城部分は、今回は未登城に終わったので、いずれ再訪したいと思います!!
また河毛駅から少し北に行った場所には、明智光秀が陣を張ったとされる山脇山があり、道路沿いに説明板が設置されていました。
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2024/06/23 10:26
無印投稿 備中松山城 (2013/12/15 訪問)
松山城で検索すると、たいてい伊予の方が先に出てくるけど、こちらの備中の方も忘れてはいけません。リフトなんか無いし、正直登るのしんどいけど、岩盤の上に築かれた石垣や天守台は、それまでの疲れを吹き飛ばしてくれること請け合いです。
標高487mの高所にある小さな現存天守ですが個人的には小さな天守も好きです。一番高いところで「えいっ」と気張っている感じがいいですね。うん‥立派、立派。
あまりにも不便なので、戦国時代から江戸時代まであまり使われず。明治時代に7円(今でいうところの5万円)で商家に売却されるも、あまりにも不便なので放置され、ボロボロになってたところを昭和5年に修復がされたようです。なんにせよ残ってくれてなによりですわ。
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2024/06/23 09:59
またの名を伐株山城 (2024/06/21 訪問)
外から山を眺めると切り株のような形をしています。
大きなクスノキをが倒れてその切り株の跡だという伝説があるそうです。
城としてはほぼ向かいにある角牟礼城が出来るまで活躍した城です。
山頂までは車で行く事ができます。
駐車場からは整備された公園に合計7つの土塁が残ってます。
眺望やきれいに刈られた芝などきれいな公園に癒されてしまうのですが、土塁で城跡の雰囲気に戻ります。
堀切をあるのですが、夏の時期は草で見ずらいです。
癒しの公園という側面も味わいつつ城跡の楽しみを感じる事ができる場所だと思います。
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2024/06/23 09:54
2024/06/23 09:31
2024/06/23 09:21
遠いのだ (2023/01/06 訪問)
富隈城は島津氏第十六代・島津義久によって築かれた城で東西約150m、南北約250mの方形で南を除く三方に堀があったとされています。天守の無い居館式の城郭だったようですが、西や東側には当時の石垣が残っています。案内板によれば肥後八代の種山の職人たちの仕事のようです。写真がいささか暗いので、再訪する予定だったですが、今年の正月とGWは長期連休が取得できなかったので、結局中国攻めと関東首都圏のチョコ城牧場周遊で収まりました。
※ちょこ城はぴーかるさん発案の単語です。
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2024/06/23 09:09
桑幡氏館跡 鹿児島県霧島市 金龍ラーメン (2023/01/06 訪問)
桑幡氏は11世紀半ばころから当地居住し、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の祠官を代々務めたそうです。100m四方の方形の居館跡で周囲には堀や土塁を築いていたようです。平成12年度の調査では中国の青磁やタイ・ベトナムの陶器も見つかっています。
九州を旅行しているときは、毎日ラーメンを食べていましたが、鹿児島の金龍ラーメンはうまかったですね。あっさりしすぎず、こってりしぎず、ベストなラーメンというのは個人差がありますが、私にはピッタリはまりました。三河にもこういう店が欲しいです。
一風堂も全店撤退してしまいましたので。
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