蒲原津は元来,南側に信濃川河口,北側に阿賀野川河口を合わせ持ち日本海に突出していた河口港であり,水運の拠点でもありました。信濃川の対岸側(左岸)は,新潟津。阿賀野川の対岸側(右岸)は,沼垂湊。蒲原津,新潟津,沼垂湊で「3か津」と呼ばれていました。
南北朝時代,新潟津の覇権は南朝側(天神山城の小国氏)で,沼垂湊の覇権は北朝側(加地城の加地氏)。蒲原津の争奪戦を4回。北朝側勝利。金宝寺は廃棄。
天正9(1581)年,越後平定に動いていた上杉景勝が木場城を造り,占拠していた新発田城の新発田氏を滅ぼしてこの地の制圧に成功を収めます。のちに金宝寺を再建。
これで安泰かと思いきや,新潟市内の土壌は基本砂浜。河口港ということで自然災害のたびに地形変化の憂き目に遭いました。そして,とうとう延暦年間(1673-1681年)に蒲原津は洪水で流され廃港になりました。
近代に入り,阿賀野川河口は約15km北側に変更されてます。また,信濃川は大河津分水で日本海に分流され,さらに関屋分水路で再び日本海に分流されてます。関屋分水路から現在の信濃川河口までは,埋め立て案も浮上したことがありましたが,回避して現在の形になっています。
《参考文献:新潟市「新潟市の歴史」》
ここで,個人的疑問がありまして,南北朝時代の金宝寺,天正9(1581)年再建時の金宝寺,そして現在の金宝寺は同一場所と言えるのかどうか?
新潟在住ということもあり,蒲原津全体を視野に入れた散策を決行しました。
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