15世紀始めに、播磨統治の為に赤松氏によって築かれたと言われています。
170m四方の規模で土塁と水堀を廻らせたいわゆる『方形城館』で、実に100年近く赤松氏による播磨の政治の中心であり続けた場所といえます。
しかし、その歴史は決して安泰とはいえませんでした。
1441年に当時の播磨守護であった赤松満祐が京都の自邸で室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した、世にいう『嘉吉の乱』の後すぐに幕府側の追討軍を迎え撃つべく、満祐は実戦において防御面で頼りなさすぎる坂本城を早々に放棄、より堅固な城山城に籠城しました。
嘉吉の乱で赤松一族は滅んだものの後に遺児によって播磨守護職の座に返り咲く。
その後は別所氏や浦上氏などの台頭、尼子氏の侵攻で赤松氏が一時播磨を追われたりして、この後播磨は秀吉の播磨平定が完了するまでは情勢が不安定になってゆくが、赤松氏が再起をかけて置塩城を築くと本拠地もそちらに移り、坂本城はついに廃城となったといわれています。
さて現況ですが、廃れた平城の宿命というべきか大部分が住宅地となり、部分的に残された土塁と堀の跡と、わずかな地形の高まりに土塁の痕跡を探るのみとなっています。ていうか、少しだけでもよくぞ残ったなぁと思います。その土塁は結構な高さで、これだけでも見る価値はあるかと。
多分マイカーでしか訪れる術はないと思われます。駐車場は当然ありませぬ。
何せ住宅地ですので、駐車&見学&撮影には近隣の迷惑にならぬように…。
あと、石碑や土塁などが見られるのは大きい道路沿いです。目印がないので、初めて来られる方は多分迷います。僕もちょっと迷いました(笑)。
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