安房里見氏の前期の居城です。
戦国時代の南関東にあって、最後まで北条氏に屈せず互角に渡り合ったのは里見氏だけです。
地勢上のアドバンテージは有ったにせよ、キラリと光る氏族ですよね。
南総里見八犬伝のモデルになった滝田城に続く訪城で、安房グリーンラインを南下して行きます。
内房線を横切った右奥の丘が城址なのですが、最初の交差点に『☞稲村城こちら』の小さな看板がありました。
☞看板は要所にあって、最後は『☞稲村城入口』で集落の細道を案内していますが、駐車場はその先の広場(看板は無いがたぶん駐車場)に停めさせてもらいました。
稲村城は古河公方の命で上野から安房に移った里見義実が築いた城で、2代目の義通、3代義豊と、3代50年に渡って里見氏の本拠地でした。
この期間に里見氏は近隣の有力国人衆を味方にし、或いは討伐して安房国内を統一、戦国大名へと名乗りを上げる事となるのです。
縄張りは、北西から南東に延びる細長い丘陵を二ヶ所の『水往来』と呼ばれる堀底道で分断した、連郭の形式を採っています。
しかし広さは中央の主郭が圧倒的に広く、室町期の単郭の城の名残りを感じますね。
南東の斜面は緩やかで、階段状に平場が重なっています。
現在も此処に集落が有るのですが、祠や古井戸がいっぱい有るそうなので、ある程度家臣を集住させてたのかも知れません。
現在、城址の多くは果樹園として活用されていて、カキやミカンが実を付けています。
さすがに主郭だけは国史跡指定を機に整備した様で、まだ伐採した果樹の切り株が遺っていました。
城址遺構と農業道路の見分けが必要ですが、さすがに車道などの大きな改変はされていないので、城の姿はイメージしやすい城址ですね。
主郭に立つと館山市街とその向こうの東京湾が一望できます。
里見氏は最終的にはあの館山を本拠にして終わるのですが、その前に稲村城を舞台にして肉親同士で争う大きな内訌がありました。
2代目の義通は若くして死の病に冒され、跡継ぎの義豊はまだ幼児だった為、その養育と元服後の当主就任を弟の実堯に託して亡くなります。
託された実堯は良く家を守り、義豊も無事成人しましたが、20歳になっても叔父:実堯は当主の座を譲ろうとしません。
先代の約定違反には憤る重臣も居り、義豊は思い切って城内で実堯を取り囲んで詰問し、切腹に追い込んでしまいました。
実堯の子の義堯は、軍を率いて上総に遠征していましたが、この処置に激怒して軍を返して来ます。
義豊も正統性を基に義堯を討たんとして兵を上げますが、国人の多くは実績ある義堯についてしまい、義豊は自害したので、4代目以降の当主は義堯の子孫が担って行く事になるのです。
安房に入ってから、気になった事がひとつあります。
クルマで走っている時に、地元№のクルマのマナーがやたら良いのです。
皆さん車間を取ってゆっくり走るので、後ろを気遣う心配がありません。
それどころか、右折のため対向車待ちをしてる際に、わざわざ止まって譲ってくれる場面も何度もありました。
この時から、なんとゆうか 千葉県のイメージが180度変わりましたね(^^;
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