阿王山紫城とも称される刑部城は、堀川城とともに家康への備えとして、地元の豪族らによって築かれました。
しかし、家康側の猛攻の前にひとたまりもなく落城したそうです。
刑部城はその後、家康公の家臣・菅沼氏が守ったそうです。
なお、1572(元亀 3)年、三方ヶ原において徳川軍を壊滅させた武田軍は、この刑部の地で越年しました。
現在、県道261号線(姫街道)によって、城跡は分断されています
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2021/01/10 13:34
刑部城 (2013/03/25 訪問)
阿王山紫城とも称される刑部城は、堀川城とともに家康への備えとして、地元の豪族らによって築かれました。
しかし、家康側の猛攻の前にひとたまりもなく落城したそうです。
刑部城はその後、家康公の家臣・菅沼氏が守ったそうです。
なお、1572(元亀 3)年、三方ヶ原において徳川軍を壊滅させた武田軍は、この刑部の地で越年しました。
現在、県道261号線(姫街道)によって、城跡は分断されています
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2021/01/10 07:51
甲州における戦国時代最後の合戦 (2021/01/04 訪問)
獅子吼城の始まりは、鎌倉時代末期とされています。武田信玄の時代には、烽火通信の重要な場所であったと云われ甲信国境の信州峠、西方は能見城・新府城まで遠望できるとのこと。(自分が登城した時は、方角が分からず、説明板等なくさっぱり分かりませんでした)
1582年9月に武田氏が滅亡。さらに、織田信長も本能寺の変で明智光秀の謀反により命を落とすことになり、甲斐国は、北条氏と徳川氏の係争の地となり、獅子吼城は北条方の守備するところとなりましたが、徳川方の服部半蔵率いる伊賀組と武田遺臣とが、獅子吼城に夜襲をかけ落城させた。この戦いが、甲州における戦国時代最後の合戦だと云われています。
現在、獅子吼城は、石垣、曲輪、土塁、空堀、竪堀が残っています。アクセスとしては、北杜市須玉町江草にある根古屋神社を目指すと城跡の案内板があり、迷うことはありません。ただ、駐車場・トイレは無く、峠にある登城口50m程手前に1台ほど駐車できるスペースがあり駐車しました。
どの方の投稿を拝見しても、「猿の群れ」の記述がありますが、本当にいます。"(-""-)" さらには、主郭部付近で「キツネ」を見ました。「きっ、キツネ~」と訝しる方もいるかと思いますが、本当にいました。自分も北海道と動物園以外で見たのは初めてです。
驚きとびびったのとで画像がないのが残念です。どなたか、見られた方はいませんか?投稿をお待ちしています。
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2021/01/10 06:27
クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅④ (2018/04/29 訪問)
「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の4城目(ラストです)は根城です。弘前城からの転戦です。
100名城スタンプは「八戸市博物館」で押しました。
根城は1334年南部師行によって築かれたと言われ、代々、南部氏の居城として利用されました。
現在は「史跡 根城の広場」として整備されており、遺構として館跡の礎石、曲輪、空堀、土塁が確認できます。
本丸には主殿・中馬屋・工房・鍛冶工房・板倉・納屋・東門が復元されています。
広々とした台地に御殿や馬屋が復元されていて、いい雰囲気です。攻城時間は60分くらいでした。
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2021/01/10 06:15
クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅③-2 (2018/04/29 訪問)
「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の3城目=弘前城、前夜に続いて2回目の攻城です。
100名城スタンプは「弘前城天守」で押しました。
2回目の攻城を撮影した写真から辿ると、
津軽南ねぶた村の駐車場➡弘前中央高校口から三の丸へ入城➡日本一(世界一?)太いソメイヨシノ➡
二の丸(日本一(世界一?)古いソメイヨシノ)➡東内門➡下乗橋を渡って本丸へ➡
天守(100名城スタンプ押印)➡本丸内を散策➡鷹丘橋を渡って北の郭へ➡北の郭内散策➡
波祢橋を渡る➡春暘橋を横に見ながら桜のトンネルを歩く➡埋門跡から西の郭へ➡
西の郭散策➡二の丸へ入り、未申櫓見学➡南内門➡杉の大橋を渡る➡中濠越しに辰巳櫓を確認➡
追手門から一旦退城➡外濠沿いを歩➡三の丸東門から三の丸へ入城➡
中濠越しに丑寅櫓を確認➡弘前中央高校口から下城➡津軽南ねぶた村の駐車場へ。
公園案内図を確認すると四の丸と植物園を見学していませんが、時間の都合上、あきらめました。
桜筏を前日夜間と昼間見れたこと、天守と隅櫓を確認できたので満足です。攻城時間は2時間くらいでした。
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2021/01/10 06:06
クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅③-1 (2018/04/28 訪問)
「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の3城目は弘前城です。久保田城からの転戦です。
弘前城は現存12天守としては最北の城です。津軽氏の居城でした。津軽信枚によって築城された当初は「鷹岡城」と呼ばれていましたが、南光坊天海のアドバイスにしたがって地名を「弘前」に改称し、城名も弘前城となりました。現存12天守に数えられてはいますが、築城当初の5層5階の天守は焼失しており、現在残っているのは後に建てられた御三階櫓です。
江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されています。城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城です。
弘前城は2018/04/28と04/29の2日間連続して攻城しており、投稿写真の都合上、2回に分けて投稿します。
まずは1回目(2018/04/28)、ツアーでは翌日に攻城する予定でしたが、夜桜を見学したくて、宿泊ホテルから20分強歩いて攻城しました。
夜間撮影技術が稚拙で、写真がボケまくりですが、なんとか見れそうなものを投稿します。攻城時間は90分くらいでした。
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2021/01/10 05:58
クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅② (2018/04/28 訪問)
「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の2城目は久保田城です。盛岡城からの転戦です。
100名城スタンプは「久保田城御隅櫓」で押しました。
久保田城は、慶長七年(1602)に出羽国へ国替えとなった佐竹氏二十万五千八百石の居城であり、複数の廓を備えた平山城です。
築城は慶長八年(1603)年五月に開始され、翌年の八月には初代藩主佐竹義宣が久保田城に入り、旧領主秋田氏の居城であった湊城は破棄されました。
しかし、義宣が湊城から居を移した後も城普請は続けられ、完成したのは寛永八年(1631)頃といわれています。
久保田城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったことが挙げられます。
天守閣を造らなかったのは、国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが原因であると考えられています
現在は「千秋公園」として整備されており、桜の名所としても親しまれています。建造物としては、物頭御番所が現存し、市政100周年を記念して御隅櫓が復元されています。
以上、秋田市公式サイトから抜粋しました。
見所は、復元された御隅櫓(鉄筋コンクリート造りはちょっとだけ残念)と表門、現存する物頭御番所(久保田城内の二ノ門の開閉管理と城下の警備、火災の消火等を担当していた物頭(足軽の組頭)の詰所)です。
攻城時は桜が綺麗でした。攻城時間は80分くらいでした。
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2021/01/10 05:49
クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅① (2018/04/28 訪問)
「クラブツーリズム「青森・秋田・岩手の日本100名城制覇」の旅」の1城目は盛岡城です。
100名城スタンプは「もりおか歴史文化館」で押しました。
盛岡城は南部氏の居城として知られています。土塁の多い東北地方の城郭の中では珍しく、白い花崗岩で石垣が組まれており、東北三名城のひとつに数えられています。
現在は岩手公園(愛称:盛岡城跡公園)として整備され、自分は見てはいませんが、芝生広場の南側に宮沢賢治の詩碑、二の丸に石川啄木の歌碑などが建てられているようです。
見所は、やはり石垣ですね。石垣の素材の石は遠方から運ぶことなく、全て近隣産の花崗岩を用いているそうです。
加工は野面積・打込接・切込接の三種類確認でき、石垣の角には算木積・笑い積や盛岡城にしか見られない三角錐の角石があります。また、はばき石垣(石垣の崩壊を防ぐ石積み)も確認できます。
写真をうまく映せませんでしたので投稿できませんが、場所は二の丸の東側に笑い積とはばき石垣、本丸の西側に三角錐の角石がありますので、石垣好きな方は確認して見て下さい。
攻城時は桜が綺麗でした。攻城時間は70分くらいでした。
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2021/01/09 23:09
鎌倉時代築城の古城 (2021/01/09 訪問)
鎌倉時代に築城し、一旦廃城。戦国期にまた再活用した模様。笠寺小学校付近との事。
笠寺小学校近郊に神社があり、石碑が立つ。
笠寺小学校と並ぶようにある神社も急傾斜地。一体として城を構築していたか、出丸か。いずれにしろ城だったであろう。小学校を眺めても仕方ないので、神社周辺を散策。
城跡地の雰囲気を感じ、それなりに楽しめた。
とにかく、この付近は道が狭くて駐車場が無い。神社から南区役所方向へ少し行った所に名鉄協商パーキングを見つけて停めた。
城は、小高い丘にある丘城で、小学校と二郭一城だったか。
二城五砦の訪問ついでに登城。
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2021/01/09 22:48
大高兵糧入れ (2021/01/09 訪問)
桶狭間の戦いで有名な二城五砦をまわった。
まずは、「大高兵糧入れ」で有名な大高城。
この城は桶狭間以前からの重要な城であったが、織田対今川・松平の勢力争いの中、前線で揺れ動いた城である。幕末まで機能した城で、城下町には古い屋敷や酒蔵などがあり、徒歩で歴史散策を楽しんだ。
さて縄張りは、主曲輪を囲むように階層的に曲輪が配置されていた。腰曲輪も現在では幅が広くなってしまい要塞の雰囲気が無いが、戦後期には城のすぐ近くまで海岸線が来ていて、桶狭間の戦いでは松平元康が織田方の砦と激しく戦った要塞の城だったのは間違いない。
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2021/01/09 22:43
炎上した鷲津砦 (2021/01/09 訪問)
清洲から熱田神宮で参拝した信長は、鷲津砦と丸根砦の炎上を横目に桶狭間山に走ったとあるが、、、砦は山の山頂から南面に大高城を向いて築かれており、直接は見えなかったのではと感じた。
さて、砦は大高城に向かって横堀や土塁らしき遺構があり、砦東側には長寿寺もある事から、根古屋城だったと言われてもおかしくない。
清洲同盟以降は使われなくなったとあるが、それにしては保存状態が良く、大高城と鳴海城の中間点として役目があったとしても不思議ではない。
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2021/01/09 22:33
2021/01/09 22:28
東西に長い城 (2021/01/09 訪問)
「東西75間半、南北34間」と言われている。
城跡地は、東海道を挟んで西側の鳴海城跡公園から東側の石碑がある天神社のあたり。
また、別名を根古屋城と言われているように、城の周りにはいくつもの寺や神社が今でも残る。この城も勿論古いし、海岸線・川・東海道の全てを抑える重要な城だ。織田対今川の勢力争い時には、今川方は後に第二次高天神城の戦いで勝頼方として最期を遂げた猛将岡部元信を城主として配置。「こんな前線の不利な所で、よくも戦ったものだ」と感じた。結果的に、義元は岡部元信への絶対的信頼からか信長は善照寺砦にいると判断したのかもしれない。
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2021/01/09 22:21
対鳴海城の砦 (2021/01/09 訪問)
光明寺の裏をブラブラと探していたら、何と個人宅の中に「丹下砦跡」の案内看板を発見。そのお宅の際には、曲輪の外構え跡らしき遺構が見えた。地形的にアップダウンの急な箇所で、海岸線際にあった崖地のような立地だったのではなかろか。
丹下砦の際まで海岸の入江が来ていたと思われ、入江向こうには猛将岡部氏が籠る鳴海城が見えて、桶狭間の戦い前夜の緊張感を狭い路地を歩いていると感じる。
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2021/01/09 22:16
桶狭間急襲前に信長が兵を集めた砦 (2021/01/09 訪問)
信長が善照寺砦に兵を集め、鳴海城へ兵を送ると共に本人は2,000騎連れて中島砦に向かった判断が、義元を討ち取った要因の一つと言えるだろう。砦は階層的に曲輪が存在していたと考えられる。かなりの兵を収容できる広さがあったと思われ、古くから砦の北を通る鎌倉往還を抑えていたのであろう。
「たられば」になるが、信長が善照寺砦に来ていた事は承知していたと言われる義元が、沓掛城を出て清洲への最短ルートである鎌倉往還を進んで善照寺砦を目指していれば、大雨に降られたとしても、討ち取られまではしなかったのではないかと感じた。
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2021/01/09 22:11
個人の住宅跡地にあった石碑 (2021/01/09 訪問)
二城五砦の最後に行った。中島砦跡地。
街道と河川が四方から入り組む非常に混雑した箇所で、堤防沿いの住宅街の一区画に砦跡地を見つける事が出来てホッとした。この石碑、個人邸の庭に昭和2年に建てられたと言うからそれもまた驚きだ。瑞雲寺から中島橋を渡って、運河沿いを歩くとある。
大雨の中、「信長が善照寺砦から今川方重臣の岡部元信が守る鳴海城を攻めていた」と思い込んで桶狭間山で陣を張っていた義元を目掛け、大雨前に川を渡った織田軍2,000騎が桶狭間山目掛けて東海道を駆け上がるように出陣した砦だ。
川を渡り背後の鳴海城からは私の好きな猛将岡部氏が大雨による増水で援軍を出来ない状況で、大高城と鷲津・丸根は南の山を越えた向こう側。
松平信康が中島砦を襲撃してればまた違っただろうが、鷲津砦の際まで海岸線があった当時、鷲津・丸根砦の織田ラインをを超えてまでは行けなかったのだろう。
大雨が無ければ歴史は変わってたかもしれないが、、、織田信長の作成勝ちだったのがこの地に立って感じた。
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2021/01/09 21:47
落合館 神奈川県綾瀬市 (2020/12/26 訪問)
綾南公園に駐車し、隣接するキツツキの森を越えると稲著社があります。
この周辺が跡地とのこと。
遺構はなさそうですがキツツキの森は何か雰囲気を感じました。
落合重貞の館があったとされています。
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2021/01/09 15:48
この小さな丘の上で備前の戦国史は躍動した (2020/11/21 訪問)
「沼」であり「浮田」であるこの地は宇喜多(浮田)氏の本拠地だった頃の景観を色濃く残すようだ。この小さな丘の上で備前の戦国史は躍動し、備中高松城攻めの前後に秀吉が立ち寄ったことで日本の歴史にも大きく関わることになった。
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2021/01/09 08:52
唐沢山城・佐野城日帰り③ (2018/05/04 訪問)
「唐沢山城・佐野城日帰り」の3城目(ラストです)は前橋城です。佐野城からの転戦です。
佐野駅からJR両毛線で前橋駅に到着。そこから徒歩で前橋城を目指しました。
今では笑い話ですが、Yahooナビで「前橋城」と入力したら群馬県庁近くのそば屋?に誘導されました。
前橋城は酒井重忠の居城として知られています。古くは厩橋城と呼ばれ、関東七名城のひとつです。
(残りは河越城、忍城、唐沢山城、金山城、宇都宮城、常陸太田城)
暴れ川として知られ「坂東太郎」の異名を持つ利根川に悩まされつづけた城で、江戸時代中期に起きた洪水の被害で一旦は廃城となっています。その後、領民の希望もあり再築されることになりますが、これは江戸幕府が最後に出した築城許可といわれています。しかしすぐに大政奉還となり、築城わずか4年でふたたび廃城となりました。
遺構はほとんど残っていませんが、当時最新式であった日本式城郭の土塁がわずかに残っています。
現在は城址の一部が前橋公園として整備されており、隣接する「臨江閣」には前橋城の模型や年表などの資料が展示されています。
攻城時間は30分くらいでした。
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2021/01/09 08:44
唐沢山城・佐野城日帰り② (2018/05/04 訪問)
「唐沢山城・佐野城日帰り」の2城目は佐野城です。唐沢山城からの転戦です。
唐沢山城から佐野駅南口に戻り、レンタサイクルを返却した後、佐野駅城山公園口に移動して佐野城に着きました。
佐野城は「関ケ原の戦い」後に佐野信吉が唐沢山城を廃して山麓に新たに築いた城です。
唐沢山城の廃止理由としては、江戸大火展望説、山城禁令説、豊家縁故説などが出されています。
理由は明らかではないものの、徳川政権の本拠地である江戸の近くに豊臣氏に近い大名が山城を持つことが徳川氏にとって不都合であったことが推定されているそうです。
現在は佐野城山公園となっており、築城によって移転を命じられた惣宗寺は今日でも「佐野厄除け大師」の愛称で広く知られており、その山門は佐野城の城門を移築したものと伝わっています
三の丸➡二の丸➡本丸➡北出丸と空堀で区切られた曲輪を見て奥に進み、佐野駅に戻ってきたら電車の時間になってしまい、楽しみにしていた「佐野ラーメン」を食することができませんでした。
攻城時間は30分くらいでした。
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2021/01/09 08:29
唐沢山城・佐野城日帰り① (2018/05/04 訪問)
会員なりたての2020/07/29 に投稿していますが、中身がないので再投稿します。
「唐沢山城・佐野城日帰り」の1城目は唐沢山城です。続100名城スタンプは「唐沢山神社社務所」で押しました。
初めての続100名城スタンプはここで押しました。
自宅の最寄り駅から佐野駅に到着。佐野駅南口のセブンイレブン裏にある「レンタサイクル」で自転車を借りて、約7Km先の唐沢山城を目指しました。
栃本公園付近までは平坦な道で良かったのですが、そこから「唐沢山のレストハウス」までの残り約1.5Kmは地獄でした。登りの坂道をひたすら自転車を押して登りました。
唐沢山城は佐野氏の居城として知られており、関東七名城のひとつです。
関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴です。
ここの見所は、やはり本丸下の高石垣だと思いますが、個人的に犬派の自分でも城址に住み着いてる猫には癒されました。攻城時間は80分くらいでした。
帰りは第二駐車場方面に南下し佐野駅に向かいました。下り坂は楽ちんでした。
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