2018/12/29
明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 まとめ
明治維新と関連の深いお城を紹介した連載「維新の舞台と城」。二条城、淀城、大坂城、甲府城、江戸城、宇都宮城、長岡城、白河小峰城、二本松城、会津若松城、松前城、そして五稜郭。幕末の日本全国で繰り広げられた戦いと、それぞれの思惑とは!? 全11回の記事をまとめてご紹介!
そもそも明治維新って?
1853年の黒船の来航をきっかけに、国内には、海外勢力を武力で追い払うべきという「攘夷」派と、海外と肩を並べられるよう協力すべきという「開国」派が生まれ、対立しました。特に攘夷派の代表格である長州藩(現在の山口県)は、過激な行動をとるようになります。そんななか「国内が分裂しているようでは日本を守れない」と、土佐藩(現在の高知県)の坂本龍馬は、薩摩藩(現在の鹿児島県)の西郷隆盛を長州藩の桂小五郎と引き合わせ、薩長同盟を成立させます。
15代将軍・徳川慶喜は薩長同盟との直接対決を避けるため、大政奉還を行いましたが、幕臣たちの反発があり、幕府廃止を目ざす「倒幕」派(新政府軍)と幕府存続を目ざす「佐幕」派による戊辰戦争が始まります。
【二条城】徳川政権の始まりと終わりを見届ける
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二条城二の丸御殿には、徳川慶喜が重臣たちに大政奉還を告げた広間が残っている(元離宮二条城事務所提供)
【淀城】幕府敗北を決定づけた、淀藩の裏切り
大政奉還により江戸幕府は朝廷に政権を返上。しかし、依然として幕府が実権を握っていたため、薩摩藩・長州藩は王政復古の大号令を掲げ、新政府を樹立。幕府を支持する諸藩の大名と衝突し、戊辰戦争が起こります。その初戦である鳥羽・伏見の戦いの舞台となったのが淀城(京都府)です。旧幕府軍と新政府軍による戦い、果たしてその勝敗は―。
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本丸内に立つ淀城址碑。付近には戊辰戦争時の留守居役・田辺治之助の記念碑も立っている
【大坂城】味方を見捨て、将軍・慶喜まさかの敵前逃亡
徳川慶喜は、倒幕を目ざす薩摩藩・長州藩との直接対決を避けるため、大政奉還により政権を朝廷に返上。しかしその裏には、「朝廷には政権を運営する力がなく、新たな体制のもと徳川家が主導権を握れるだろう」という読みがありました。これに対し倒幕派は、京都御所でクーデターを決行、天皇を中心とする新政府の樹立を宣言しました。慶喜は大坂城から鳥羽・伏見の戦いに臨みますが敗戦。そして、この城で慶喜がとった驚きの行動とは―。
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大阪城の復元天守。江戸時代の天守は寛文5年(1665)に焼失して以降、昭和まで再建されなかったため、徳川慶喜の時代に天守はなかった
【甲府城】新選組の宴が敗因!? 無血開城した要の城
鳥羽・伏見の戦いは新政府軍が勝利。敗れた旧幕府軍の将軍・徳川慶喜は、家臣を置いて江戸へ敵前逃亡。慶喜はこれ以上、新政府軍に抵抗する気はなかったのですが、幕臣たちは、幕府を政治の頂点に戻すことをあきらめきれませんでした。そして、旧幕府軍、新政府軍が同時にねらったのは、江戸防衛の要になる甲府城(山梨県)でした。甲府城をめぐって繰り広げられた、新選組(旧幕府軍)と迅衝隊(新政府軍)の攻防を取り上げます。
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JR甲府駅から見た甲府城
【江戸城】無血開城の思いが回避させた江戸最大の危機
鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜が江戸に逃走すると、戊辰戦争の舞台は近畿から関東に移ります。慶喜はこれ以上、新政府軍に逆らわないつもりだったのですが、旧幕臣の中には幕府の復権をかけて立ち上がる者も。その代表格である新選組は、江戸防衛の要となる甲府城(山梨県)を守るために出陣。ところが板垣退助率いる迅衝隊に敗れます。こうして甲府城を押さえた新政府軍は、旧幕府の本拠地・江戸城に迫ってきたのです。そのとき、大都市江戸で戦闘回避に動いた人物とは!?
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江戸時代から残る富士見櫓。火災で天守が失われた後、天守の代用とされた
【宇都宮城】若き城主vs旧幕府軍 意地と誇りの激突
江戸が旧幕府軍と新政府軍の戦場になることを避けるため、旧幕臣の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会談。両者の合意で江戸城を明け渡す代わりに、新政府軍の総攻撃中止が約束されました。しかし、江戸城の無血開城が決定されてもなお幕府の復権を信じる旧幕臣たちは、日光に集合して再決起しようと江戸を脱出。その道中に建つ宇都宮城(栃木県)の城主・戸田忠恕(ただゆき)は新政府軍につき、旧幕府軍との激しい戦いに臨みます。旧幕府軍と敵対した若き宇都宮城主の真意とは――。
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戊辰戦争の戦火により宇都宮城の遺構はほとんど残っていない。平成に入り、本丸の櫓などが外観復元されている
【長岡城】大軍を翻弄した「越後の蒼龍」の策略と気概
鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸に逃げ帰った徳川慶喜を追ってきた新政府軍。江戸が戦場になるかと思われましたが、旧幕臣の勝海舟と新政府軍参謀の西郷隆盛によって江戸城無血開城が決定され、危機を回避します。これと並行して、新政府軍は諸藩を従わせるための鎮撫使(ちんぶし)を各地に派遣。旧幕府か、新政府か。日本中がどちらにつくか揺れる中、長岡藩は独自の中立路線を貫こうとします。果たしてその思いは叶えられるのか!?
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長岡での戦いを戦国時代の川中島の戦いに仮託して描いた、『越後国信濃川武田上杉大合戦之図』
【白河小峰城・二本松城】打ち砕かれた東北の団結力
江戸は新政府軍のものとなりましたが、幕府復権を信じる旧幕臣たちは江戸を脱出し、宇都宮城などで戦闘を繰り広げます。この頃、幕府を支持する会津藩は朝廷の敵とされてしまい、奥州諸藩に会津を攻撃する命令が下されました。会津藩主・松平容保(かたもり)は新政府軍に降伏を願い出ましたが却下。この事態に怒りを感じた奥州の藩主たちは協力し、新政府軍に対抗する奥羽越列藩同盟を結成。奥羽の諸藩はなぜ新政府軍に抵抗する道を選んだのでしょうか?
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戊辰戦争で焼失した白河小峰城の御三階櫓は、1991年に復元されている
【会津若松城】城内への侵入を許さなかった会津魂
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会津若松城天守。新政府軍が会津城下に攻め寄せた際は、この城に約1万人が籠城したという
【松前城】虚を突かれて落城した最北の近世城郭
奥羽越列藩同盟は崩壊、旧幕府軍の中核だった会津藩も会津戦争に敗れ会津若松城(福島県)が開城。旧幕府軍の命運は風前の灯となります。しかし旧幕臣の榎本武揚や新選組の土方歳三たちは、まだ幕府の復権をあきらめず、蝦夷へと渡り、亡命政府・蝦夷共和国を築きます。そして蝦夷での基盤を固めるため、蝦夷松前藩の城・松前城(北海道)の攻略を開始し、1日で落城します。“鉄壁の城”といわれた松前城、なぜわずか1日で落城してしまったのでしょうか?その意外な弱点とは――。
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海防のために築かれた松前城。築城後わずか15年で戦場となるなど数奇な運命をたどった
【五稜郭】旧幕臣の思いとともに散った洋式要塞
新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争は、東北の奥羽越列藩同盟崩壊によって新政府軍勝利の気配が決定的になりました。しかし、旧幕臣の榎本武揚や土方歳三たちは幕府再建をあきらめません。蝦夷へ渡って蝦夷共和国を築き、新政府軍側の拠点である五稜郭と松前城を攻略。迫りくる新政府軍を迎え討つ体制を整えました。そして戦局は、戊辰戦争の最終決戦となる五稜郭の戦いへと動きます。日本を二分した戊辰戦争。その最終決戦はどのような結果をむかえるのでしょうか?
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五稜郭は西洋城郭の技術を取り入れた稜堡式城郭だ(函館市教育委員会生涯学習課提供)
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執筆/城びと編集部