2018/07/10
明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 第2回 【淀城】幕府敗北を決定づけた、淀藩の裏切り
明治維新150周年を記念して、維新と関連の深いお城を紹介します。今回登場する淀城は、鳥羽・伏見の戦いの勝敗を決した城です。幕府の敗北を決定づけた淀藩の裏切りとは?
本丸内に立つ淀城址碑。付近には戊辰戦争時の留守居役・田辺治之助の記念碑も立っている
明治維新から150年を記念して、幕末維新の舞台となった城を毎回1城取り上げ、激動の時代を紐解く連載「維新の舞台と城」。
前回取り上げた、二条城での大政奉還により江戸幕府は朝廷に政権を返上しました。しかし、依然として幕府が実権を握っていたため、薩摩藩・長州藩は王政復古の大号令を掲げ、新政府を樹立。幕府勢力の武力討伐を唱え、幕府を支持する諸藩の大名と衝突、戊辰戦争を引き起こします。今回は、その初戦である鳥羽・伏見の戦いの舞台となった淀城(京都府)をご紹介しましょう。
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3つの川が合流する物流拠点に築かれた淀城
みなさんは「淀」という言葉からなにを連想するでしょうか。豊臣秀吉の側室で絶世の美女だったといわれる淀殿がまっさきに浮かぶ歴史ファンも多いかもしれませんね。淀殿という呼び名は、淀城に住んでいたことが由来です。しかし、現在「淀城」と呼ばれる城は江戸時代のはじめに築かれたもので、淀殿の城とは別物。淀殿の淀城は、淀古城と呼ばれることが一般的です。
そしてこのふたつの淀城は、実は「淀」といえば競馬ファンならまっさきに連想する京都競馬場の近く。競馬場から見て北西に淀古城、西に淀城があり、ふたつの城は約1km離れています。
淀の地はもともと広大な湿地帯で、京都競馬場を建設するときには畳をいくつも埋めて地固めしたといわれるほどです。なぜならこの一帯は、桂川・宇治川・木津川という3つの川の合流点。地盤はゆるいのですが、川を利用した水運にはとても便利で、淀古城は京都と瀬戸内海をつなぐ物流拠点として栄えました。
淀古城を造った豊臣秀吉。写真は大阪城内の豊國神社に立つ豊臣秀吉銅像
淀古城は、豊臣秀吉が伏見城を新しい本拠地にすると廃城になりましたが、江戸時代に入ると、江戸幕府が淀を物流拠点にするために再び城を築きます。これが現在の淀城です。鳥羽・伏見の戦いの頃は、淀藩12代藩主で幕府老中を務める稲葉正邦が城主でした。
鳥羽・伏見の戦い最大の激戦地となった千両松
慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍は大坂城より進軍。これが戊辰戦争の緒戦「鳥羽・伏見の戦い」となり、最大の激戦地になったのが「淀の千両松」、勝敗を決定づけたのが「淀城」です。この戦いで活躍したのが旧幕府軍として戦った新選組。戦力では旧幕府軍が優位でしたが、1月4日に新政府軍が「錦の御旗」を掲げると旧幕府軍全体が動揺、新選組も淀方面へ退かざるを得なくなります。なぜなら、「錦の御旗」とは、朝廷の象徴となる旗で、錦の御旗を持っている側に逆らうということは、朝敵(朝廷に敵対する勢力)であるということを意味していたのです。
1月5日、旧幕府軍は、新政府軍に大軍勢で一気に攻めかかられないよう、淀堤という狭い堤防しか道がない千両松で新政府軍を迎撃。剣豪ぞろいの新選組は地形を生かして新政府軍と互角に戦いましたが、新政府軍による近代兵器の一斉射撃により、次々と倒れます。
鳥羽伏見の戦いで激戦地となった千両松には、戊辰戦争戦没者の慰霊碑が立つ
新選組六番隊組長・井上源三郎も弾丸を受けて討死。源三郎とともに戦っていた甥の井上泰助は源三郎の首を持って逃げましたが、まだ少年だったので首の重さに耐えきれなくなり、通りかかった寺の門前に泣く泣く埋めたといいます。
藩主の意向を仰がないまま城門が閉ざされる
千両松は現在の京都競馬場の北。そして競馬場の敷地に沿うように西へ約1.5km進むと淀城に行き当たります。淀城は、幕府の要職である老中が城主。旧幕府軍は味方と信じて逃げ込もうとしますが、なんと淀城は固く城門を閉ざして、旧幕府軍を拒絶したのです。
実はこのとき、城主の稲葉正邦は江戸にいて淀城にいませんでした。旧幕府軍の拒絶を決めたのは、稲葉家の重臣・田辺右京の弟で淀城の留守を預かっていた田辺治之助。右京と治之助はもう幕府の天下は終わったと考えていたのです。しかもこの治之助、鳥羽・伏見の戦いが始まるときに新政府軍から味方につくよう誘われており、主君の正邦に許可も得ないでこの誘いを受け入れていたのでした。
淀城入城を断念した旧幕府軍は、新政府軍が追ってこられないよう城下町や橋に火を放って大坂城へ逃げ帰りました。淀城に拒否されたことで、旧幕府軍の敗北が決定的になったのです。
淀城天守台の石垣。天守台からは天守地階の礎石が発掘されている
明治維新後に淀城は廃城となり、ほとんどが破却されました。現在は淀城址公園として整備されており、本丸の石垣と内堀の一部が保存されています。
淀城(よど・じょう/京都府)
淀城は西国の押さえの城として、元和9年(1623)に徳川秀忠の命令で造られた城。江戸時代中期からは譜代大名の稲葉氏が城主となり幕末まで存続する。宝暦6年(1756)の落雷により、天守や本丸御殿が焼失するが再建されることはなかった。
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執筆・写真/かみゆ
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