明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 第10回後編 【五稜郭】旧幕臣の思いとともに散った洋式要塞

幕末維新の事件の舞台となった城を紹介する、企画連載「維新の舞台と城」。東北の戦いで敗北を喫した旧幕府軍は新天地を求めて蝦夷地へ逃れました。五稜郭・松前城を奪い蝦夷地を平定した旧幕府軍は、新政府軍を迎え撃つべく各地の防備を固めます。日本を二分した戊辰戦争。その最終決戦は果たしてどのような結果へ至るのでしょうか。


新しい近代国家を目ざす明治新政府軍と、江戸幕府による旧体制の維持を目ざす旧幕府軍による戊辰戦争は、東北の奥羽越列藩同盟崩壊によっていよいよ新政府軍勝利の気配が決定的になりました。しかし旧幕臣の榎本武揚や土方歳三たちは幕府再建をあきらめません。蝦夷へ渡って蝦夷共和国を築き、新政府軍側の拠点である五稜郭と松前城を攻略。迫りくる新政府軍を迎え討つ体制を整えました。そして戦局は、戊辰戦争の最終決戦となる五稜郭の戦いへと動きます。

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戊辰戦争最後の舞台となった港町の城塞

五稜郭、稜堡式城郭、西洋城郭
五稜郭は西洋城郭の技術を取り入れた稜堡式城郭だ(函館市教育委員会生涯学習課提供)

京都で緒戦の火蓋が切られた戊辰戦争は、江戸での江戸城無血開城、東北での奥羽越列藩同盟崩壊と、旧幕府側に不利な状況で展開しました。江戸幕府を支持する佐幕派の会津藩も降伏し、なにより幕府のトップである15代将軍・徳川慶喜が恭順したのだから、明治新政府側は勝利したといえるはずですよね。

しかしまだ、完全に勝利してはいませんでした。なぜなら、幕府を再建しようと抗い続ける旧幕臣たちが存在したからです。海軍副総裁・榎本武揚や新選組副長・土方歳三を中心とする旧幕臣たちは、榎本武揚が艦長を務める幕府軍艦・開陽丸が率いる艦隊で蝦夷まで渡り、独自の政府組織である蝦夷共和国を樹立。あくまで明治新政府は認めない意志を態度で示しました。

五稜郭、土方歳三像、榎本武揚像、蝦夷
 五稜郭タワー内に立つ土方歳三像(左)と榎本武揚像(右)。五稜郭を奪った彼らは新政府に対抗するため、蝦夷地の支配を進めていく

このとき、蝦夷共和国の本拠地となった城が五稜郭です。ただし、五稜郭は城といっても蝦夷の幕府政庁である箱館奉行所の防衛施設という性格が強く、軍事拠点というよりはオフィスのセキュリティがメインの役割でした。もともとは日本とアメリカの間で結ばれた日米和親条約で箱館が開港されたとき、外国船から奉行所と箱館の町を守るためにつくられた城なのです。幕末まで「箱館」と書かれていたこの町が、現在の北海道函館市です。

箱館奉行所は大政奉還後に新政府の箱館府となり、蝦夷共和国軍がこれを攻め取りました。結果的には、五稜郭が戊辰戦争最後の戦いの舞台となります。

五稜郭、奉行所、復元
奉行所は明治のはじめに解体されたが、2010年に資料をもとに復元された

実は時代遅れだった美しい星形城郭

五稜郭最大の特徴は、「稜堡(りょうほ)式城郭」と呼ばれるいわゆる星形の構造でしょう。五角形をベースにそれぞれの角からさらに張り出した部分を持つ幾何学模様は、日本の城ではとても珍しいです。それもそのはず、これは近世ヨーロッパで成立した築城様式。設計した武田斐三郎(たけだあやさぶろう)は箱館の学問所・諸術調所で教授を務めた蘭学者で、海外文化に通じていました。そこで、フランスやドイツの城塞都市を参考に五稜郭をデザインしたのです。

稜堡式城郭は城内に死角ができにくく、星形の張り出し部分から一斉射撃をすると十字砲火ができるという強みがあります。しかし実は、大型兵器への対策が重視されていないため、大砲の性能が向上した19世紀ごろのヨーロッパでは時代遅れの様式となっていました。

戊辰戦争当時の五稜郭には、新政府側の箱館府知事・清水谷公考(しみずだにきんなる)が入っていました。そこへ、箱館北側の鷲ノ木から上陸した榎本艦隊の旧幕臣たちが迫ります。このとき南下ルートを取った陸軍歩兵奉行・大鳥圭介が峠下で新政府軍に攻撃されたことから、戊辰戦争の最終局面である箱館戦争が勃発。大鳥圭介は七重と大野で、さらに東回りルートを取った土方歳三が川汲峠でそれぞれ新政府軍を撃破すると、清水谷公考は五稜郭を放棄して本州へ脱出したため、旧幕臣たちは戦わずに五稜郭を手に入れました。

こののち旧幕臣たちは西側の松前城も落として箱館を制圧し、蝦夷共和国を打ち立てます。トップである総裁には、選挙によって榎本武揚が就任しました。

武士の無念を飲み込んで生まれた近代日本

こうして箱館に地盤を築いた蝦夷共和国ですが、その先には厳しい現実が待っていました。不運にも嵐によって開陽丸が座礁し、沈没してしまったのです。そこで蝦夷共和国軍は、新政府軍の装甲軍艦・甲鉄を奪おうと宮古湾海戦に臨みます。しかし目的を果たせないまま敗れてしまい、ついに新政府軍が蝦夷に上陸しました。

五稜郭、主力艦、回天
 甲鉄に攻撃する旧幕府軍の主力艦・回天(『囘天艦長甲賀源吾伝』より)

蝦夷共和国軍は五稜郭へ通じる矢不来(やふらい)や二股口で新政府軍を食い止めようとしましたが、奮戦むなしく戦線を押しこまれ、新政府軍による五稜郭への集中攻撃が開始されます。この五稜郭の戦いで城に多大な被害を与えたのが、甲鉄や春日などの軍艦が放った砲弾でした。もともと五稜郭は軍艦の砲撃が届かない場所を選んで建てられましたが、時代の進展とともに射程距離も伸びていたため、砲撃に弱い五稜郭は深刻なダメージを受けてしまったのです。

この絶望的な状況下で果敢に打って出たのが土方歳三でした。土方歳三は敵中に孤立した弁天台場を救うため、五稜郭の防衛線である一本木関門付近まで進出します。しかしここで腹部に銃弾を受け、非業の最期を遂げました。実は土方歳三が亡くなった場所も、遺体がどうなったのかも正確なことはわかっていません。一説では、土方歳三の部下が五稜郭の敷地内に埋葬したと伝わります。

五稜郭、碑、土方歳三終焉の地
土方歳三が銃弾に倒れた一本木関門付近には「土方歳三終焉の地」碑が立っている

土方歳三の討死から一週間後、榎本武揚は降伏を決めました。降伏にあたって敗戦の責任を取るために切腹しようとしましたが、旧幕臣の大塚霍之丞(おおつかかくのじょう)が榎本武揚の刀の刃を握って指を負傷しながら止めたため、かろうじて思いとどまったといいます。

こうして京都で始まった戊辰戦争は、遠く蝦夷の地で新政府軍の勝利に終わり、明治維新が果たされました。幕府への忠誠を貫いた武士たちの無念が、近代日本国家成立の礎となったのです。

10回にわたって戊辰戦争の舞台となった城と、そこで行われた戦いを紹介してきた「維新の舞台と城」も今回で最終回。しかし、戊辰戦争の終結で日本が明治政府のもとに一つになったわけではありませんでした。急速な近代化を進める政府に対し、近代化政策で特権を奪われた士族が反乱を起こすようになるのです。そこで来月は特別編として、士族最後の反乱・西南戦争の舞台となった熊本城と鹿児島城の2城をご紹介します。

「維新の舞台と城」その他の記事はこちら(https://shirobito.jp/article/rensai/13)

五稜郭(ごりょうかく/北海道函館市)
五稜郭は日米和親条約の箱館開港によって再設置された箱館奉行所の移転先として築かれた稜堡式城郭。戊辰戦争最後の戦い・箱館戦争の舞台となった。戊辰戦争終結後、ほとんどの建物が解体され陸軍の練兵場となったが、大正時代に当時の区長の請願により公園として市民に開放されることになった。2010年に奉行所の建物が復元されている。

執筆・写真/かみゆ
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