明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 明治維新150周年企画「維新の舞台と城」第6回 |【宇都宮城】若き城主vs旧幕府軍 意地と誇りの激突

明治維新150周年を記念して、維新と関連の深いお城を紹介します。今回は攻守が目まぐるしく入れ替わった宇都宮城の戦い。旧幕府軍と敵対した若き宇都宮城主の真意とは?

宇都宮城、遺構、本丸、櫓、外観復元
戊辰戦争の戦火により宇都宮城の遺構はほとんど残っていない。平成に入り、本丸の櫓などが外観復元されている

江戸が旧幕府軍と新政府軍の戦場になることを避けるため、旧幕臣の勝海舟と新政府軍参謀の西郷隆盛が会談。両者の合意で幕府の本拠地・江戸城(東京都)を明け渡す代わりに新政府軍の総攻撃中止が約束されました。しかし江戸城の無血開城が決定されてもなお幕府の復権を信じる旧幕臣たちは、徳川家の聖地・日光に集合して再決起しようと江戸を脱出。その道中に建つ宇都宮城(栃木県)の城主・戸田忠恕(ただゆき)は新政府軍につき、旧幕府軍との激しい戦いに臨みます。

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高台と川を利用した天然の堅城

平坦な土地に築かれた平城は、険しい山中に築かれた山城より防御力が低いのが一般的ですよね。しかし、天然の地形を利用して平城ながらに難攻不落と呼ばれた城もあることをご存じでしょうか。

その一つが宇都宮城です。縄張は平地にありますが、北に二荒山(ふたあらやま)神社をいただく高台、東に田川という川があって攻城の経路が限られるため、攻めるに難く守るに易い城でした。この地形が好まれて、平安時代にはすでに宇都宮城の原型が築かれていたといわれます。

江戸時代には幕府の重臣・本多正純が大改修を行い、大規模な外堀や土塁がつくられました。そして幕末には宇都宮城の戦いの舞台となりますが、このときの城主・戸田忠恕は紆余曲折の末に新政府側についており、ひとかたならぬ思いで合戦に臨んでいたのです。

二荒山神社、宇都宮城
 城の北に建つ二荒山神社。宇都宮城での戦いでは旧幕府軍に占拠され、本殿などの建物が被害を受けた

無念をはね返した若き宇都宮城主・戸田忠恕

忠恕は兄で宇都宮藩5代藩主の忠明が急死したため、10歳で6代藩主にして宇都宮城主になりました。ところが18歳の若さで幕府から藩主を解任され、隠居を命じられたのです。その理由は、「幕府に命じられた天狗党の鎮圧をきちんと行わなかった」というもの。天狗党とは、水戸潘の尊王攘夷派グループです。外国勢力を武力で打ち払うべきという攘夷思想を強く持っており、幕府の弱腰外交に不満をつのらせて倒幕のために決起しました。

幕府にこの鎮圧を命じられた忠恕はいわれたとおりに藩兵を送り出したのですが、藩兵はあまり積極的に戦わなかったうえ、幕府が派遣した総指揮官の許可をもらわないで帰国してしまいます。これでは、とがめられてもしかたないかもしれません。

しかし、これらの行動には理由があったのです。当時は攘夷思想がとても盛り上がっていたため、天狗党に参加している宇都宮藩士もいました。家族や友人がいるグループを攻撃するのは、やはりためらってしまいますよね。それに帰国したのは逃げたからではなく、陣容を再編成するためでした。確かに許される行動ではありませんが、温情をかける余地はあったはず。それなのにいきなり藩主解任は重すぎないかと、無念を抱きながら忠恕は隠居生活に入り、次の藩主には分家筋の忠友が就任しました。

それから4年後、22歳の忠恕は明治新政府軍に宇都宮城主への復帰を打診されます。このとき藩主・忠友は、鳥羽・伏見の戦いに敗れた江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の助命を願うために京都へ向かっていて不在でした。しかし事態は江戸城無血開城へと動いており、幕府を支持する会津藩が近い宇都宮藩は、江戸を脱出した旧幕府軍の進軍路になる可能性が高かったのです。

幕府の情け容赦ない仕打ちに絶望していた忠恕は、新政府軍に味方することを決意し、兵を率いて宇都宮城に戻りました。

攻守が入れ替わる激しい攻城戦

一方の旧幕府軍は、新政府軍の予想どおりに宇都宮藩へと進軍してきました。宇都宮の先にある日光は、江戸幕府初代将軍・徳川家康を祀った日光東照宮が建つ徳川家の聖地。江戸城が敵に明け渡されるからにはここに集結し、再び幕府復権の兵を挙げようと考えていたのです。

宇都宮城に迫る旧幕府軍のリーダーは、旧幕臣の大鳥圭介。サブリーダーは新選組副長の土方歳三でした。ふたりの部隊は別行動で進み、先に到着した歳三が攻撃を開始。旧幕府軍を支持する会津藩を警戒して北の守りを厚くしている隙を突き、守りの薄い南東から攻めこんで堅城といわれた宇都宮城を1日で落としました。翌日に圭介が到着すると旧幕府軍が宇都宮城に入城し、攻守が逆転します。

忠恕は敗色が濃厚になったときに決死の総攻撃をしかけようとしましたが、重臣たちに「新政府軍の援軍がくれば城は取り戻せる」と説得され、断腸の思いで宇都宮城から脱出していました。そして5日後、合流した新政府軍と今後を話し合います。新政府軍も連戦を重ねて疲労していましたが、薩摩藩士の大山巌たちが忠恕の胸中を思って「一日も早く宇都宮城を取り戻すべきだ」と声を上げたため、宇都宮城の奪回戦はすぐに開始されました。

新政府軍の攻撃はすさまじく、軍備で劣る旧幕府軍は次々と銃撃に倒れます。恐怖におののく兵士たちを「退くものは斬って捨てる」と叱咤していた歳三も足に銃弾を受け、身動きが取れなくなりました。こうして早朝にはじまった奪回戦は昼すぎには新政府軍の勝利で決着し、宇都宮城は忠恕のもとに戻ってきたのです。

激戦の舞台となった宇都宮城はこのときにほぼ焼失し、堀なども埋められてしまったため、遺構はほとんど残っていません。しかし近年になって復元が進み、宇都宮城址公園に櫓や土塁が再現されています。

宇都宮城、六道辻、慰霊碑
宇都宮の戦いで激戦地となった六道辻。宇都宮城の周辺には、この戦いの戦没者を弔う慰霊碑が建てられている

宇都宮城(うつのみや・じょう/栃木県宇都宮市)
宇都宮城の前身は藤原宗円が平安時代に二荒山の南に居館を構えたことがはじまりといわれている。戦国時代は宇都宮氏が居城としていたが豊臣秀吉によって改易されてしまう。江戸時代初期に徳川家康の信頼厚い本多正純が宇都宮藩主となるが、宇都宮城釣天井事件により改易。その後も藩主が幾度も入れ替わるが、江戸時代後期に戸田氏が入り幕末まで存続する。

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執筆・写真/かみゆ
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。

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