明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 明治維新150周年企画「維新の舞台と城」第9回|【会津若松城】城内への侵入を許さなかった会津魂

明治維新150周年を記念して、維新と関連の深いお城を紹介します。今回の舞台は、東北最後の戦いとなった会津若松城の戦い。新政府の大軍に囲まれた会津若松城の運命は…?
alt
 会津若松城天守。新政府軍が会津城下に攻め寄せた際は、この城に約1万人が籠城したという

江戸城無血開城が果たされると、旧幕府軍勢力の完全排除を狙う明治新政府軍は、幕府を支持する佐幕派の会津藩を次の標的に定めます。そこで東北諸藩に会津藩を攻撃するよう命じますが、会津藩と敵対するいわれのない東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して反発。戦いの舞台は関東から東北に移りました。新政府軍は東北の入り口である白河小峰城(福島県)、会津への経路となる二本松城(福島県)を落とし、いよいよ会津藩主・松平容保が守る会津若松城(福島県)に進軍します。

▼明治維新関連のお城MAP
alt

▼明治維新の年表もチェック
alt

古くから要所とされてきた会津の地

明治維新後の大きな変化のひとつに、江戸から改称された東京が日本の首都とされたことがあげられます。もちろん江戸は江戸時代も日本の中心地でしたが、当時は天皇が住む京都も同じくらい影響力がありました。さらに戦国時代以前となると日本の中心地は近畿地方で、関東地方は田舎扱いです。そんな関東よりも遠い東北地方は、近畿の人々にとってはもはや外国。東北の勢力が範囲を広げないよう監視することは、重要政策の一つでした。

このため、東北と関東の境界に位置する会津地方は古くから監視の拠点となっていたのです。会津若松城の原型である館が建てられたのは鎌倉時代初期。戦国時代に入ると天下人・豊臣秀吉が蒲生氏郷と上杉景勝を送りこみ、東北勢力の抑えとしました。氏郷も景勝も秀吉の信任厚い有力大名ですから、会津の重要性がよくわかりますね。

alt
 会津松平家の祖・保科正之(東京大学史料編纂所所蔵・模写)。彼の遺訓が会津藩の運命を決定づけた

江戸時代には、江戸幕府3代将軍・徳川家光の異母弟である保科正之が会津藩主に就きます。江戸時代も、会津を任されたのは将軍に信頼された人物だったのです。のちに保科家は徳川家の源流である松平姓を許され、幕末まで会津松平家が会津藩主を務めました。

正之は会津藩について、「将軍家を守るべき存在である」という家訓を残しており、幕末に藩主となった松平容保はこの教えのとおりに幕府を支えました。しかしこの純粋な忠義心が、戊辰戦争で容保と会津藩を苦しい立場へと追いやるのです。

報恩の思いを抱いて母成峠に立った斎藤一

江戸城無血開城が果たされ、江戸幕府の本拠地・江戸を手に入れた明治新政府軍は、旧幕府軍勢力を一掃するため、次に会津藩を狙います。会津藩は幕末の動乱中にあって幕府を支持する佐幕を貫き、15代将軍・徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いに敗れて敵前逃亡したときには、藩主の容保が同行していました。しかし江戸に逃れた慶喜が新政府軍に従う意志を示したため、容保も会津藩に帰って嫡男に藩主の座を譲り、新政府軍に和平を願い出ます。ところが、旧幕府勢力を徹底的に排除したい新政府軍は容保の願いを受け入れず、東北に兵を進めました。

土佐藩の板垣退助らが率いる新政府軍は、会津藩に味方すると表明していた二本松藩を落とします。二本松藩は会津藩のすぐ隣なので、新政府軍はいよいよ会津藩の目前まで迫りました。このとき新政府軍を迎え撃つため、進軍路となる母成峠(ぼなりとうげ)に出撃したのが新選組の斎藤一(さいとうはじめ)です。佐幕組織として誕生した新選組は会津藩の預かりで続いてきたため、一は今こそ恩に報いようと考えたのです。

alt
母成峠の戦場跡には、戦没者の慰霊碑や戦いの際に築かれた土塁などが残されている

しかし、新選組随一の剣豪といわれた一も最新兵器の応酬にはかないませんでした。峠に置かれた会津藩の大砲5門に対し、新政府軍の大砲は20門。激しい砲撃に会津軍は総崩れとなり、一も敗走します。銃が乱射される中を命からがら逃げ、なんとか会津若松城までたどり着いたのでした。

会津藩の惨敗を目の当たりにした新選組副長・土方歳三と旧幕臣の大鳥圭介は、会津藩に協力している仙台藩や米沢藩に援軍を頼むため、会津藩をあとにします。しかし一は、「会津藩の窮地を見捨てるなどできない」と反論して会津藩に残りました。こうして京都からともに戦ってきた一と歳三は袂を分かったのです。こののち一は会津藩士となり、残りの生涯を会津の人として送りました。

城内侵入を食い止めた幕末のジャンヌ・ダルク

母成峠の戦いがわずか1日で会津軍の敗戦に終わると、2日後には会津若松城下に新政府軍がなだれ込みました。容保は籠城して戦い抜くことを決め、本丸の正門にあたる鉄門(くろがねもん)から軍の指揮を執ります。

alt
鉄門は扉や柱が鉄板で覆われており、新政府軍の砲撃にも耐えられるため、容保の指揮所となった

このとき敵の城内侵入を阻んだのが、北出丸と西出丸の間に配置された鉄砲隊。率いたのは川崎八重、のちの新島八重となる女性です。2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロインとして記憶している方も多いのではないでしょうか。

八重は会津藩の砲術師範である山本家に生まれ、鉄砲の扱いが得意でした。会津藩士の川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)と結婚し、ともに会津若松城籠城戦に参戦しましたが、戦後の混乱で生き別れてしまいます。その後に出会った同志社大学の創始者・新島襄(にいじまじょう)と結婚し、新島姓になるという波乱の生涯を送りました。

alt
会津若松城内に立つ新島八重の銅像

八重の鉄砲隊は、退助と並ぶ土佐藩のリーダー格・小笠原唯八を撃ち抜いたといわれます。このとき唯八の陣は鉄砲隊から700mほど離れていたと考えられますが、会津藩の標準装備であるゲベール銃の射程圏内からははずれます。八重が装備していた7連発スペンサー銃なら射程圏内に入るので、敵の大物を倒したのは八重だったかもしれません。

このように勇敢な「幕末のジャンヌ・ダルク」たちが協力して城内で戦い続けましたが、米沢藩と仙台藩が新政府軍に降伏すると、会津若松城は孤立無援になります。そこへ新政府軍の大砲が次々と撃ちこまれ、兵士だけでなく城内に避難した庶民までもが亡くなる惨状となったため、容保はついに抗戦をあきらめ会津若松城を明け渡しました。

alt
新政府軍に降伏した容保を描いた錦絵。容保は前原一誠らの取りなしにより死罪を赦され、東京へと護送された(会津新撰組記念館所蔵)

開城のときの会津若松城は天守が崩壊寸前でしたが、最後まで新政府軍の城内侵入を許しませんでした。会津藩はどんなに追い詰められても兵と民が一丸となり、佐幕を貫いたのです。これこそまさに会津魂といえるでしょう。

alt
 新政府軍の砲撃により損傷した会津若松城天守。その後、天守は明治6年(1873)に発布された廃城令により取り壊された(会津若松市提供)


会津若松城(あいづわかまつ・じょう/福島県会津若松市)
会津若松城は蘆名氏の居館・黒川城を前身とする城。奥州仕置きにより会津に入った蒲生氏郷により七重の天守が建てられるが、蒲生家はお家騒動により改易となると城主が度々変わる。戊辰戦争後に取り壊された天守は1965年に外観復元され、2011年には往時と同じ赤瓦に葺き替えられた。

執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

関連書籍・商品など