明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 明治維新150周年企画「維新の舞台と城」第7回|【長岡城】大軍を翻弄した「越後の蒼龍」の策略と気概

明治維新150周年を記念して、維新と関連の深いお城を紹介します。今回は北越戦争の舞台となった長岡城。戦争に藩を巻き込みたくない重臣が打ち出した中立宣言は叶えられるのか!?

鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸に逃げ帰った15代将軍・徳川慶喜を追ってきた明治新政府軍。あわや江戸が戦場になるかと思われましたが、旧幕臣の勝海舟と新政府軍参謀の西郷隆盛によって江戸城無血開城が決定され、ギリギリのところで危機を回避します。これと並行して、新政府軍は諸藩を従わせるための鎮撫使(ちんぶし)を各地に派遣しました。旧幕府か、新政府か。日本中がどちらにつくか揺れる中、越後の長岡藩は独自の中立路線を貫こうとします。

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長岡での戦いを戦国時代の川中島の戦いに仮託して描いた、『越後国信濃川武田上杉大合戦之図』

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駅チカ? いいえ、駅そのものが城!

お城の見学に行くときは、どんな服装で行きますか? 履き慣れた靴に長袖長ズボン、それに帽子も…という「城攻めファッション」は、山城に向かうためのもの。普段着で気軽に行ける、駅を降りたらすぐ目の前の駅チカ城ももちろんあります。

特に合戦が法で禁じられた江戸時代以降は、軍事拠点の山城よりも、政庁や住居として使われる平城がメインになり、交通に便利な平野部に城が築かれるようになりました。この区割りは現代にも多く引き継がれているため、交通の要である駅の近くに城が建っているわけです。

さらには、駅そのものが本丸という城もいくつかあります。その中でも越後の長岡城(新潟県)は、江戸時代に築かれた城、。でも、本丸が駅なら、肝心の本丸の建物はどうなっているのか気になりますよね。残念ながら長岡城は本丸だけでなくほとんどの建物が焼失してしまっていて、長岡駅はその城跡に建っています。そして長岡城が燃え落ちた原因こそ、幕末の戊辰戦争における北越戦争での戦火なのです。

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 北越戦争でほぼ全焼してしまった長岡城は、現在は城址碑にその名残を留めるのみだ

新政府軍に却下された、河井継之助の中立構想

長岡城は江戸時代に長岡藩主となった牧野家が完成させた城で、幕末を迎えたのは12代藩主・忠訓(ただくに)の時。北越戦争の戦場となったいきさつには、長岡藩の政治を取り仕切る家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)が打ちだした独自の立ち位置が関わっています。

幕末最大の内乱・戊辰戦争は、旧体制側の旧幕府軍と新体制側の明治新政府軍の戦い。このため諸藩は旧幕府を支持する佐幕派か、新政府を支持する倒幕派かの選択を迫られました。しかし長岡藩は継之助の方針で、どちらとも敵対しない中立を表明していたのです。

「越後の蒼龍」と呼ばれた継之助は少年のころから聡明で、中でも財政に明るく、江戸で価格が下がった米を買いつけて米不足の箱館で高く売るなどして藩を潤わせました。こうして得た資金は軍の強化にあてており、当時の日本に3門しかなかった海外の機関砲・ガトリング砲を2門確保していたといわれます。

なぜ、継之助は長岡藩を強くしようとしたのでしょうか。一見すると合戦に勝つためと思えますが、そうではなく、実は合戦をしないためだったのです。どこからも手出しできないほど強くなれば、どの陣営とも戦わずにすむので中立を保てる、というわけです。

しかし、新政府軍は継之助の主張を却下しました。戊辰戦争の緒戦となる鳥羽・伏見の戦いに勝利して勢いを得ていた新政府軍は、諸藩を従わせるための鎮撫使(ちんぶし)を各地に送りだしており、倒幕に協力しない藩は敵とみなしたのです。新政府軍の兵士か金銭を提供するよう求めても長岡藩が無視すると、土佐藩の岩村精一郎をリーダーとする鎮圧部隊が長岡へ進軍してきました。

そこで継之助は長岡城南方の小千谷にある慈眼寺に出向き、精一郎に兵を引くよう嘆願しましたが、精一郎はこれを拒否。会談はわずか30分ほどで決裂したといいます。継之助はしかたなく、仙台藩が盟主の佐幕同盟・奥羽越列藩同盟に参加し、新政府軍との北越戦争に身を投じます。

不屈の奪還もむなしく二度目の落城で力尽きる

長岡城は西に信濃川、東に信濃川から別れた赤川、北に八丁沖という沼地があり、天然の堀に守られていました。しかし南だけは守りが薄く、守るときには南方の榎峠と朝日山を抑える必要があります。継之助は先手を打ってこの要地を奪い、戦局を有利にしました。

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江戸時代に作成された『諸国城郭絵図 越後国古志郡之内長岡城之図』(国立公文書館提供)。長岡城は何本もの川に囲まれた要害の地であることがわかる

出鼻をくじかれた新政府軍は信濃川に濃霧が生じたことを幸いに、継之助が不在のすきを突いて長岡城に奇襲をしかけます。霧の中から敵が突然出てきたら、だれでも驚いてしまいますよね。城兵は慌てふためき、忠訓たちは城に火を放って逃げるのが精一杯でした。継之助はガトリング砲をともなって城に駆けつけましたが時すでに遅く、長岡城は落城、新政府軍に奪われてしまいます。

しかし継之助はあきらめません。城の北にある加茂の地まで逃れると、加茂と長岡城の中間ほどにある今町が新政府軍の補給基地になっていることに目をつけます。そして、軍を3隊に分けて時間差で攻撃する陽動作戦を使って見事に今町を手に入れます。

このころには長岡軍と列藩同盟軍8千に対し、新政府軍は2万を動員していたにもかかわらず、戦乱は長引き、開戦から約3か月が過ぎていました。そこで援軍の準備をはじめたのが新政府軍参謀の西郷隆盛です。隆盛の名将ぶりは継之助も聞き及んでいたため、その到着前に長岡城を取り戻そうと策を練ります。

こうして決行されたのが、八丁沖を歩いて渡って奇襲するという常識破りの作戦です。まさか天然の堀から敵が現れるなどとは夢にも思っていなかった新政府軍は、完全に不意を突かれました。しかも、長岡軍の「城を取り戻す」という気迫は最高潮。ついに長岡城は奪還されたのです。

ところがこの戦闘のさなか、継之助は左足に銃弾を受けてしまい戦線を離脱。直後に新政府軍の反撃がはじまって長岡城は再び落城し、忠訓は降伏を決めます。継之助は銃創が悪化し、それから1か月も経たずに世を去りました。

この再落城のときに長岡城は弾薬庫への引火で大炎上し、城のほとんどが焼失しました。現在では長岡駅前にある本丸跡の石碑などでしか存在を確認できませんが、3代藩主・忠辰(ただとき)による植樹がはじまりとされる悠久山公園には、長岡城の御三階櫓を模した郷土資料館が建っています。

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長岡市郷土資料館では、継之助の他、長岡の歴史に貢献した人々の足跡をたどることができる


長岡城(ながおか・じょう/新潟県長岡市)
長岡城は、大坂の陣後に入封した堀直寄によって築かれた城。直寄が越後の村上に転封になると、代わりに牧野忠成が入城。以降は牧野氏の居城として幕末まで存続する。戊辰戦争後、焼失した城の跡地は遊覧地と呼ばれる公園となり、明治31年(1898)には長岡駅が開業した。

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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