明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 明治維新150周年企画「維新の舞台と城」第5回 |【江戸城】無血開城の思いが回避させた江戸最大の危機

明治維新150周年を記念して、維新と関連の深いお城を紹介します。今回は江戸幕府の本拠地・江戸城が舞台。大都市江戸での戦闘回避に動いた人物とは!?

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江戸時代から残る富士見櫓。火災で天守が失われた後、天守の代用とされた

鳥羽・伏見の戦いで敗れた15代将軍・徳川慶喜が江戸に逃走すると、戊辰戦争の舞台は近畿から関東に移ります。慶喜はこれ以上、明治新政府軍に逆らわないつもりだったのですが、旧幕臣の中には幕府の復権をかけて立ち上がる者もいました。その代表格である新選組は、江戸防衛の要となる甲府城(山梨県)を守るために出陣。ところが甲州勝沼の戦いで、板垣退助率いる迅衝隊(じんしょうたい)に敗れてしまいました。こうして江戸に近い甲府城を押さえた新政府軍は、いよいよ旧幕府の本拠地・江戸城(東京都)に迫ってきたのです。

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今も昔も日本の中心に存在し続ける江戸城

丸の内といえば、現在の皇居から東京駅までの地域を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。しかし実は、この丸の内という地名は山形県米沢市や岡山県岡山市など全国で見られます。なぜなら丸の内という地名は多くの場合、かつて城の内側だったことにちなんでいるためです。城好きにはおなじみですが、城の区画は「本丸」、「二の丸」のように「丸」と呼ぶので「丸の内」になるのですね。

それでは皇居周辺はどの城の丸の内だったのでしょうか。そう、言わずと知れた江戸幕府の本拠地・江戸城です。江戸時代から現代までずっと日本の政治経済の中心地なのですから、「最も有名な丸の内」なのも納得ですよね。しかし、もともとの江戸城は地味な城でした。戦国時代のはじめごろは、関東を支配した北条家のたくさんある支城群の一つにすぎなかったのです。

江戸城を名城に育てたのは、北条家を降伏させた豊臣秀吉に命じられて新たな関東の領主となった徳川家康です。家康は江戸城のすぐ南に広がる東京湾の日比谷入り江を埋め立てて城を拡張し、曲輪や堀を増やしました。そして江戸幕府初代将軍に就任して天下人になると、江戸城を政治の中心地にしたのです。3代将軍・家光のころには江戸城での体制が盤石になり、幕末まで「将軍の城」であり続けました。

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 江戸幕府初代将軍の徳川家康(東京史料編纂所所蔵・模写)。江戸城は彼の手で日本一の城へと改修された

海舟が穏やかな幕引きを望んだ理由

ところが、江戸幕府最後の将軍である15代将軍・慶喜は、「将軍として」江戸城に入ったことがありません。14代将軍・家茂の急死で将軍を引き継いだときには、第一次長州攻めの交渉で京都にいました。その後も近畿を離れられず、江戸に帰ったのは王政復古の大号令で幕府が廃止されたあとだったのです。

慶喜が帰還した理由は、幕府廃止に抵抗するため明治新政府に対して起こした鳥羽・伏見の戦いに敗れ、戦意を失ったから。江戸に戻ると上野の寛永寺で謹慎して、もう新政府には逆らわないと態度で示しました。

しかし新政府は東征大総督府という部署をつくり、皇族の有栖川宮熾仁(ありすがわたるひと)親王を大総督にいただき、朝廷の正式な軍として慶喜を追ってきました。そこで慶喜は、旧幕臣の勝海舟に交渉を任せます。

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 江戸城開城の交渉にあたった勝海舟。写真は晩年に撮影されたもの

合戦で敗れた以上、慶喜は処刑されてもおかしくない状況です。ならばいっそ徹底的に戦おうと主張する旧幕臣も多くいましたが、海舟はあくまで穏やかな和平を考えていました。もしも旧幕府と新政府の全面戦争が起きれば、日本を我がものにしたい外国勢力が飛びついてくるでしょう。特に旧幕府はフランス、新政府の中心である薩摩藩はイギリスと協力していたので、旧幕府対新政府の戦いがフランス対イギリスの代理戦争になりかねません。海舟はそんな事態を避けたかったのです。

そしてなにより、江戸を戦場にしたくないという強い思いがありました。二大勢力の総力戦になれば、江戸が焦土と化すのは間違いないのです。海舟はこの思いを聞き届けてくれる人物に心当たりがありました。大総督府の参謀に就任していた薩摩藩士の西郷隆盛です。


敵味方を超えた「人々を守りたい」という思い

海舟と隆盛の出会いは江戸の危機から4年前、第一次長州攻めのとき。この当時の薩摩藩はまだ幕府側でしたが、幕府がいつまでも長州への攻撃を開始しないので、動向を探ろうと思った隆盛が海舟を訪ねたのです。

このとき海舟は隆盛に幕府の政治がもう機能しなくなっていることと、だれでも参加できる共和政治の必要性を説明しました。海舟は幕臣なのに、外部の人に幕府の批判をしてみせたのですから、驚いてしまいますよね。もちろん隆盛も驚きましたが、海舟にはしっかりと自分の考えを貫く肝の太さがあるのだと感心しました。一方の海舟は、まったく新しい政治構想に純粋な興味を示す隆盛に器の大きさを感じます。二人はお互いに、初対面から相手に一目置いていたのです。

話を戻しましょう。海舟は新政府との会談を望む隆盛への手紙を幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)に託しました。3月9日に山岡は隆盛と面会するのですが、すでに新政府軍では3月15日に江戸城を総攻撃すると決定していました。山岡は隆盛に海舟との会談をとりつけ、隆盛は13日に急いで江戸の薩摩藩邸に入り、14日に海舟と隆盛の会談が持たれます。この席で「江戸城を明け渡せば総攻撃はしない」という条件にお互いが同意し、江戸の危機はギリギリで回避されました。江戸の町と江戸の人々の命を守りたいという海舟の願いに、隆盛が共感した結果です。

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海舟と隆盛が会談を行った薩摩藩蔵屋敷跡に立つ記念碑

こののち隆盛が熾仁親王の許可をもらい、4月21日に江戸城は無血開城されました。慶喜も処刑を免れ、だれひとり犠牲にならない穏やかな和平が実現したのです。

江戸城は明治維新後に東京が都と定められると皇族の住居になり、1948年に皇居と改称。現在では本丸・二の丸・三の丸の一部が皇居東御苑として一般開放されており、東京観光の人気スポットになっています。

江戸城(えど・じょう/東京都千代田区)
江戸城ははじめ、太田道灌によって築かれた。北条家滅亡後、関東に移封された徳川家康によって近世城郭へ改修され、徳川家が江戸幕府将軍となると政治の中心地となった。明治政府に明け渡された後は、天皇住まいである宮城(現在の皇居)となる。

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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