2018/07/31
明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 第8回 【白河小峰城・二本松城】打ち砕かれた東北の団結力
明治維新150周年を記念して、維新と関連の深いお城を紹介します。今回は、戊辰戦争の勝敗を決定づけた東北の激戦・白河小峰城と二本松城。奥羽の諸藩はなぜ新政府軍に抵抗する道を選んだのでしょうか?
戊辰戦争で焼失した白河小峰城の御三階櫓は、1991年に復元されている
江戸城無血開城が決定し、江戸は明治新政府軍のものとなりました。しかし、幕府復権を信じる旧幕臣たちは江戸を脱出し、宇都宮城(栃木県)などで激しい戦闘を繰り広げます。この頃、幕府を支持する会津藩は朝廷の敵とされてしまい、奥州諸藩に会津を攻撃する命令が下されました。会津藩主・松平容保(かたもり)は新政府軍に降伏を願い出ましたが、却下されてしまいます。この事態に怒りを感じた奥州の藩主たちは協力して、新政府軍に対抗する奥羽越列藩同盟を結成したのです。
▼明治維新関連のお城MAP
▼明治維新の年表もチェック
新政府軍の「無茶ぶり」に反発して結成された奥羽越列藩同盟
今まで特に問題もなく暮らしてきたご近所さんのことを、いきなり「攻撃しろ」なんて命令されたら、従えるでしょうか。命令してきた相手がどんなに権力を持っていても、理不尽で納得できないですよね。しかし、戦争のさなかではこれに似た事態がしばしば起こります。
戊辰戦争で明治新政府軍が奥州諸藩に命じた、会津藩への攻撃もこれに当てはまります。会津藩はもともと幕府を支持する佐幕派。鳥羽・伏見の戦いで敗れた江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が江戸に逃走したとき、会津藩主・松平容保が同行していました。このため倒幕を目指す新政府軍は、会津藩をこらしめる必要があると考えます。そこでバックについている朝廷の力を借りて、会津藩を絶対的な悪である朝敵と決めつけて、会津藩周辺の奥州諸藩に攻撃を命じたのです。
しかし、この時の徳川慶喜は謹慎して新政府軍の指示を待っている状況です。松平容保も新政府軍に逆らう気はなかったので降伏を申し出ましたが、その願いは聞き入れられませんでした。
これに対して、会津藩に恨みなどない奥州の藩主たちは大反発。むしろ新政府軍の中心である長州藩が、かつて京都の政権を争った会津藩に恨みを晴らしたいのだろうと批判しました。他人の私的な恨みを晴らすために、自分が手駒にされるなんてだれでもいやですよね。
こうして、新政府軍の「無茶ぶり」をしりぞけるために結成された同盟が奥羽越列藩同盟です。もっとも有力な仙台藩が盟主となり、東北の25藩が参加する奥羽列藩同盟としてスタート。のちに長岡藩など越後の6藩が加わって奥羽越列藩同盟に発展しました。
戊辰戦争の戦火は関東から東北へと移り、ここでも多くの城が戦場となります。
東北の戦局を決定づけた白河口の戦い
東北の戊辰戦争の緒戦・白河口の戦いでは、白河小峰城(福島県)が合戦の舞台となりました。奥州と関東の境界に建つこの城は、関東から進軍した新政府軍が東北へと攻めのぼるため、まっさきに確保する必要があったのです。
戊辰戦争当時、白河小峰城は城主が不在でした。城主だった阿部正外(あべまさと)は、海外の求めに応じて独断で神戸を開港したことをとがめられて解任されており、すぐ北にある二本松藩が城を預かっていたのです。そこへ進軍してきた新政府軍は、二本松藩や仙台藩に白河小峰城へ兵を派遣するよう命じました。その目的は城を守らせるためではなく、ここから会津へ攻めこませるためです。
開戦時はまだ列藩同盟成立前でしたが、すでに同盟結成に向けた動きははじまっていました。このためのちに盟主となる仙台藩も参加する二本松藩も、会津藩を攻撃する気などさらさらありません。それどころか、会津藩が降伏を願っても聞き入れられなかった場合は白河小峰城を明け渡すという約束をしていたので、会津軍が先手を打ってすんなりと入城できました。
これを聞いて新政府軍の薩摩藩士・伊地知正治(いじちまさはる)の軍勢が駆けつけましたが、会津軍と行動をともにする新選組の斉藤一たちが返り討ちにします。一夜明けると白河口の総指揮官として会津藩ナンバー2の西郷頼母(さいごうたのも)も到着。新政府側700に対し、会津軍側は2千500まで兵力を増やしました。
伊地知正治はむやみに攻めても無駄だと考えを改めます。そして、白河小峰城の南の稲荷山、東の雷神山、西の立石山に注目して3方向からの陽動作戦に出ました。実戦経験の少ない西郷頼母はこの策略にはめられてしまい、会津軍以下同盟軍は東西からのはさみうちで惨敗。逆転した新政府軍が、白河小峰城を手に入れたのでした。東北の戊辰戦争の勝敗は、この緒戦ですでに決していたといわれます。
新政府軍の戦没者を弔う墓所。白河口の戦いでは両軍あわせて1000名近くの死者が出たという
少年兵までも動員された二本松の戦い
二本松城跡に建てられた二本松少年隊の像
白河小峰城を落とした新政府軍は、土佐藩の板垣退助の指揮で周辺の三春藩や守山藩を降伏させると、次に二本松藩へと迫りました。二本松藩は藩主・丹羽長国(にわながくに)が病弱なため、家老の丹羽一学(にわいちがく)が中心となり、二本松城(福島県)を守って新政府軍と戦うことを決定します。
東北の地形に詳しい三春藩と守山藩の兵士を先導役につけた新政府軍は、破竹の勢いで二本松城南方の本宮と東方の小浜を攻め落とし、二本松城に迫ります。対する二本松軍は二本松城で最後の抵抗をこころみますが、兵力に大きな不安を抱えていました。実は主力の精鋭軍がいまだに白河小峰城奪還のため出払っており、兵士のほとんどは老人や少年、さらには農民や町民だったのです。
二本松城最後の防衛線となる大壇口には、12歳から17歳までの少年で結成された二本松少年隊が配置されました。率いる隊長で砲術家の木村銃太郎も20歳の若者です。少年たちは「お殿様のお役にたてる」と喜んで出陣し、新政府軍に大砲を打ちこんで戦いました。しかし新政府軍の反撃にあい、次々と倒れます。木村銃太郎は一度退却すべきと考えますが、そのとき銃弾に腰を打ち抜かれてしまいました。
木村銃太郎は「もう城へは戻れないから首を取ってくれ」と頼みますが、少年たちは手が出せず、副隊長の二階堂衛守(にかいどうえもり)が介錯(かいしゃく)します。残酷な現実を目の前にして、少年たちの心はどれだけ傷ついたでしょうか。しかし彼らは逃げることなく、木村銃太郎の首を守って撤退しました。大壇口に出陣した少年隊22名のうち16名が討死したと伝わります。
一方の二本松城も老兵たちの奮戦むなしく、同日のうちに落城。病身の長国を同盟の仲間である米沢藩に逃がした丹羽一学は、城に火を放って自刃しました。このとき城の建物はほとんど焼失しましたが、本丸や三の丸跡の石垣は良好な状態で現存しており、大切に保存活動が続けられています。
二本松城落城の際に丹羽一学ら重臣達が自刃を遂げた場所には、彼らを悼む碑が建てられている
白河小峰城(しらかわこみね・じょう/福島県白河市)
白河小峰城は、南北朝時代に結城氏が築城したのがはじまりとされている。結城氏が豊臣秀吉により改易されると蒲生氏、次いで丹羽氏が入り、丹羽長重により近世城郭へと改修され、以降は譜代や親藩の大名が城主となる。江戸時代中期に寛政の改革を行ったことで有名な松平定信も白河小峰城主だった。1991年に戊辰戦争で焼失した御三階櫓が、1994年に前御門が復元されている。
二本松城(にほんまつ・じょう/福島県二本松市)
二本松城は、奥州探題畠山氏(後に二本松氏と改称)が建てた城。二本松氏の滅亡後、長く会津領の支城となっていたが、寛永20年(1643)に丹羽光重が入城し二本松藩を立藩。藩の政庁として総石垣の城郭に改修された。明治維新後、廃城となり建物は破却され石垣などが残るのみとなるが、平成に入る頃から建物の復元や城内の整備が進められている。
▼明治維新150周年企画「維新の舞台と城」その他の記事はこちらから
執筆・写真/かみゆ
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。