明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 第1回|【二条城】徳川政権の始まりと終わりを見届ける

明治維新150周年を記念して、維新と関連の深いお城を紹介します。今回は、大政奉還が行われた二条城の歴史に迫ります。

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二条城二の丸御殿には、慶喜が重臣たちに大政奉還を告げた広間が残っている(元離宮二条城事務所提供)
 
2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」の舞台・幕末は、15年ほどととても短い期間ですが、厳しい身分制度のある武士中心の社会から天皇親政体制へと移りゆく激動の時代でした。2018年は明治維新150周年。これを記念して、今回から10回にわたり維新関連のお城を紹介する連載を開始します。

▼明治維新関連のお城MAP
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▼明治維新の年表もチェック
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<コラム>明治維新とは
日本に近代化と西洋化をもたらした、政治的革命
1853年の黒船の来航をきっかけに、鎖国政策をやめて開国したことにより、国内には、海外勢力を武力で追い払うべきという「攘夷」派と、海外と肩を並べられるよう協力すべきという「開国」派が生まれ、対立。開国派で幕府のナンバー2である大老・井伊直弼が安政の大獄で過激な攘夷派を排除すれば、攘夷派が仕返しとして直弼を桜田門外の変で暗殺するという争いが続きました。

特に攘夷派の代表格である長州藩(現在の山口県)は1863年の八月十八日の政変で幕府により政治の場から追放され、この地位を回復するために禁門の変を起こすなど過激な行動をとるように。そんななか「国内が分裂しているようでは日本を守れない」と声を上げたのが土佐藩(現在の高知県)の坂本龍馬でした。

龍馬は、誰もが平等になる新たな枠組みをつくらなければならないと考え、八月十八日の政変時には幕府側だった薩摩藩(現在の鹿児島県)の西郷隆盛を長州藩の桂小五郎と引き合わせ、薩長同盟を成立させました。

15代将軍・徳川慶喜は薩長同盟との直接対決を避けるため、大政奉還を行いましたが、幕臣たちの反発があり、幕府廃止を目ざす「倒幕」派(新政府軍)と幕府存続を目ざす「佐幕」派による戊辰戦争が始まります。

九州から北海道まで、日本全国を舞台に繰り広げられた戊辰戦争は倒幕派の勝利に終わり、近代日本が誕生しました。

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明治維新の立役者となった西郷隆盛。写真嫌いで、写真が1枚も残っていないため、本当の顔はわかっていない !?

徳川家の権勢を印象づけた城

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が行った大政奉還。歴史の教科書には必ず登場する、幕末史の大きなターニングポイントですよね。実はこの現場こそ、京都の二条城だったことをご存じでしょうか。現在の二条城二の丸御殿には、実際に慶喜が大政奉還を宣言した部屋である大広間一の間が残されており、人気の観光スポットになっています。

では、なぜ慶喜は江戸城ではなく、二条城で大政奉還を行ったのでしょうか。それは、二条城が徳川家にとって重要な意味を持つ城だったからです。

なぜなら二条城を築いたのは徳川の初代将軍、徳川家康なのです。家康は、二条城を徳川家の象徴にしようと考えていました。二条城が完成したのは家康が征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いたのと同じ年ですが、これは偶然ではありません。家康は伏見城で将軍宣下を受けたのち、天皇にあいさつするために、二条城から御所へきらびやかな行列を従えて出発しています。こうすることで「徳川将軍家といえば二条城」と世間に印象づけたのです。

将軍に就任すると二条城から天皇のもとに参内する習慣は、江戸幕府の基盤がしっかりする3代将軍・家光の時代まで続きました。そののちは政治の場が江戸城に移り、二条城に将軍が入ることはなくなります。

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国宝に指定されている二の丸御殿。内部は障壁画などで飾られている
 
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絢爛な装飾が施された唐門。こちらも国宝に指定されている

2世紀以上の時を経て再びの将軍入り

それから2世紀以上の時が流れ、時代は幕末。229年ぶりに二条城に将軍が入城しました。14代将軍・家茂です。このとき皇位についていた孝明天皇は大の海外嫌いで、幕府に攘夷の実行を求めており、それに応えるための上洛でした。

二条城はもともと将軍家の象徴として築かれた城。久々に将軍が入るため、二の丸は全面的に整備され、火災で燃えてしまってからそのままになっていた本丸にも仮御殿がつくられました。二条城は再び「将軍の城」として輝きを取り戻したのです。

このまま幕府が輝かしい未来を歩んだかというと、そうはいかず、家茂は第二次長州攻めのために二条城入りしてから大坂城に移ったのち、病気で亡くなりました。

1864年、幕府による長州攻めが始まります。第一次長州攻めは薩摩藩が幕府に協力していたため、西郷隆盛が交渉役になって戦闘を回避できました。ところが第二次長州攻めのときには薩長同盟が成立していて、幕府は薩摩藩の協力を得られませんでした。しかも、長州藩の総指揮官は奇策が得意な高杉晋作。幕府軍は夜襲を受けるなどして大敗してしまい、生まれつき体の弱かった家茂は心労を重ねて21歳の若さで世を去りました。幕臣の勝海舟は「長生きすれば名君になった」と家茂の早すぎる死を惜しんだといわれます。

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奇兵隊を創設した高杉晋作。奇兵隊は長州藩士以外の武士や庶民から組織されていた。

大政奉還宣言という幕府終焉の舞台に

家茂のあとを継いで15代将軍となったのが慶喜です。慶喜が将軍になると二条城はさらに本丸も整備されていっそう輝きに磨きがかかりました。しかし、二条城に入った慶喜が行ったいちばん大きな仕事は、大政奉還でした 。

そんな慶喜には、「二心殿」というニックネームが。これは「言うこととやることがまったく違うので心がふたつあるようだ」ということを意味しています。一筋縄ではいかない慶喜が、本当に大政奉還で権力をすべて諦めたのでしょうか。

もちろん、違います。長い間幕府に政治を任せてきた朝廷は、政権を返されてもそれを担う力や体制が整っていません。また、坂本龍馬のように新しい日本の政府に慶喜を加えようと考えている人物の存在も。だからこそ慶喜は、大政奉還をしても、実質的に権力を取り戻せると計算していたのです。

これに焦ったのが、幕府の完全廃止を目ざす西郷隆盛や大久保利通です。このまま慶喜が新政府に加われば、江戸時代の古い習慣をすべて取り除くのは難しいため、明治天皇から幕府の完全廃止と新政府樹立を宣言する勅許を出してもらい、王政復古の大号令というクーデターを起こし、慶喜の野望を防いだのです。

こののち起きた戊辰戦争の最中に、二条城は明治新政府軍に接収されて、明治維新後は皇室の二条離宮となりました。そして昭和に入って京都市に下賜されると、恩賜元離宮二条城として現在のように一般公開されるはこびとなりました。

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晩年の徳川慶喜。戊辰戦争後は、静岡で写真や囲碁などの趣味に没頭する日々を送った。


二条城(にじょう・じょう/京都府京都市)
二条城は徳川家康が上洛時の将軍宿所として築かせた城。現在見られる遺構は、1624年(寛永元)に後水尾天皇の行幸のため徳川家光が改修したもの。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている他、二の丸御殿など6棟の建物が国王に指定されている。


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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