2018/07/31
明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 第10回前編 【松前城】虚を突かれて落城した最北の近世城郭
明治維新150周年を記念して、維新と関連の深いお城を紹介する「維新の舞台と城」もいよいよ最終回前編。今回の舞台は幕末に築城された松前城。鉄壁と思われた城の意外な弱点とは…?
海防のために築かれた松前城。築城後わずか15年で戦場となるなど数奇な運命をたどった
明治新政府軍の不条理な会津藩攻撃命令に反発して結成された奥羽越列藩同盟は崩壊し、旧幕府軍の中核だった会津藩も会津戦争に敗れ会津若松城(福島県)が開城。旧幕府軍の命運は風前の灯となります。しかし旧幕臣の榎本武揚や新選組副長の土方歳三たちは、まだ幕府の復権をあきらめませんでした。もはやよりどころはないため、はるか北の蝦夷へと渡り、自分たちの手で亡命政府・蝦夷共和国を築きます。そして蝦夷での基盤を固めるため、蝦夷松前藩の城・松前城(北海道)攻略を開始しました。
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蝦夷に樹立された旧幕府の亡命政府
「亡命政府」というものをご存知でしょうか。クーデターや戦争などで政治から追放された政府の関係者が外国に亡命して結成する、独自の政府組織です。現代日本ではなじみがありませんが、紛争の多いアジアやアフリカ諸国の政界には、欧米を拠点に活動する亡命政府が多数存在します。
幕末の蝦夷で旧幕臣の榎本武揚を中心に樹立された蝦夷共和国も、このような亡命政府です。蝦夷は松前藩が管理していたので厳密にいえば外国ではありませんが、海を隔てて本州と離れている点で独自性を保ちやすい土地でした。
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北したとき、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は勝手に幕府の軍艦・開陽丸に乗りこんで江戸へ逃げてしまいます。この開陽丸の艦長が榎本武揚でした。江戸で開陽丸を取り戻した榎本武揚は、江戸城無血開城が決定すると幕府復権を目ざして蝦夷へと舵を取ります。この道中の仙台藩で会津戦争に敗れた新選組副長の土方歳三と出会い、ともに蝦夷へと向かいました。
江戸開城後も新政府に抵抗していた榎本武揚は、新天地を得るため蝦夷を目ざした
蝦夷に上陸した旧幕府軍はまず、新政府軍の政庁・五稜郭(北海道)を落として蝦夷共和国の拠点とします。そして次に、松前藩の中核である松前城の攻略に乗り出しました。
幕府の命令で誕生した江戸軍学者渾身の傑作
蝦夷はもともと先住民族・アイヌの土地で、室町時代ごろから日本勢力が進出したといわれます。このためアイヌ文化が地盤にある松前藩には、長らく日本様式の城がありませんでした。しかし幕末になって外国船が日本近海に出没するようになると、危機感を強めた幕府が松前藩に新しく城を築くよう命じます。こうして蝦夷唯一の日本様式の城・松前城が誕生しました。
松前城見取図(北海道大学附属図書館所蔵)。曲輪や多聞櫓に複雑な屈曲をつけた鉄壁の縄張である
松前城を設計したのは、高崎藩のお抱え軍学者・市川一学(いちかわいちがく)。幕末の三大兵学者のひとりと名高い人物です。市川一学は城壁のほとんどを鈍角に曲げ、さまざまな方向から攻撃が仕掛けられるようにしました。しかもこの複雑な左右非対称構造によって本丸までの道が迷路のようになり、攻め入った敵が城の全容をつかみにくいという利点も持っていました。まさに松前城は江戸軍学のエッセンスが結集した城だったのです。
ところが松前城主となった幕末の松前藩主・松前徳弘(まつまえのりひろ)は生まれつき体が弱く、自分で戦えるような状態ではありませんでした。藩政も重臣が中心となって行っており、これが藩内の分裂を招いてしまいます。
上層部の重臣たちがほかの家臣への相談もなく幕府を支持する奥羽越列藩同盟への参加を決めたため、明治新政府を支持する若い家臣たちが反発して「正議隊(せいぎたい)」を結成。重臣たちを排除して実権を奪ったのです。こうして松前藩が新政府側についた直後に蝦夷共和国が成立したため、松前城は蝦夷共和国軍の攻撃を受けることになりました。
鉄壁の城の弱点を見破った土方歳三
松前城に迫る兵力700の共和国軍を率いたのは土方歳三です。共和国軍は当初、東側の馬坂門方面から攻めましたが、迎え撃つ松前軍の巧みな戦術に進軍を阻まれます。松前軍は門の後ろに大砲を置き、砲撃直前に門を開いて砲撃が終わるとすぐに門を閉めるという作戦で、共和国軍が城内に入れないようにしたのです。
このままでは埒が明かないと思った土方歳三は、別の突破口を探します。すると、松前城の意外な弱点がわかりました。外国船との戦いを想定した松前城は海に向かった南側の防備を重視しており、陸に続く北側の守りはとても薄かったのです。本来なら守りが薄いなりに堀切や土塁を設けるものですが、実は松前藩の財政は松前城築城でかなり圧迫されており、そこまで手が回っていませんでした。
城の本丸御門に残る弾痕は戦の激しさを物語っている
「ここしかない」と判断した土方歳三は、搦手となる北側から一気になだれこみ、鉄壁の防御であるはずの松前城を1日で落とします。土方は宇都宮城の戦いでも城の弱点を突いて1日で決着をつけていますから、かなり攻城戦上手だったのですね。
松前城の防御力から長期戦を想定していた松前軍はあまりにも早い決着にあわてふためき、城下町に火を放って逃走します。この火によって町の3分の2が灰になりました。
松前軍の放火により城下の寺院はほとんど焼失した。写真は唯一焼失を免れた龍雲院
こうして松前城を手に入れた蝦夷共和国軍は、いよいよ新政府軍との最終決戦に臨みます。
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松前城(まつまえ・じょう/北海道松前市)
松前城は異国船が蝦夷地に接近していることに危機感を感じた江戸幕府が松前氏に命じて築かせた城。廃城令により多くの建物が取り壊されるが、天守は破却を免れ国宝(現在の重要文化財)に指定される。その天守も1949年の火災により焼失したが、1961年に外観復元された。
執筆・写真/かみゆ
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