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イオ

2年半越しのリベンジ (2020/12/06 訪問)

南北朝初期に赤松貞範が猪ノ口山山頂に砦を築いたのが始まりとされ、戦国後期に「丹波の赤鬼」こと荻野(赤井)直正が現在の姿に大改修して明智光秀の攻撃を一度は撃退するも、直正の病死もあって光秀の再度の丹波攻めにより落城。光秀の重臣・斎藤利三が入って本城部を改修したのも束の間、山崎の戦いで敗れた後は堀尾吉晴が入り、小牧長久手の戦いの際に徳川方に呼応して赤井氏の残党が立てこもったのを最後に廃城となったようです。

黒井城は猪ノ口山頂部を「本城」とし、中腹に本城を囲むように複数の「出丸」を配し、出丸から四方にのびる尾根に「出城」を設けた猪ノ口山系全体を城域とする巨大山城で、南麓には「下館」と呼ばれる居館跡(現在は興禅寺)があります。

興禅寺は七間堀と呼ばれる水堀や高石垣が城主の居館跡を感じさせますが、斎藤利三が城主の頃に娘のお福(後の春日局)が生まれた地として知られ、春日局出生地の石碑のほか、産湯の井戸や幼いお福が座ったと伝わる腰かけ石があります。また、南に徒歩1分の惣門は黒井城の門材を使って建てられたものだそうです。興禅寺の南には春日局庵という休憩所があり、黒井城や興禅寺、黒井城下町のリーフレットが置かれています。トイレも併設され、春日局庵の南下には興禅寺(黒井城もOK)の無料駐車場があり10数台駐車できます。

実は、黒井城には続100名城のスタンプラリーが始まった頃に一度来ているんですが、福知山城に行った後、近くにもうひとつ続100名城があるようだし、ついでに行ってみよう程度の気持ちで、何の下調べもなくTシャツにジーンズ、スニーカーで登り始め、ゆるやかコースの防獣柵を越えたあたりで熊鈴を鳴らしながら降りてくる完全登山装備の人に出会い、こんな舐めた格好で挑むべき城でないことにようやく気付いて慌てて撤退したという苦い思い出があり、この情けなさ(元 登山部としてはあまりにもお粗末)を忘れないために、春日住民センターで登城日を記入せずにスタンプだけは押して、スタンプ帳の登城していないのに押されている黒井城のスタンプを見るたびに、いつかリベンジしてやるとの思いを強くしていましたが、他の丹波国三大山城の八上城、八木城を攻略するなど、それなりに山城攻めの経験も積み、下調べも充分に、装備も万全に整えて、2年半越しでついに黒井城再挑戦の運びとなりました。

興禅寺の駐車場から七間堀を横目に登城口に向かい、迷わず急坂コースへ。いきなり急傾斜の階段がありますが、この程度は承知の上です。登っていくうちにほどなく三段曲輪に到着。三段よりもっとあるようにも思いますが、段状に整地された曲輪が続いています。さらに登っていくと右手に太鼓の段への分岐があり、そちらに進むと斜面の途中と思えないほどに広い曲輪がありました。元の道に戻って少し登ると石踏の段へ。急坂コースからだと石踏の段の最上段東部でゆるやかコースと合流しますが、ゆるやかコースを少し下って赤門を見上げる定番のアングルを確認。段状の曲輪に散らばっている小石は石敷きの名残でしょうか。

黒井城は南側の中腹に三段曲輪、太鼓の段、石踏の段を、南東側に東出丸を、北東側に北の丸を、北西側に西の丸を配し、各出丸は山頂の本城だけでなく近接する出丸との間にも連絡道を設け、連携して本城を守る構造になっていたと考えられるところ、太鼓の段と東出丸を結ぶ横移動の道は失われているようで、やむなく一旦 本城に上ってから北の丸を経て東出丸に行きました。北の丸は、本城北東下の帯曲輪状の出丸で、崩落跡と藪と伐採された木が散乱していてよくわからない状態でした。東出丸は南東端に土塁と堀切を設け、現在は登山道が土塁を分断して通っていますが、土塁は高く分厚く往時の堅い守りが感じられます。

さあ、中腹の出丸を突破すると、いよいよ山頂の本城です!(続く)
 

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昌官忠

横浜線沿線日帰り① (2018/07/15 訪問)

「横浜線沿線日帰り」の1城目は滝山城です。続100名城スタンプは「滝山城跡中の丸」で押しました。

自宅最寄り駅から八王子駅に行き、八王子駅(北口)から西東京バスで「滝山城址下」下車し、大手口から攻城しました。

パンフレットによりますと、滝山城は1521年に武蔵守護代の大石定重が築城し、後に大石氏の養子になった小田原北条氏・四代氏政の弟の氏照が拡張・改修したとされてきました。しかし、近年の研究により、北条氏照は油井領を支配していた大石綱周の養子になり、「浄福寺城(油井城)」に居城し、その後、1567年までに滝山城を築城して移転したと考えられてきています。

攻城ルートを写真から辿ると、大手口➡天野坂➡三の丸➡二の丸➡東馬出➡行き止まりの曲輪➡大馬出➡二の丸➡本丸➡本丸への木橋➡中の丸(ここでスタンプ押印)➡二の丸➡千畳敷➡三の丸➡小宮曲輪➡山の神曲輪➡小宮曲輪➡天野坂➡大手口で下城です。
後から案内図を見ると屋敷群と搦め手側を見学していませんでした。

現在城址は「滝山自然公園」として整備されており、遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などが残っています。
大堀切、空堀、虎口、土橋など素晴らしい城跡です。東京都にこんな素晴らしい城跡が残っているなんて感激ですね。攻城時間は2時間弱くらいでした。

加住地域には「滝山三城」と言われる「滝山城」、「高月城」、「根古屋城(城びとには戸吹城で登録されています)」があるようですが、攻城したのは滝山城だけなので、機会をみて残り2つについても攻城したいと思っています。
皆さんの投稿メモを見ると、この近辺は「カルビンさん」、「にのまるさん」、「チェブさん」皆さんの領域内でしょうか?
コロナの影響でいつ攻城できるか不明ですが、攻城時は領域内をまかり通ることを、ご容赦願います。

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todo94

第一水門のみ (2020/11/22 訪問)

とりあえず第一水門のみチェックさせていただきました。ぐるりと一回りはまたの機会に。

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ぴーかる

高田大屋敷 (2020/11/22 訪問)

【高田大屋敷】
<駐車場他>駐車場はなし。古川神社前に1台分程の駐車スペースあり。
<交通手段>レンタカー

<感想>1泊2日武田・徳川攻防の城旅5城目。この屋敷跡は添付写真の説明板の通りです。見える土盛は外郭の土塁の一部だろうか。居館内部は草がかなり鬱蒼として方形の土台らしきものがうっすらとは見えるが定かではない。この辺り周辺は茶畑ではなく田んぼだった。

<満足度>◆◇◇

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よっぴー

お城EXPO行きたかった😭

お城EXPO行きたかったです。コロナの影響で横浜に行くことができませんでした。早くコロナが収まって欲しいです。

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零汰

トレッキングコースを兼ねているので散策し易いです。 (2020/11/24 訪問)

猿の住み家らしいので何も取られないようにガードしながら散策。トレッキングコースにもなっていて、歩きやすいように一部登城路を迂回して数多くある竪堀を横断した位置に歩きやすい遊歩道が施されています。高低差は210m、往復3.3km、ゆっくり見て廻り1時間50分程の攻城です。

11月の三連休の最終日、取引先との接待バイクツーリングで阿蘇・やまなみを走破し熊本に一泊、そのまま帰るのが勿体なく、平日で人はいないだろうと考えて5時前に大分に向かいました。それでも平日なのにハイカーいるんですよね。

登山口に繋がる林道のフェンスゲートを開閉しトイレ付の駐車場(7~8台程度)より散策開始、山頂の紅葉は散っていましたが、途中のの紅葉は残っていました。緩やかな遊歩道を歩いて行くと左右に幾つもの竪堀を見る事ができ、大手門跡周辺から本格的に遺構が現れ、登りは左側に石塁・土塁、右手には段郭のある登城路を歩き本丸へ。

二の丸に着き本丸が見え、追って別府湾が望める場所に辿り着きミーハー系攻城者の私は絶景に興奮、眺めながら暫し休憩。攻城には予想しないオマケが付いて来る時があるのでやめられないです。

本丸は思いの外広く、よく分る虎口、周囲には土塁が残っており、東側斜面に一部登り石塁も、それに戦争時の軍事施設跡があります。西側には登城路から続く土塁付帯曲輪、全体的にとても分かりやすいです。下りは遺構を探しながら各曲輪の内部を通り大手門へ。二の丸と三の丸の境には堀切があり東側の斜面の竪堀に続いています。三の丸の見どころは石積の遺構ですがよく探さなければ見つかりません。大手門からは本来の登城路を下山、勾配が少々急ですが普通に歩けます。

山一帯が城域で歩く距離は長く感じますが、整備の行届いた良い城郭でした。

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しらさぎ

冬の松根城跡 (2020/02/02 訪問)

城跡の周囲にも凹凸とした地形が多く、どこまでが遺構かわからず

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しらさぎ

大聖寺城跡 (2020/01/19 訪問)

馬出曲輪→本丸→二の丸→戸次丸→三の丸→西の丸→鐘が丸→東丸→対面所跡の順で見学

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キンヤ

前田利家が生まれたと伝わる兜風の本堂がある寺の城跡 (2020/12/13 訪問)

今は速念寺がある前田城は、荒子城と、もう一つの利家の誕生の候補地です。

前田氏発祥の地と云われ、前田氏のお墓もあります。

利家の兜風の本堂がユニークでカッコいいです。

遺構は残っていませんが、なかなか楽しめる城です。

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居眠狂四郎

神楽尾城 (2020/12/14 訪問)

津山城至近です。
堆積物や藪化で遺構は判然としません。

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カニカニ

所用にかこつけた城巡り 6城目 (2020/11/15 訪問)

佐伯城の南方には、延岡、佐土原、都於郡、飫肥、志布志、と候補が目白押し。
高や、綾も、興味をそそられるし…。
全部まわっていたら所用のある火曜日に福岡入りもできないし、日曜日の熊本城にも行けない。
(日曜にこだわる理由は、熊本城の稿を参照してください)
悩みぬいたすえ、飫肥城と、19歳の夏、独り旅で行った思い出の地を訪ねることにした。
(青春時代の思い出の地なんか、どうでもいいって?      そりゃそうだよね。(汗)
  なんせこの歳なので、50年ぶりの二度とないチャンスだったものだから・・・  スンマセン。)

朝8時半に駐車場に行くと大勢の小学生と父兄たちが集まっていたので話を伺うと、この町では
6年生になると数日間、規律が厳しめの宿泊研修をする伝統があり、その出発式だそうだ。
いつからかは聞きそびれたが、歴史のある町には連綿と続く伝統が残るものですね。

駐車場を出たところの ”おび天 蔵” で ”おび天定食” を朝食でいただいた。
おび天とは魚のすり身に豆腐を混ぜて揚げた郷土料理で、薩摩揚げよりもふわりとした食感です。
朝イチに到着するようにと、まともな朝食をせずに移動してきたので9時オープンは有りがたい。

大手門からみる、ひと気のない大手門通りが、好い。
江戸期の大手門は明治初期に取り壊されたが昭和30年代には別の城門(藥医門)がここに移されており
しばらく存在したそうで、今の大手門は昭和53年にまったくの推定による再建だそうです。
でも、これも雰囲気は悪くない。

枡形虎口の鍵型に曲がった控え塀は、あまり見かけ無いように思うのだけど、気のせいか?
枡形を抜けた左の曲輪には、飫肥杉が整然と並んでいる。
このようになるように計算して植えたのか、はたまた伐採したものか?

旧本丸は苔が一面に覆い、飫肥杉が林立する独特の雰囲気。
眼下に酒谷川が見える西側の土塁にも木の根が地表を這い、歴史を感じさせる。
北門の外の下方にはグランドが広がり高校球児が練習をしている。

この稿を書くのに少し調べていたら、飫肥城は知覧城などと同じくシラス台地を空堀で区画した
南九州型(群郭式)城郭 と書かれているではないか。
何気なく撮影したグランドも、かつては曲輪であったものが削平されてできたそうな。
してみるとグランドの周囲の、こんもりとした森も曲輪群であり、かつての城域となるわけだ。
小学校を含む、今見て回った城域だけが、飫肥城というわけでなかった。

知覧城や志布志城に見られる(私は、いまだ未踏ですが)、土、つち、ツチの壁だらけの城と
飫肥城が同じ顔を持った兄弟のような城だったとは…。
武骨な地肌を白漆喰でお化粧していたなんて、飫肥城、侮れない。

この飫肥の町は九州で初の 「重要伝統的建造物保存地区」 に指定されたそうだ。
(ちなみに、私の”重伝建地区巡り”も、此処でやっと25ヶ所目となった)

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赤い城

水戸線で分断されている (2020/12/12 訪問)

水戸線の小田林駅から徒歩で25分くらい。
県道から細い道を入ったところに説明板が立っています。
そばに藪となった堀と土塁があります。
この土塁は物見台でしょうか。
近くの踏切を渡って線路南側に主郭があります。
こちらも藪。
虎口ぽい部分も見られます。
こちら側の遺構は良好に残っていいます。
他の曲輪は畑となっていました。
小山城の支城とされ、国の史跡にも指定されていますが・・・。

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T-Shionoya

お城EXPO 2020 (2020/12/19 訪問)

お城EXPOに初参城。
午前は小和田先生の厳選プログラム、午後はワークショップ&セミナーで新たな知識を習得。
近江の城カルトクイズも無謀チャレンジ。
写真の来城記念御城印は、国宝天守五城の別名なんですね。
1日楽しんで来れました。

<印象に残ったキーワード>
・鏡石、猪目石
・九字切
・権現曲輪
・けがれの逆転
・算木積み
・下見板張
・登り石垣

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にのまる

お城expo2日目 (2020/12/19 訪問)

 駅や電車はいつものごとく混雑していますが、会場内は例年になく静かで空いていて、感染対策もばっちりで寒いくらいでした。
 午後から行ったので、観光ゾーンを少しまわって、厳選プログラムひとつと物販の下見をしました。

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昌官忠

伊勢湾沿岸遠征日帰り④ (2018/08/07 訪問)

「伊勢湾沿岸遠征日帰り」の4城目(ラストです)は桑名城です。亀山城からの転戦です。

亀山城から、亀山駅➡桑名駅➡徒歩で桑名城に到着。

桑名城は徳川四天王のひとり、本多忠勝の居城として知られています。本多氏が姫路城に移ってからは松平氏が桑名藩主をつとめました。
忠勝の孫である忠刻と徳川家康の孫娘である千姫は、この城で結婚したそうです。

現在城址は本丸・二の丸一帯が「九華公園」として整備されており、「蟠龍櫓」が外観復元されています。攻城時間は60分くらいでした。

城近隣のアーケード商店街で「名物 焼きハマグリ」が食せるとの情報があり、商店街を覗いた記憶はありますが、「焼きハマグリ」の写真が残っていないので食していないと思われます。➡たぶん店が閉まっていたと思います?

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todo94

14年ぶりの再訪 (2020/11/22 訪問)

「日本一!ようかん祭り」はまだ始まりそうになかったので14年ぶりに千葉城にも脚を伸ばしてみました。大中小の三つの山が並び一番高い向かって右側の山が主郭に当たるようですが登山道の草刈りがなされておらず草の種子がたくさん衣服に付着しそうだったので千葉公園までの散策にとどめました。

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昌官忠

伊勢湾沿岸遠征日帰り③ (2018/08/07 訪問)

「伊勢湾沿岸遠征日帰り」の3城目は亀山城です。津城からの転戦です。

津城から、三重会館前(三重交通バス)➡津駅前/津駅➡亀山駅➡徒歩で亀山城に到着。

亀山城は1265年に関実忠が若山の地に築いたと伝えられます。中世の亀山に勢力を誇った関氏の居城で、現在の場所に16世紀中ごろまでに移っていたと考えられるそうです。
1590年、岡本宗憲によって天守を築造するなどの修築を行い、本多俊次が1639年から3年をかけて行った大改修によって、ほぼ現在の城地が確定したそうです。
なお、亀山城の天守を壊すよう幕府に命じられた出雲松江城主堀尾忠晴が間違えて亀山城の天守を取り壊したと伝えられ、以後天守は再建されなかったそうです。

現在は本丸東南隅の多聞櫓と石垣、外堀、二の丸から西出丸の北側の土居が残っています。

亀山市には東海道の四十六・四十七・四十八番目にあたる三つの宿場町「亀山宿」、「関宿」、「坂下宿」があったそうで、亀山駅から亀山城に向かう途中に「亀山宿標識」がありました。攻城時間は45分くらいでした。

桑名城に向かうまで電車の時間があったので、JR亀山駅の近くのお店で「亀山B級グルメ みそ焼きうどん」でビールを飲みました。真夏の暑い中の攻城なのでビールが美味しかった(もちろん、みそ焼きうどんも美味しくいただきました)。

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カズサン

登城始め急な切岸で圧倒される (2020/11/29 訪問)

 久美浜陣屋、松倉城を終えて東に直線約25km程弓木城を目指す、ナビは岩滝小学校と農免道路をはさんで城山公園駐車場(京都府与謝郡与謝野町弓木1542でナビ微調整)を目指す、今回の九州未踏の城廻り累計40城目を初登城。
 駐車場は大型車も可能な大型駐車場でトイレも完備。今回のガイドは古城盛衰記さん余湖図コレクションさんの俯瞰図に依る。
 
 駐車場から道路沿い西へ案内登城路、側面南に尾根筋東の伸びる3郭曲輪群の北面急峻な切岸に圧倒される裾に横堀、神社階段を登り本丸北裏に神社の有る曲輪、南に1郭本丸に登る、本丸は低いが二段に成って南の伸びてる、南端に裾まで伸びる長い竪堀、両側は切岸、南斜め下に下城路にて2郭、1郭本丸南面、竪掘りを渡り本丸東面切岸へ、そこには広い大横堀を挟んで4郭二の丸?、本丸東切岸裾道を元の神社へ、神社下に土塁が残ってる、本丸西下に西曲輪群を挟んで大堀切が在るように見える。戻り駐車場南裏に土塁と横堀で出丸跡。
 認識なく初登城でしたが大変良い造りの山城を探訪させてもらいました満足の行く山城です、主な所は草刈りもされており安心して探訪出来ました。

 歴史は鎌倉期に稲富氏が築城、代々居城とし、丹後の守護となった一色氏に従属、戦国期細川氏に攻められるが防戦し、本能寺の変の混乱の中、和議開城したと伝わる。

 今回の鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り、途中に播磨、山陰と廻る11月20日から9泊10日の探訪も40城目弓木城を以ってエンディングです。
 浜松を出発し帰宅まで総走行距離は4,044kmでした。城探訪時間より車に乗ってる走行時間の方が格段に多い車での城廻りです。

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ぴーかる

八幡平城 (2020/11/21 訪問)

【八幡平城】静岡県御前崎市新野
<駐車場他>想慈院駐車場30台分程あり。
<交通手段>レンタカー

<見所>堀切・横堀
<感想>1泊2日武田・徳川攻防の城旅4城目。この城跡は新野古城とも呼ばれ築城年代は定かではない。この城跡の西南尾根続きにある舟ヶ谷城は今川系新野氏の城でそれ以前の新野氏の最初の城であったかと思われる。想慈院駐車場にある城跡の説明板には戦国期に武田軍により高天神城の軍道のおさえとして改修されたとありますので戦国期に今見る遺構になったと思われます。
 城跡は想慈院の西側に登城口があり城跡を縦断して想慈院の墓地に出てきます。曲輪は大きく主郭と二郭の2つあり、主郭南側は横堀が縦断して高さのある切岸になっています。この横堀の縦断の仕方が武田軍が造った感があります。そして主郭・副郭にいくつかの腰曲輪があります。主に東西に走る尾根には沢山の堀切で仕切っていて踏破していて楽しいです。

 旅行前にGoogleマップで朝比奈城までの経路を見たり御前崎半島を見ていたりして偶然発見した城跡でした。整備もよくなされており、堀切・横堀等の遺構の立て札もあるので見やすく見応えあります。比高もそんなにないので1周1時間程で巡れます。是非城びと登録してほしい城跡でした。結局朝比奈城には夕方タイムアップで行けず仕舞いでした。

<満足度>◆◆◇

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零汰

数少ない遠征先の城郭1 (2020/11/29 訪問)

昨年は筑紫氏館周辺に城郭が7箇所存在しているのを知らず、勝尾城と葛籠城のみ廻りました。今回は他の5か所を廻ろうと向かった先の一つが鬼ヶ城です。

筑紫氏館前の駐車場より筑紫氏館を廻り林道を西に歩いて行くと小さな橋を渡ります。左手流れる川沿いを歩くと右手に小高い山があり、その山頂が本丸です。勝尾城などと違い案内板は見当たらず、パンフとログを見比べながら登れそうな場所を見上げながら探していると何やら石積を見付けました。長さ50m程の範囲に石積が点在していて中には円形状の物もありました。当時の遺構かどうか分からず写真を取り一旦林道へ。ロッククライミング用の岩盤脇を登って暫く行くと崩れた石積のある虎口があり、その先を歩き進めると本丸に辿り付きます。本丸東に大きな曲輪が1か所これが二の丸扱い、北側に小さな曲輪が1か所、共に虎口は確認できますが確信出来る土塁は見付けられなかったです。

一通り見て廻ったので降りていきます。二の丸扱いより倒木で塞がった虎口を通り過ぎ、道であったろう場所を辿って降りていくと林道脇にある石積の場所に出てきました。下から見上げるのとは違い上から見下げると大手口に見張台が点在している様に見えてきて、石積は遺構なのか?ロッククライミング上の虎口は搦手口なのか?と答えの無い事を考えながら元来た林道を戻って行きました。筑紫氏館を含め高低差190m、往復2km、所要時間は90分でした。

案内の無い、縄張り図の無い城郭を見て廻ると遺構かどうか悩んでしまう事が多くあります。自然地形の横堀かどうか、竪堀かどうか、段々畑の跡ではないか等。今回は石積が遺構かどうか確信が出来ません。初め円形の石積を見て当初はなぜかよくある後世の焼物釜跡かと思いましたが火入れする所が無いので違う、それでは人が隠れる場所か?様々な事を考えます。円形の石積を見なかったら遺構と思えたと思います。

今は答えの無い、そのうち解決するかもしれない、今は謎のままで当時を想像するのが浪漫に感じます。




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