南北朝初期に赤松貞範が猪ノ口山山頂に砦を築いたのが始まりとされ、戦国後期に「丹波の赤鬼」こと荻野(赤井)直正が現在の姿に大改修して明智光秀の攻撃を一度は撃退するも、直正の病死もあって光秀の再度の丹波攻めにより落城。光秀の重臣・斎藤利三が入って本城部を改修したのも束の間、山崎の戦いで敗れた後は堀尾吉晴が入り、小牧長久手の戦いの際に徳川方に呼応して赤井氏の残党が立てこもったのを最後に廃城となったようです。
黒井城は猪ノ口山頂部を「本城」とし、中腹に本城を囲むように複数の「出丸」を配し、出丸から四方にのびる尾根に「出城」を設けた猪ノ口山系全体を城域とする巨大山城で、南麓には「下館」と呼ばれる居館跡(現在は興禅寺)があります。
興禅寺は七間堀と呼ばれる水堀や高石垣が城主の居館跡を感じさせますが、斎藤利三が城主の頃に娘のお福(後の春日局)が生まれた地として知られ、春日局出生地の石碑のほか、産湯の井戸や幼いお福が座ったと伝わる腰かけ石があります。また、南に徒歩1分の惣門は黒井城の門材を使って建てられたものだそうです。興禅寺の南には春日局庵という休憩所があり、黒井城や興禅寺、黒井城下町のリーフレットが置かれています。トイレも併設され、春日局庵の南下には興禅寺(黒井城もOK)の無料駐車場があり10数台駐車できます。
実は、黒井城には続100名城のスタンプラリーが始まった頃に一度来ているんですが、福知山城に行った後、近くにもうひとつ続100名城があるようだし、ついでに行ってみよう程度の気持ちで、何の下調べもなくTシャツにジーンズ、スニーカーで登り始め、ゆるやかコースの防獣柵を越えたあたりで熊鈴を鳴らしながら降りてくる完全登山装備の人に出会い、こんな舐めた格好で挑むべき城でないことにようやく気付いて慌てて撤退したという苦い思い出があり、この情けなさ(元 登山部としてはあまりにもお粗末)を忘れないために、春日住民センターで登城日を記入せずにスタンプだけは押して、スタンプ帳の登城していないのに押されている黒井城のスタンプを見るたびに、いつかリベンジしてやるとの思いを強くしていましたが、他の丹波国三大山城の八上城、八木城を攻略するなど、それなりに山城攻めの経験も積み、下調べも充分に、装備も万全に整えて、2年半越しでついに黒井城再挑戦の運びとなりました。
興禅寺の駐車場から七間堀を横目に登城口に向かい、迷わず急坂コースへ。いきなり急傾斜の階段がありますが、この程度は承知の上です。登っていくうちにほどなく三段曲輪に到着。三段よりもっとあるようにも思いますが、段状に整地された曲輪が続いています。さらに登っていくと右手に太鼓の段への分岐があり、そちらに進むと斜面の途中と思えないほどに広い曲輪がありました。元の道に戻って少し登ると石踏の段へ。急坂コースからだと石踏の段の最上段東部でゆるやかコースと合流しますが、ゆるやかコースを少し下って赤門を見上げる定番のアングルを確認。段状の曲輪に散らばっている小石は石敷きの名残でしょうか。
黒井城は南側の中腹に三段曲輪、太鼓の段、石踏の段を、南東側に東出丸を、北東側に北の丸を、北西側に西の丸を配し、各出丸は山頂の本城だけでなく近接する出丸との間にも連絡道を設け、連携して本城を守る構造になっていたと考えられるところ、太鼓の段と東出丸を結ぶ横移動の道は失われているようで、やむなく一旦 本城に上ってから北の丸を経て東出丸に行きました。北の丸は、本城北東下の帯曲輪状の出丸で、崩落跡と藪と伐採された木が散乱していてよくわからない状態でした。東出丸は南東端に土塁と堀切を設け、現在は登山道が土塁を分断して通っていますが、土塁は高く分厚く往時の堅い守りが感じられます。
さあ、中腹の出丸を突破すると、いよいよ山頂の本城です!(続く)
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