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園部高校 (2024/06/22 訪問)

 日本最後の城として知られています。現在は京都府立園部高校となっています。巽櫓、櫓門、番所がありました。土曜日でしたが登校されている生徒さんもいたので、そっと写真を撮って退却しました。近くに天守風の建物がありますが、南丹市国際交流会館です。裁判所の前の土塁を観た後、周囲を散策しました。グーグルマップを見ていると裏の山に園部城小麦山櫓跡(三重櫓跡)の表示があり行ってみましたが、城とはあまり関係ないと思われる石碑群しかありません。

 JR園部駅から徒歩約15分で城址である園部高校に行くことができます。

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カズサン

金沢城は東雲城・朝日舘とも呼ばれてる (2024/05/23 訪問)

 薄衣城を終えて南西に約15km程の花泉町の金沢城跡を初登城、車で主郭下まで行けます。

 駐車場:金沢城跡あたご山公園駐車場利用(38°51'16"N 141°10'43"E h=100m)、数台は可能。トイレ有。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 夕刻近くやや暗くなってきたころ、主郭へ登り、愛宕神社に参拝、東側に初日の出眺望地の標柱、南に階段が付いている、あたご山公園に小振りな独立丘陵が主郭、周囲の切岸、周辺を見て帰路へ、溝からイタチ?が顔をのぞかせて写真を撮ろうとしてもすぐに逃げる。
 
 案内板によると。
 平安時代末期、藤原秀衡の家臣が金沢伊豆称しこの館に居住、葛西氏の時代薄衣城主千葉上総介平清純の子上総清胤が葛西氏より領地を賜り居住し、代々金沢氏を称して10代伊豆(守)信胤に至る、天正18年の奥州仕置きにて主家葛西氏とともに没落。
 

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西岸寺 (2024/06/22 訪問)

応仁文明の乱の舞台となり、戦国時代には明智光秀が攻略した城です。亀山城の前身的な城と伝わっています。西岸寺の横に石碑と説明板がありました。天守閣は西岸寺あたりにあったと説明板に記載があります。ぴーかるさんが投稿されていた堀切跡などへは行きませんでした。

 JR亀岡駅から西岸寺まで徒歩約15分で行くことができます。

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ぴーかる

最奥の出丸跡まで行きましょう (2024/04/20 訪問)

【船山城】
<駐車場他>御射山神社前に神社駐車場3台分あり。
<交通手段>車

<見所>堀切・石垣
<感想>日帰り飯田・伊那地方河岸段丘平山城の旅7城目。現地説明板によると船山城は平安時代末から室町時代末に至る四百余年にわたり、伊那地方に栄えた片切氏によって築造されたものであり、1582年織田氏の侵攻によって落城するまでの間、片切氏の本拠地となっていた所である。また松川町のホームページによると、城は室町時代以降に南東方向の尾根上部分の曲輪群と広大な平坦地の削平地は別々に築造されたようです。
 城跡は西の主要部の丘城部分と南東方向に船山である尾根上の連段曲輪の2局の構造に分かれます。主要部の部分は西の御射山神社西側に堀切があり遮断しています。主要部中心部に幅広の空堀跡があります。松川町のホームページには主要部にある石垣について記述がないので後世のものと思われますが、西端の獣柵の外側の下の方、竹藪まで石垣が残っているので、当時のものを利用していると期待したいところ。船山である尾根上連段へは果樹園の東のドン突きまで行くと獣柵ゲートがありますので開けて山に入ります。ゲートを開けるとそこが堀切になっていて、右手の尾根上に登ります。大きく深い堀切が2条あり、堀切前の土塁が虎口か何かの遺構で巨岩石積みが崩れたように見受けられました。見応えのある堡塁です。東端の出丸跡は広く、北面に虎口跡があり石列が残っています。
 河岸段丘の城は、川側の周囲が谷の深い先端部に主郭を置いている城跡が多かったですがこの船山城は丘陵地の手前側に主郭を置いています。御射山神社の西の堀切は現在改変されていて、貯水池があったり、住宅地になっていたりしているので堀の規模は想像がつかないが、西側に広大な丘陵地が広がっているので、攻め込まれると結構イケイケな感じを受けました。

<満足度>◆◆◇

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カズサン

薄衣城初探訪は登城口辺 (2024/05/23 訪問)

 平泉衣川地区の白鳥舘、接待館、衣川柵、小松柵を終えて南東約20km程、薄衣城を目指し初探訪。
 北上川の高館橋を渡り北上川添いを進行、川崎町の道の駅から北上川を南下約1km程で目的の駐車場。

 駐車場:北上川東沿い、薄衣城西面岩崖直下ジャリ駐車場(38°53'33"N 141°15'58"E h=20m)、数台は可能、トイレ無。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 車を駐めた崖下に大型の案内解説板縄張付きがあります、そこより徒歩110歩北に登城口がります、薄衣城跡の標柱が2本あり、平成12年と28年設置、薄衣城跡まで歩いて5分の案内、登ると急な直線登城路、倒木も目に付き登城が重く感じ、登城口と案内板を見て終了とする。
 朝早い時間なら登ったかもしれませんが夕方も近づくと足が止まってしまいます。

 

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チェブ

メキシコのアカプルコ市は国際姉妹都市。 (2024/05/04 訪問)

慶長遣欧使節でエスパーニャを目指した伊達家家臣 支倉 常長さん。常長さんの、お祖父様が1545年に築いた「上楯城」。
常長さんも青年期は「上楯城」で過ごしたようです。

大きな説明板の前に、 広い駐車場がありました。GWでしたが、貸し切り状態です。
説明板にはポストがあり、中には案内図が入っていました。
登城口から入ると真っ直ぐの道がありました。横は堀になっているのか長く1段低くなっています。土塁の上を歩いているのかも分かりません。
カーブすると本丸・二の丸への道標がありました。
が、木が道をふさいでました。折れているのではなく、しなっていて通れません。
入口から大した距離でもないのですが、野生の動物達の領域にお邪魔しているようなので、退陣しました。
駐車場で誰もいないところから、へっぴり腰で進軍していましたので、逃げ足です。

慶長遣欧使節は、メキシコとの直接貿易を求め、スペイン国王とローマ教皇のもとに派遣した外交使節です。
仙台市は現在、この事がきっかけでメキシコのアカプルコ市と国際姉妹都市なんだそうです。
『アディオース!』と叫んで後にした「上楯城」攻めでした。

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イオ

下滝野城(三重県松阪市飯高町下滝野) (2024/04/27 訪問)

下滝野城(城びと未登録)は、詳細は不明ながら、北畠具教が北畠信意(織田信雄)に謀殺された翌年、北畠具親(具教の弟)の北畠氏再興の呼びかけに応じて挙兵した川俣谷の国衆によって築かれたとされます。

国道166号線沿いの下滝野公民館の駐車場から登城開始。国道を西に少し行ったところに東側の登城口がありますが、ルートがわかりづらいようなので、岩谷橋の手前から川沿いに上流に向かう西側の登城口から登城しました。川沿いにしばらく行くと東側に切通道が分岐しています。北に続く道の西側は土塁状になっていて石積も見られますが、後世のものと思われます。分岐から切通道を上って行くと、主郭側斜面に大規模に石積が続いています。切通道は往時の堀切だとしても、石積は後世に土留めとして施されたものでしょうか。

切通道から主郭北下の腰曲輪を経て主郭へ。頂部の主郭は楕円形の曲輪で、北西辺に低い土塁が見られます。南西下には浅い堀切があり、その先には小曲輪がありました。北東下にはほぼ自然地形の広い曲輪があり、北東辺を土塁が囲んでいます。そして切通道を北東側に下って谷筋に出て、谷沿いに南に進むと東側の登城口に出ました。なるほど、切通道から谷筋に出るのは間違えようがないとしても、谷筋から切通道への分岐を見極めるのは難しそうなので(案内表示無しでほぼ直登)、やはり西側から登城するほうが良さそうです。
 

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モト

現在も発掘中 (2024/06/21 訪問)

大友宗麟の館跡です。
現在も発掘調査中でした。
建屋の跡などはこれから調査、結果で見学できるように整備されていく予定があるようでした。
庭園跡が非常にきれいに整備されており、見どころの一つだと思います。
池も東と西で異なるコンセプトで作成されており、面白いです。
西側の池は景石を少なくして水面を広く見せて穏やかな景色にしているそうです。
東側は景石を多く使用して躍動感溢れる景色にしているんだそう。
ぜひ、その見える景色の違いを実際に見学してご確認ください。
また、庭園には滝があったようですが、この滝は自然には水の流れはなかったとの事で見学する際に上から水を流していたんだそうです。
これも面白い。

現在も調査中の大友館、庭園のようにこれからその全容が明らかになっていき、見学もしやすいように整備されて行くのだろうと思います。
今後も楽しみな所だと思います。

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しんちゃん

無印投稿  平戸城 (2014/01/08 訪問)

九州から平戸大橋を渡った先の平戸島の北側、海峡を見張ることの出来る丘陵部に平戸城は築かれています。慶長9年(1599)に日之嶽に松浦氏によって築造が開始されますが、完成には至らず平戸藩は6万石を越える大名でありながら陣屋暮らしが続いたとのことです。
元禄15年(1702)幕府に再築城を願い出て許され、元禄17年(1704)~宝永4年(1707)にかけて工事が成され、ついに完成したとのことです。二の丸の三重櫓が天守代用とされましたが、現在は本丸に三重四回の模擬天守が鎮座しています。
北口虎門近くの狸櫓には櫓に住まわしてもらう代わりに城を永代守護すると藩主に願い出た狸の伝承があるようです。

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赤い城

向城と神内城 (2024/05/26 訪問)

近くに駐車場は無く、木太南コミュニティセンターに停めさせてもらいました。
東に行くと水田脇に案内の石柱があり、少し進んで駐車場脇のあぜ道を入ります。
僅かに土塁が残っていて説明板も立っています。
周囲は水田で遺構はこの土塁のみのようです。
こちらは香西氏に属した真鍋氏の居城です。

一方、向城から西に数百メートル、木太南小学校があるあたりには香西氏と敵対する十河氏の配下、神内氏の居城だった神内城があります。
木太城とも呼ばれます。
小学校校門前に説明板も立っていますが遺構は無さそうです。

こんな近くに敵対する勢力の居城画像あるのは珍しいのではないでしょうか。

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しんちゃん

千人殺しの石垣 (2024/01/08 訪問)

延岡城は慶長6年~8年(1601~1603)にかけて高橋鑑種の養子・高橋元種によって築かれたとされています。延岡城は縣藩(後の延岡藩)の政庁となりますが、高橋元種は慶長18年(1613)に改易となり、以降は有馬氏・三浦氏・牧野氏と続き内藤氏の時代に明治維新を迎え、明治3年(1870)に薬園とすることを明治政府に願い出て許され、廃城になったとのことです。模擬所門をくぐってすぐに目にする二の丸北側の巨大な石垣は千人殺しと呼ばれ、一部の石を外すと総ての石垣が崩れ敵を押しつぶすという伝承が残っています。
二の丸を上がっていくと本丸に至り、天守台が残ります。コンパクトにまとまった良い城址だと思います。(それでも結構広い)
去年訪問した際はもう日が暮れかかっていたので、古い写真で補填してあります。ご容赦を。

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しんちゃん

無印投稿  日出城 (2014/01/14 訪問)

日出城は古くは建武年間に大神氏によって築かれたとされています。慶長6~7年(1600~1601)に日出藩初代藩主となった木下延俊(豊臣秀吉の妻・高台院の甥)が細川忠興の支援を受けて近世城郭として整備したとされています。民家に移築されていた東北隅櫓(鬼門櫓)が再移築され、当時の石垣が残っています。
暘谷城の石碑があり、この暘谷というのは中国の古い言い伝えでは、東の果ての太陽が昇る場所のことをいうらしく、これが日出城の別名でもあるようです。東と言えば、日本にはもっと東の場所のほうが多いですが、この時代には地球が丸いということは既に周知のことだったので、先に言ったもん勝ちということになりますか。

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小城小次郎

建ててくれてありがとう (2023/12/09 訪問)

石橋と駐車場しかないような淋しい空間が冠木門が建っただけで急に陣屋っぽくなった。門が背後にあるだけでただ古いだけだった石橋が急に風格あるものに見えるから不思議なものだ。建ててくれてありがとう。

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零汰

立ちすくむ (2024/05/22 訪問)

草刈も終え整然としていたからかもしれない、静まり返った広い場所を終始独りで歩いていたからかもしれない。門に入るなり立ちすくむ。乱暴な言い方ですが土塁と空堀の組み合わせだけです。それだけなのに色んな顔を見せてくれる。何故土の切り盛りだけなのにこんなに美しく見えるのでしょうか。遺構が残っていてくれて良かったと思います。

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しんちゃん

大城郭に相応しい石垣遺構 (2024/02/23 訪問)

郡山城の丘陵には中世から郡山衆と呼ばれる武士団の居館が点在したようです。戦国時代には郡山衆も越智方と筒井方に分かれて争い、越智方の中氏(郡山氏)が勢力を増し城郭化が加速したものと考えられています。
明応7年(1498)郡山の城は筒井氏の軍門に下り、郡山衆は筒井氏の傘下の西脇衆として筒井氏に協力するようになったそうです。
天正13年(1585)豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国の三ヶ国の領主として郡山城に入り、百万石(+α)の大大名に相応しい城に拡張されました。真偽のほどは不明ですが五層の天守閣が築かれていたとされ、天守台が残っています。

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しんちゃん

前浜砲台   砲弾はおそらく届かない。 (2018/01/05 訪問)

前浜砲台‥高知県南国市前浜
前浜砲台は嘉永6年(1853)のペリー来航の翌年に築かれました。土佐藩の命にて下田村の郷士・大原里勝が前浜砲台係、海防小頭を仰せつかりホイッスル砲数門を持つ台場が完成したとのことです。明治維新の後、大砲などは払い下げになったそうですが、台座や土塁の一部が残され往時をしのばせてくれます。
当時の大砲は鋳造式で青銅製と鋳鉄製のものがあったようです。鋳造した砲身の内面を仕上げて製作し、砲身の短いものをホイッスル砲、長いものをカノン砲と呼称しました。ホイッスル砲はカッターボートにも搭載が可能な小型のライフル砲でペリー来訪時にプレゼントしてもらったものを一年でコピーしてしまったようです。土佐の砲台にまで設置されていたとは驚きです。
名前はかわいいですが、なかなか侮れないです。

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しんちゃん

無印投稿  岡豊城 (2018/01/05 訪問)

岡豊城は国分川が笠ノ川川と合流する西側の丘陵地に築かれています。13世紀から14世紀ごろに長宗我部氏によって築かれたとされ、戦国時代に四国で勢力を伸ばす為の拠点となった城です。
詰(主郭)を頂部に北にニノ段が配され、間に堀切が走りニノ段には土塁と井戸跡が残っています。詰には天守‥模擬天守‥が建てられており眺望は良好です。南には三ノ段、四ノ段が配されていて、その先には厩跡曲輪があります。

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カズサン

【陸奥・小松柵】岩手県奥州市 安倍貞任叔父の小松館跡 (2024/05/23 訪問)

 衣川地区の接待館、衣川柵を終えて、前の道を西に約300m進み道沿い田圃側に案内板が有り寄ってみました。

 住所:岩手県奥州市衣川区横道下
 駐車場:無し交通量少なく案内板前に一時路駐
 参考資料:グーグルマップに依る。

 案内板には小松館跡(伝)、グーグルマップの史跡マークは小松柵(小松館)跡と成っています。現在は東北高速道東直近で田圃です。
 
 案内板によると
 康平5年(1062年)8月磐井郡の小松柵において、源頼義と清原武則の連合軍を迎え撃った安倍貞任の叔父、僧良照の居館であったと伝えられる。東側は衣川が蛇行南流して断崖に成っており、西及び南側は小成沢(東北高速道建設の為側道として埋められた)の崖に囲まれ北館から続く台地の突端部で広さは東西60m南北150mに及ぶ。中世、葛西氏の家臣が館を建て天正18年(1590年)秀吉奥州仕置きで廃された。
   

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カズサン

衣川柵初登城 (2024/05/23 訪問)

 接待館を終えて、前の道を西に約800mで衣川柵案内板に着きます。衣川柵初登城です。

 駐車場:無し、交通量は少なく案内板前に幅寄せして一時路駐。
 参考資料:グーグルマップに依る。

 衣川柵と聞くと安倍貞任と源義家の騎馬による歌合せ古代の武士の戦いは優雅だったのでしょうか?小学生の頃の日本史絵本が甦ってきます。
 事前に案内板だけと聞き及んでいましたので案内板と周辺、少し北奥を眺めて終了。

 案内板によると
 永承元年(1045年)安倍頼時が当時一帯に本拠を構えた、康平5年(1062年)9月安倍貞任撤退まで18年間安倍氏の政庁であった。その翌年の康平6年(1063年)から永保3年(1083年)までの20年間は安倍氏に替って奥六郡を支配した清原氏三代の政庁もしくは居館であったと言われる。
 

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カズサン

接待館初登城 (2024/05/23 訪問)

 白鳥舘遺跡を終え、衣川地区隣接地南西に約3~4km程の接待館を初登城。

 駐車場:接待館解説板前のジャリ地駐車エリア。
 参考資料:グーグルマップに依る。

 平泉には中尊寺、柳の御所、毛越寺、高館と何度かに分けて訪ねているのですが歴史で有名な衣川柵など安倍氏の遺構は訪ねて居ませんでした、今回の東北城探訪岩手県2日目に未踏の白鳥舘、接待館、衣川柵を入れて企画し訪ねました。
 事前に案内板?の探訪と覚悟はしていましたが、案内解説板と周辺を眺めて終えました。
 
 でも案内板を見ると結構広い遺構で東西約120m、南北約65mを堀と内外の土塁が廻っていた。堀と土塁で囲む中央に大量のカワラケを捨てた溝が発見されている。
 安倍氏の時代から奥州藤原氏の時代の伝承地も数多くあるようです。安倍貞任の活躍が有ったのでしょうか?古代中世のロマンでしょうか、中尊寺の北、衣川が蛇行して外堀の役目をしてる居館を造るのには適正地だったのでしょう。
  

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