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しんちゃん

実は桜の名所 (2017/05/03 訪問)

三戸城は熊原川の南に位置する河岸丘陵の上に築かれています。北東から南西に城域が伸び中央が膨らんだサツマイモのような形状をしています。やや北寄りの中央の小高い所に本丸が配され、南西の南部政直邸の跡地に天守に似せた温故館の建造物が建てられています。
実は桜の名所で、このいささか能天気な建造物も市民の良い憩いの場になっているようですが国の史跡に登録された関係で将来的な撤去を要求されているようです。たしかにこの模擬天守はどうかと思いますが何も無くなってしまうと地元の人も少し寂しいのではないでしょうか?やはり人は山の上に城を造りたがるんですね。
三戸城は天文8年(1539)に本三戸城(聖寿寺館)が焼失した後にこの地に南部晴政によって築かれたとされています。家臣が増えすぎてしまったためスペースに余裕のある当地に白羽の矢が立ったようですね。森岡城が築かれるまでこの地域の中心的な城郭として機能しましたが、盛岡城に居城が移った後は代官の支配下に置かれたそうです。
※盛岡城に移る前に九戸城に拠ってますね。あんな縁起の悪い城になんで移るのでしょうか?不始末をやらかしたので太閤さんから罰ゲームを喰らったのでしょうかね。

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しんちゃん

特別史跡・弘道館 (2019/01/05 訪問)

弘道館は水戸城の三の丸に存在した藩校で旧弘道館の部分が国の特別史跡に指定されています。創設は天保12年(1841)で水戸藩九代・徳川斉昭によって築かれたとされています。質実剛健・文武両道のイメージが強い水戸藩ですが、弘道館の派手すぎず、それでいて荘厳なたたずまいは特別史跡に相応しいと感じます。薬医門など遺構が少ないのも水戸藩らしいと思っていましたが最近はいろいろと建造物が復元されてきているようです。
やはり隣の芝生は青いというやつでしょうか?またどこかで長期休暇が取れたら東北へ行きながら水戸城にも立ち寄りたいと思います。

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カズサン

大空堀初探訪 (2024/01/30 訪問)

 昨年4月10日登城した折に松尾山より大空堀を見下ろし圧巻のスケールに驚愕し、草も枯れ周辺の草刈もされた冬枯れの時期に大空堀を探訪しようと思っておりました。
 令和6年の初登城は掛川城1月6日、以来寒さと出不精で3週間炬燵とパソコンで皆さんの投稿を拝見しておりましたが、昨日晴天風無く穏やかな日和、以前からの懸案の横須賀城大空堀探訪に出掛けました。

 駐車場:横須賀城西の丸西下の駐車場利用、トイレ完備。

 探訪ルート:駐車場より北側外堀を埋め立てた旧小学校の体育館現多目的センターの前の通りを東に農道を進む、横須賀城の北側畑の中を進む、北東辺りでアスファルト舗装の道を南に進むと大空堀標柱が在る。
 北東角、少し西に戻ってみる、角から東側、南東角と様子を探るが大空堀に降りれる所が無い、無理をすれば降れるようですが、赤穂城本丸横矢台の土塁法面で足を捻挫した記憶が甦り降りられない。
 残念ですが写真は外堀大空堀外からの写真です、しかしさすが城郭放浪記さんの写真館には大空堀の堀底からの写真も載っています。
 大空堀から三の丸への道を探しましたが、墓場よりの降下ルートも道が在るようで途中途切れて坂法面降りれない、三の丸から本丸へと思ったのですが引き返し駐車場へ。

 防御の大空堀ですのでそう簡単には降下は出来ませんが、何とか散策ルート階段を作っていただければ、大空堀のスケールを実体験出来るのにと思ったりしたり、大空堀の南東角から東、南は竹林で覆われて見通しが大変悪い、三の丸への外堀散策ルートと北側の外堀散策ルートの開設をお願い出来たらと思ったりしたり?

 取り敢えずは大空堀の探訪を良しとしました。
 

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イオ

北東の頂部? 西の頂部? (2023/11/25 訪問)

室町期に湯川光長が芳養川流域を支配するために築いたとされますが、詳細は不明です。

縄張図どころか城びとにもニッポン城めぐりにも口コミ投稿さえなく、ネットを探しても見付けられたのは古城盛衰記さんとちえぞーさんの登城記録のみ。何とも情報不足で心もとなくはありますが、出たとこ勝負で行ってみました。

まず古城盛衰記さんの案内にある県道199号線からミカン畑に続く作業道に向かいましたが、道があまりに狭すぎて対向車が来たら…と考えると進入する勇気が持てず断念。第2案として検討していた「東麓から直登」プランに切り替えるべく東側に回り込んで、芳養川に架かる境橋北詰の道が広くなったあたりに駐車して登城開始。芳養川越しに眺める峰山城の比高は40m。これくらいなら直登でも何とかなりそうです。

境橋を渡って山に取り付けそうなポイントを探しつつ進むと、山麓に建ち並ぶ民家への道が分岐し、民家の奥には山の中腹へと続くU字溝が見えます。U字溝があるなら道もあるはず、と民家の間を抜けてU字溝沿いの道を登って行くと、途中でU字溝を離れたり道が荒れていたりはしたものの、中腹の谷地形に設けられた貯水池に到着。貯水池の排水用のU字溝だったんですね。城びとやニッポン城めぐりの位置情報によれば、峰山城(の主郭)は貯水池の北側ですが、道は貯水池の前を西へと続いているので、まず西側に行ってみると、竹藪と化した谷の斜面のあちこちに後世のものと思しき石垣が築かれていました。このまま道を進んでも主郭から離れる一方なので、谷を回り込むように西から北東へと向かい、稜線に出ると右手は竹藪の下に貯水池、左手は果樹園の下に県道199号線が走っているのが見えます。そのまま稜線を進んで頂部に到着。ここが主郭のようです(たぶん)。

主郭だと思って見渡せば、北辺から東辺にかけてうっすらと土塁がめぐっている…ような気もします。東には木々の合間に芳養川の流れが見渡せる位置にあります。南東には何段かの腰曲輪があり、切岸には石垣らしきものもあったはずですが、写真を撮りそびれたようです。そのまま南東に下りて行くと、鞍部に大規模に石垣が築かれていて、北東辺には土塁っぽい地形も見られました。さすがに峰山城の遺構ではないと思いますが……何だったんでしょうね。そして鞍部から西に下りて行き、貯水池から来た道を戻りました。

…ということで、一応、城びと(とニッポン城めぐり)の位置情報の地点には行きましたが、古城盛衰記さんでは貯水池西側の頂部を峰山城としており、私の見ていない堀切と竪堀の写真を掲載しておられます。ちえぞーさんとは同じ場所に行っているように思いますが、ちえぞーさんご自身も「イマイチ自信なし」としておられるように、私も正直なところあまり自信がありません。ただ、峰山城が芳養川流域を掌握するための城であるとすれば、芳養川を見下ろす北東側の頂部を峰山城(少なくともその一部)と考えても間違いではないのかな、ということで、疑問もありますが「行った」をポチさせていただきます。

> ごちろうさん

古城盛衰記さんですが、うちのWindowsPCではChromeでは表示されませんが、Edgeなら見られます。ブラウザを替えて試してみてはいかがでしょうか。
 

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todo94

青春18きっぷで城カードゲット (2023/12/16 訪問)

お城EXPO出陣前、青春18きっぷを使って小田原城に攻め入りました。正午直前の小田原到着でしたので昼食をとってから攻城開始。無事、城カードをゲットすることができました。今回初めて、八幡山古郭東曲輪に足を伸ばしてみました。小田原城天守のバックに海を望むことができました。

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にのまる

ぴーかるさんおめでとうございます🎊

着実に版図を広げていらっしゃるご様子、しかも「ポチ」へのこだわりも持っていらっしゃって、日頃よりさすがだなぁと拝見しております。

ではおめでとうクイズです。
どうぞ!!

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小城小次郎

明治まで続いた群郭式のお城!? (2023/05/03 訪問)

阿曽沼氏が築城し遠野南部氏(根城の八戸氏)が長く居住したお城だが、面白いのは根城の各曲輪を陣取っていた一門衆が鍋倉城でも同じように各曲輪を陣取っていたこと。明治まで現役だった群郭式のお城って、他にあるかなぁ。

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朝田 辰兵衛

ぴーかるさん,正解です👍 (2023/07/15 訪問)

ぴーかるさん,瞬殺ありがとうございます!
わからないと言いつつ正解する“ノリ”も,大阪ならではでしょうか…?
解答は大阪のいたるところに点在している「残念石」です。大坂城内に説明版もなくありました。画像2枚を添付しましたが,同じ石の違う面(90度違い)を撮影したものです。
場所は,大手門をくぐり,太鼓櫓跡のすぐ手前となります。石山本願寺推定地の北側となります。

サービス画像として,ホテル京阪天満橋内の「AKARI灯」で食べたランチが美味しかったのでアップします。

それでは,次はにのまるさん,宜しくお願いいたししますm(__)m

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ぴーかる

コンプクイズの答え

しんちゃんさん、朝田辰兵衛さん、イオさん祝辞ありがとうございます。イオさん佐味城頑張ってください、楽しみにしております。

さて、クイズの答えですが、瞬殺どころか逆に2時間考えましたが、全然分かりませんでした。すみません、情けない(泣)
答え:大阪城で。 

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しんちゃん

先月訪問したばかりなのですが (2023/12/08 訪問)

正月早々の能登半島の地震には皆さん驚かれ心配されたと思います。犠牲になられた方々にお悔やみを申し上げるとともに被災者の方々の心身の回復と被災地の復興を祈ります。
このたびの地震では人々や建造物のみならず重要な観光資源も大きな痛手を受けており二重三重にも心苦しく思います。
見付島や時国家住宅も深刻な被害を受け、七尾城の石垣も一部が崩落してしまったようです。私も先月に越前大野城を訪問したばかりなのですが武具蔵跡の石垣が幅4m・高さ3mに渡って崩落したとニュースで見て驚きました。余震で崩れてしまったようなのですが、関係者の皆さんの尽力で元の雄姿を取り戻せるよう願っております。

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POYO58

感動しましたね〜 評価★★★★☆ (2023/12/10 訪問)

鎌刃城行ってきました!いやあやっとですよ!
ほんとは2年前の3月に行く予定だったんですけど、テストや雪やらクマやらなんやらで予定が合わずあっという間に2年が過ぎていました。
今回は絶対に行こうと思って計画して行きました。
まあでもすんげー大変でした。電車で行ったので地獄の徒歩。1時間半も歩き、コンビニなし。トイレもなくて無茶苦茶辛かったです。しかも歩数計はなんと3万歩を超えてました。今まで行ってきた城の中で一番ですね。史上最高更新!
高速道路の下の登城口を通っていざ登城!これも大変でした。冬なので熊の心配はないのですが、ここ一応事故地…転落死が心配でした。
友達と2人で歩く時もどちらかが落ちたらどうしようかと本気で考えながら登りました。北の郭あとちょっとというところの道がものすごく細くて超超危ないです。まじで気をつけてください!

北の郭に到着するとまず見えたのは北の虎口。すごかったです。石垣が二段ほどではありましたが、綺麗に残ってました。大櫓が立っていたそうですが、今は何もないのかな?ちょっと石があったのが見えたので礎石かと思いますが。展望台から見る景色最高ですよ♪ただ展望台登る時怪我に気をつけてください。僕はささくれで怪我をしました。
北の郭をでて本丸へと向かうとあの定番の虎口が見えてきました。迫力満点!本丸西側のには(っていうか西側か正確にはわかりませんが…)石垣が残ってますよ。ぜひ見てください。
さて次は堀切と大石垣編へ 続く

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しんちゃん

【とりあえず一句】山中城のへたっぴ川柳 (2024/01/25 訪問)

無双なり 日ノ本一の 堀と富士

「かるた」はとっくに終わっていましたね。ひょっとしたらと思ってましたが、やっぱりね。
「お城川柳」というのもずいぶん昔に終わってますね。またやらないかな~

とりあえず私は誰かに一つだけお城を紹介してほしいと言われたら迷わず姫路城を選びますが
もう一つと言われると山中城をチョイスします。まったく違うジャンルの城が良いんですね。
諏訪原城や滝山城と迷いますが土の城だとやっぱり山中城ですね。障子掘りと富士山の組み合わせが最高なんですよ。

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駿府城

冬の発掘調査現場

寒い日々が続いていますね。発掘調査現場では冬ならではの景色を楽しむことができます。冬の発掘調査現場でおすすめの景色をいくつかご紹介します!

①雪の積もった富士山
発掘調査現場から雪に覆われた富士山を望むことができます。
夏場の富士山とはまた違った趣があり、雪化粧された富士山は思わず写真におさめたくなる光景です。発掘調査現場に訪れたら撮影してほしい1枚です。

②お堀の水の変化
発掘調査現場のお堀の水は季節を通して変化しています。現在は水が非常に澄んでおり、お堀の底が見えるほどです。
この透明さは夏場ではあまり見られず、冬場のみの特別な光景です。
このように発掘調査現場は季節を通して変化しています。ぜひ冬の発掘調査現場に訪れて、その変化を感じてみてください。

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トク

1月3日に小倉駅近くで起きた火災の話 (2024/01/29 訪問)

1月17日頃の「辰兵衛」さんと「にのまる」さんとの間のやりとりの中にあった、1月3日に小倉駅近くで起きた火災の話です。実は私もあれからこの火事の事が気になっていたので、小倉を訪れて来ました。場所は魚町商店街の鳥町食道街で、JR小倉駅から徒歩で小倉城に行く場合、途中に通る場所です。

確かに福岡県外の方から見るとピンとこない「どこ?何それ?」といったような火事だと思います。しかし、福岡県内ではニュースなどにもよく取り上げられ、地元の人々にとってはショックな火事ではなかったかと思います。

その理由は、ここから国道を挟んだすぐの所には、北九州の台所と言われる「旦過市場」という所があり、そこでは一昨年4月と8月の二度にわたって大火災があり、その時市場は無残にもほぼ3/4を全焼してしまいました。

昨年秋、地元北九州出身で卓球の「早田ひな」選手が、全日本選手権で優勝してパリ五輪切符をほぼ手中にし、それだけでなくその優勝賞金の全額をこの旦過市場に復興義援金として寄付された事が地元では話題となり、市場の人たちは大変勇気づけられていました。その矢先にまた同じ原因での火事。これで三度目なので、もうここで商売を続けるのは辞めようかと思う人も多いのではないかと思いました。

訪れてみると、鳥町食道街は今でも焦げ臭い無残な焼け跡が散乱しており(写真⑥⑦)、焼けた店の方でしょうか? 呆然と立ったまま気落ちされた表情をされていたのが印象的でした。

しかし旦過市場の方では、火災を免れた1/4の店の人々が、明るく元気に営業を続けており、焼け跡のがれきも撤去され(写真⑧)復興計画も決まり、皆前を向いて復興に努力されている姿がとても印象的でした。

また早田選手が先週の全日本選手権でも再び優勝して2連覇を果たし、絶好調のままパリ五輪を迎えられそうで、地元の方々にとってはメダルも期待できると明るい話題になっていて、復興の後押しにもなっているのではないかと思います。

私は北九州市役所の15Fの展望室に上り、小倉城や関門海峡・小倉駅・魚町商店街・旦過市場をぐるりと上から眺めてみました(写真④⑤)。このあたり一帯の「魚町」は、「細川忠興」公が作った歴史ある商人町です。一日も早く復興されることを願っています。

最後に名物「旦過うどん」を食べて帰りました。(肉ごぼう天うどん)を注文すると、イリコ、カツオ、昆布でしっかり採っただしに肉汁が加わり、麺とパリパリのごぼう天にその味がしみてからまり(うまか~!)これが九州のうどんです! おでんもおいしいよ😊(写真⑨⑩)。

長々とローカルな話題をつぶやいてしまい、すいませんでした。
 

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イオ

鏡もち状の城 (2023/11/25 訪問)

室町幕府奉公衆として富田川流域に勢威をふるった山本氏が戦国中期に築いた城で、富田川対岸の居館(坂本付城)の詰城としてだけでなく居城としても機能したようです。羽柴秀吉の紀州攻めでは籠城の末に和睦するも、藤堂高虎邸で謀殺されて山本氏は滅亡、龍松山城も廃城となりました。

国道沿いの案内表示から対向困難な狭い道を上って行き、二曲輪に駐車して登城開始。龍松山城は二曲輪と三曲輪の上に一曲輪を載せた鏡もちのような形状の城で、一曲輪の周囲は鋭く高い切岸で囲まれています。一曲輪へは東辺に大手道が続いていますが、大手道の入口には説明板が、大手口の手前には虎口受けと見られる小曲輪がありました。主郭にあたる一曲輪は周囲に土塁をめぐらせた広大な曲輪で、発掘調査では礎石建物や国内外の陶磁器や生活用品、穀物等が確認されていて、居住の場でもあったようです。北端には山本氏の供養塔や顕彰碑が建てられており、謀殺の無念を思いつつしばし合掌…。色付いた紅葉も何やらもの哀しく見えました。

大手道を下りて、続いては二曲輪と三曲輪の散策です。二曲輪は公園化により改変されてはいるものの、南西辺には土塁が遺っていて、土塁上から見下ろすと富田川と熊野参詣道を掌握する位置にあることがよくわかります。土塁の南麓、登城道沿いには横堀と土塁がめぐらされていて(案内表示あり)、そこから竪堀が南に落ちているはずなんですが、竪堀は見付けられませんでした。東辺の低い土塁を眺めつつ北に進んだ先には、北東方向の尾根を断ち切る二重堀切がある…にはあるんですが、藪化していて上からではよくわからず、東辺の緩斜面から回り込んで堀底に下りてみても、堀底は藪に加えて倒木や倒竹で埋め尽くされていて、撮った写真を見ても何が何やら…。ただ、下りて行ったことで東麓の横堀と竪堀を確認できたので、無駄足にはならずにすみました。

二曲輪に上って反時計回りに三曲輪へ。三曲輪の南側には石積みが見られますが後世の土留めと思われます。三曲輪の北麓には堀切が、西麓の二ノ段には馬冷の井戸があったようですが、現在は梅畑になっていて痕跡は見付けられませんでした。そして二曲輪の駐車場所に戻って、龍松山城を後にしました。

> ぴーかるさん

大阪府に続いて奈良県コンプリートとのこと、さすがですね。懸案の佐味城は近場でもあり2月中には挑戦したいと思っています。攻略できるのか撃退されるのか……またレポートいたします。
 

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todo94

締め (2023/12/10 訪問)

この日の午後、上三川城⇒桜町陣屋⇒真岡城の順でめぐり、真岡城をトリにしたのは、真岡インターから帰路に着くためでした。真岡城の曲輪は小学校の校舎が建ち、グランドとなっていて立ち入ることができませんが、公園化された部分は自由に散策することができます。公園部分よりも陣屋の説明板がある一角の方が城としての趣を感じることができました。シェルさんの投稿にある公園の北側にある遺構には脚を伸ばしていませんのでここもいつか再訪せねばなりません。

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虎の子

青いライトアップの高知城 (2023/09/22 訪問)

急遽用事ができ、高知市に夕方IN、午前中OUTと高知市滞在が短かったので、
時間ができた夜にライトアップを見に行きました
勿論天守エリアには入れません、詰門に猫の門番がいましたから・・・

こんなに真っ青なライトアップなんだとちょっと驚き・・・

幼少から何度も登城しているが、百名城スタンプ集めを始めてからは初の登城。
夜中なので、スタンプは押印できず
(あわただしく出たので、そもそもスタンプ帳持ってこなかったが・・)
また、ちゃんと計画立てて来ますぅ!

p.s.百名城・続百名城に関しては、紀伊半島南部、愛媛、高知と九州(小倉城以外)、
  沖縄が残るのみ。仕事の空き時間を作って、あと2年くらいの内にはコンプリート
  したいものです

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朝田 辰兵衛

ぴーかるさん,奈良県コンプ,おめでとうございます!

ぴーかるさん,奈良県コンプリート,おめでとうございます!
恒例のおめでとうクイズ,いきたいと思います。
全然心の準備ができていなかったので,前回のクイズよりも簡単だと思います。
ズバリ瞬殺お願いします。

私のあとはにのまるさんにお願いしたいですが,大丈夫でしょうか…?

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しんちゃん

独特の設計思想を持った城塞。 (2017/05/04 訪問)

五稜郭は函館奉行所用の城郭で中世ヨーロッパの城塞都市を参考に設計がされているとのことです。石垣と土塁によって形成され、稜堡と呼ばれる5つの鋭角が星形に配されています。中心には函館奉行所が置かれ、それに付随する建物が20以上あったようで近代的な軍事要塞としての意味合いもあったようです。明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府軍に占拠されますが翌年5月に終結を迎えました。(函館戦争)
意欲的な設計ですが構造が均一化されているので配置を読まれやすい欠点が有るのではないかと思います。奉行所の太鼓櫓が軍艦「甲鉄」のアームストロング砲の射程内の距離3.5kmにあったため狙い撃ちされ、あわてて撤去したという逸話があるようです。欧州に同様の城塞で土塁が多用されているのは大砲を撃ち合う近代戦では直撃した砲弾が石垣を破壊し、飛び散った石の破片が将兵を殺傷してしまうかららしいのですが、五稜郭には石垣も多く用いられています。半月堡や本塁の石垣には「武者返し」と呼ばれるせり出しが築かれているようなので、次に訪れる際にはその辺をじっくり見てきたいと思います。

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しんちゃん

年末静かに訪問 (2023/12/30 訪問)

ぴーかるさん 奈良県制覇おめでとうございます。私はゆっくり東海四県コンプ&登録を目指してゆきます。
年末ということもあり龍野城の大手門は閉まっていたのですが裏口の通用門が開いていたので中に入ることが出来ました。10年前に訪れた際には城山にまで登っているのですが今回は麓の城のみの訪問です。山城の龍野城は標高210mの鶏籠山に赤松政秀によって築かれていたとのことです。(赤松政則が築いて実子の村秀に譲ったという説もあり)天正9年に龍野城は蜂須賀正勝に与えられ、天正13年に政勝が徳島に移った後は木下勝俊、その後は小出吉政が城主となったそうです。池田輝政が播磨52万石で入部した際には家老荒尾但馬守が城代となり、元和3年(1617)本多政朝が5万石で入り、このころに山麓の近世城郭として整備されたのではないかと考えられています。

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