(26人目)井伊直政の続き⑲です。
少しブランクが空いて申し訳ありません、浮気の話からの続きです。
直政最初の居城「箕輪城」を訪れました。訪れたのは昨年の12月なので、ちょっと古い写真ですいません。
高崎駅西口から群馬バスの伊香保行で30分「箕郷田町」(写真②)で下車しました。まずバス停そばにある高崎市役所箕郷支所(写真③)でスタンプをGETし登城開始します。
箕郷支所の前の旧下田邸には、忠臣蔵四十七士の中で隋一の剣豪「堀部安兵衛」の作と伝わる庭園がありました(写真④)。新発田藩の浪人であった安兵衛は、何度かこの下田邸を訪れ剣術の指南をしていたそうで、その時に依頼されてこの庭園を作ったとされています。そして安兵衛はその後、赤穂藩家臣の堀部氏の婿養子となり赤穂藩へ仕官する事ができたようです。ちょうど晩秋できれいでしたが、もう一週間早く来ていれば、もっと紅葉の色が鮮やかだったようで、そう思うと少し残念です。
箕輪城は大きく3つの時代(長野氏→北条氏→徳川氏)に分けられるそうです。まず箕郷支所からいちばん近い観音口から入ります。すると水の手曲輪に最初の長野氏の遺構がありました(写真⑤⑥⑦⑧)。武田との戦いの激戦を物語る歌碑で、水の手を断たれてよほど苦しかったのでしょう。しかし水を汲みに行った者はだれも帰って来なかったという悲惨さを詠んだ歌でした。そしてその武田が滅びると、直政が使者を務めた北条との交渉で、箕輪城は鉢形城主「北条氏邦」の持城となります。北条時代は現在の搦手口が登城口だったようです。氏邦は南東から西側にかけて空堀や郭馬出を作るなど、土造りの巨大な城を完成させ、その空堀や馬出は今でも残っています。
北条氏が滅びると、1590年徳川家康は秀吉の命で駿府から関東へ移封、江戸城の築城を始めます。直政はここで上野国を賜り、徳川家臣団で最高の12万石で箕輪城に入ります。そして北条時代の城を拡張し、更なる大改修を始めました。三の丸の要所には石垣を積み、さらに櫓門や木橋などを作り、城下町を整備します。1598年直政が高崎へ移った後、1615年箕輪城は一国一城令で廃城となったため、その後は手を加えられる事もなく、そのおかげで直政当時の石垣などが現在もよく残っていて、その直政時代の櫓門や木橋が現在再現されています。直政この時30才、15才の時に浜松で小姓として一介の草履取りから始まり、あれから15年後、ついにここ箕輪で徳川家臣団の筆頭にまで登り詰める事ができました。
私は観音口から登って、木俣から高崎市街の方向を眺めてみました(写真⑨⑩)。家臣団筆頭となり箕輪城主となった直政は、どんな気持ちでこの景色を眺めていたのでしょうか? きっと自分が家康様をここから天下人にしてみせると、この景色を眺めながら、固く心に誓っていたのではないでしょうか?・・・
次はいったん麓へ下りて、今度は直政時代の登城口である大手口から再度登城してみようと思います。
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