みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

カズサン

二度目のチョイ寄り岩木山見えず (2024/05/20 訪問)

 高屋敷館遺跡を終えて2、3km程南と近いので平成28年10月初登城以来8年振りで寄らなくてはと、するっと二度目の探訪を致しました。

 駐車場:浪岡城跡案内所駐車場を利用、月曜日休館日で案内所入館できずトイレも休館日使用できず。
 参考資料:グーグルマップに依る。

 案内所より探訪開始、前回も今回も案内所休館日に当たり案内資料など閲覧できずパンフレットも入手できずでした、猿楽館南下より東館に登り、東館より木橋、帯曲輪を通って北館東の虎口より北館を一巡、半柱の屋敷跡地表表示、板塀囲い屋敷跡表示、北館からは岩木山が見えるのですが、本日は朝は良かったのですが昼は雲に隠れて裾野だけが見えるだけ、残念!、帯曲輪を通て西館虎口と木橋、内館西虎口と木橋、北館西虎口を登って、浪岡城のメインの写真に成っている北館北木橋を眺めて来た道を戻る。
 
 前回は10月今回は5月で桜の時期では有りませんので桜の時期に晴天の岩木山を浪岡城で眺めたいものです。
 
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

平安時代環壕集落遺跡 (2024/05/20 訪問)

 縄文世界遺産三内丸山遺跡を終えて高屋敷館を初登城しました、高屋敷館は平成28年10月に浪岡城を訪ねた折り、浪岡ICより国道7号線バイパスを南下中に国道脇の遺跡標柱を見ながら通過した記憶の有る遺跡城跡です。

 駐車場:高屋敷館遺跡南に広い専用駐車場。トイレ無。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクショングーグルマップに依る。

 駐車場から北へ、国指定史跡高屋敷館遺跡名の石柱と大看板柱が並んで立っている、進んでいくと復元整備された壕、土塁が南側に、西側より食違土塁が西虎口か?虎口前に高屋敷館遺跡の解説板、木橋の左右内側に壕が廻っている、土塁が外側、壕が内側に廻ってる構造です、木橋を渡り内部へ、西虎口内側北に木製の柵列が一部復元、内部は竪穴建物跡、工房跡などが多く地表平面表示されている。
 東側には大釈迦川が流れて外濠の役目、大釈迦川の河岸段丘に位置する構造で裏虎口、裏出入口が東側に有る。西は国道7号線バイパスで区切られている。
 解説板によると大きさは南北約500m、東西約90m、平安時代の環壕集落遺跡との事。平成13年に国指定史跡に認定。

 国道7号線浪岡バイパス工事前の発掘調査(平成6年~7年)で発見されてバイパスルートを西に振り遺跡の保存整備がされたようで大変ありがたい事です。
 浪岡城を優先しスルーして8年振りの登城となった次第です。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

若狭の城めぐり④ (2024/05/11 訪問)

新保山城からの転戦です。有料の赤礁崎オートキャンプ場の中にありますが、見学者用の無料駐車場が遠く離れた南方にありますので、遊歩道をたどってアクセスすれば問題なく見学することができます。大砲も設置されていてきれいな公園として整備されていますが、見ごたえのある土塁や1号台場の排水溝など、さすが国史跡に指定されるだけのことはあると感じさせられる台場でした。同じく国史跡に指定されている鋸崎台場は大飯原発の奥に所在しますのでアクセス不可能です。国史跡に指定されていますので、城びとの登録物件になっているのは当然かもしれませんが、福井県の登録物件コンプリートが不可能というのはかなり残念なことです。

ぴーかるさん 返信ありがとうございました。実は先週、鵞足炎を患ってしまい、階段上りの際に右膝に痛みが走ります。幸い今は山城オフシーズンなのですが、秋までに治るかどうか。原因はオーバーワークとのことなので日ごろの酷使を反省しています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

佐料城 香川県高松市 (2024/05/06 訪問)

勝賀城の麓にあります。
香西氏が築いた城で勝賀城は詰めの城、平時の居館はこちらでした。
勝賀城への麓からの登城路途中に案内板があります。

奥津神社や周囲の住宅地が城趾で堀の一部が残っています。
訪問時にはちょうど黄菖蒲が咲いていました。
しばらく住宅地をウロウロしましたが他には遺構はなさそう。
ただ側溝が堀の跡と想像され、なんとなく城の範囲がわかる感じでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

100【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (井伊谷城②-直虎と直政) (2024/02/14 訪問)

(26人目)井伊直政の続き②です。井伊谷城を訪れてきました。
祝田からまた同じ奥山行のバスに乗り10分「井伊谷」で下車しました(写真⑩)。

バスを降りてすぐの右手の路地に入ると井伊家居館跡がありました(写真①)。公民館には説明板が立っていて、この公民館とその右のアパートが建っている場所この一帯に居館があったようです(写真⑦)。そして後方に見える山が「井伊谷城」です。ここにあった居館で、幼い頃のおとわ(直虎の幼名)は父の直盛と過ごしていました。さあここから井伊谷城まで15分の登山です。登山道は狭く急坂ですが舗装されていたので登りやすかったです(写真②③)。訪れたのは2月中旬でしたがのにもう彼岸桜が満開に咲いていました(写真④)。

山頂本丸まで登ると(写真⑤⑥)、ここから井伊谷が一望できました(写真⑧⑨)。龍潭寺や祝田も見えました。その向こうには三方ヶ原や浜松があります。ドラマでは、幼い頃のおとわ(直虎の幼名)と亀之丞(直親の幼名)がいっしょにここでよく遊んでいたシーンがありましたね! おそらくこのあたりでしょうか? 竜宮小僧が出てこないかキョロキョロ見渡しましたが、私の前には現れませんでした(笑)。今川からの支配がなければ、直虎と直親は夫婦になってここで幸せに暮らしたのかも・・・? ありえなかった話ですが、そんな二人も見てみたい気持ちになりました。

井伊家が今川から滅ぼされて10年後、井伊家を滅ぼした今川も武田から滅ぼされ、またその武田も織田から滅ぼされ、井伊谷は徳川の所領となりました。直親の13回忌の法要を機に、直虎は鳳来寺より虎松を呼び寄せ養子とし、龍潭寺にて修行させます。そして二人はここから井伊家再興を夢見るのでした。

次は、その麓の「龍潭寺」へ行ってみます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

👹オニカブト👹 (2024/04/20 訪問)

ここは,現在の集落の名称である「富並」ではなく,別名のほうの「鬼甲(オニカブト)」という名称で通っています。墓地の裏側に開けたエリアがあり,そこが駐車場であり登城口で,パネルが設置されています。そのパネルにようやく「富並」が登場します。国道347号線沿いの案内板も「鬼甲城」表記です。
いかにも強そうなネーミングの「鬼甲城」の城址碑は,期待どおりの存在感でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ごんぎつね

竹林に囲まれた遺構 (2023/10/07 訪問)

小机駅から徒歩約15分。
住宅街の中に入口が…見落とすところでした。

本丸までの道に大きな空堀が!圧巻です!
本丸は広く、木々に囲まれていました。
当時はここからどのような景色が見えていたのか気になります。

そして二の丸に行くまでの道は竹林に囲まれており、
とても癒しの空間でした。

本丸が小机城の隣には大きな道路が走っており、
地下を通って対岸に行くことができます。
そこには富士仙元大菩薩という石碑が建っていましたが、
こちらも城の曲輪であったのでしょう。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

たか

種子島家を大事に守られてる方々に感激 (2024/05/30 訪問)

月窓亭に寄ってびっくり。
お茶と黒糖、安納芋、黒棒(黒糖のお菓子)まで出して頂き種子島家の歴史に触れました。
ひとつ葉の会という維持管理されてる方々のやさしさに感激しました。

月窓亭を出ていざ赤尾木城へ。
現在は小学校になってましたが石垣も立派に残っており、ぐるっと一周回って満足な一日になりました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

斯波高経 (2024/05/30 訪問)

 南北朝時代、北朝方の武将斯波高経が拠点とした城です。藤島の戦いでこの城を出た軍勢が新田義貞軍と遭遇し灯明寺畷にて義貞を討ち取ったと伝わっています。遺構はないと思われますが、石碑と説明板がありました。

 えちぜん鉄道三国芦原線新田塚駅より徒歩で30分くらいかかりました。

+ 続きを読む

堀江景經 (2024/05/30 訪問)

 堀江氏は坂井平野北部の荘園を支配した有力武将で南北朝期から室町時代前期にかけては斯波氏の下で勢力を振るい、朝倉氏が台頭してくると重臣となったと伝わっています。番田の堀江館跡に行きました。

 えちぜん鉄道三国芦原線番田駅から徒歩約3分の場所に石碑と説明板があります。

+ 続きを読む

栗原源左衛門 (2024/05/30 訪問)

 幕末に丸岡藩が沿岸警備のために建設したものです。内面と側面は石を積み、外側を土砂で造るという二重構造になっています。

芦原温泉駅よりバスに乗り梶浦バス停下車。徒歩約5分で行くことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

港のヨーコ ♪ (2024/05/24 訪問)

あんたヨーコって娘を探してるんだって? 悪いけど他(ヨソ)を当たってくれないか‥
なんでって、そりゃ ここが横須賀市じゃなくて静岡の掛川市だからだよ
(~♪ 伴奏) ‥アンタ あの娘のなんなのさ?  港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ~♪

横須賀城は武田勝頼に奪われた高天神城を奪還するために、天正6年(1578)に徳川家康が大須賀康高に命じて築かせました。現在は国指定史跡に指定され、「横須賀城址公園」として整備されています。
天竜川で採取される、丸い河原石を積んだ玉石垣で築かれているのが最大の特徴で、段々状に玉石垣が積まれ、最高所に本丸が置かれ、北東隅部に天守台が築かれています。本丸の北東には北の丸があり、その東側に古い本丸跡とされる松尾山があります。
本来 石垣の隅部は角型に整えられた石で算木積になっているのですが、ここの算木積の部分は丸く細長い石で積まれています。
算木積まで丸いというのは愛嬌があって良いと思うのですが、正直 崩れてこないのが不思議です。
古い縄張図を見ると、海城と言ってよいほど、かつては海に近かったようです。耳を澄ましてみると、遠く潮の音に紛れて横須賀城の兵たちの喧騒が聞こえてくるような気がします。
さて、次に向かうとしますか‥

(横須賀城の声) さっきのやつが言ってたけど、ヨーコって娘は港町を流れているんだって? きっとその娘は海が好きなのさ。
今ごろ寂しがり屋の子猫を抱いて、海に向かって独り言をいってんだろ‥
寂しくなったら、いつでも来いよ。昔ほど近くじゃないけど、こっちにだって海はあるんだぜ。
(~♪ 伴奏) ‥遠州灘だけどよ(フッ)   港のヨーコ・カケガワ・ヨコスカ~♪        
ざーん(波の音)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

こちらこそ感謝です

todo94 さん、新保山城 お礼のお言葉こちらこそありがとうございます。いつも特に山城の魁を行っていらしゃるので、山城攻めの時に大いに参考にさせてもらっています。面白かったのが、尼子十砦の寺山城は投稿が貴殿お一人で、「王子神社から無理矢理登ってみました。」で現地に行って見て「俺、無理だわ。」と爆笑しました。タフです。
 三方五湖初めてだとか。私は若かりし頃、車を初めて買った時にドライブしたのが琵琶湖1周と三方五湖です。凪の湖(海)もまたいいものです。

+ 続きを読む

小城小次郎

東に向いた戦国の城とは (2023/11/11 訪問)

土肥実平に連なる小早川家が明治に再興され、時の当主・小早川四郎氏の書による城址碑が立っているのは実平との関連なのだが実平と土肥城を繋げる物的証拠はない。でもこの「東に向いた戦国の城」は何のための城なのだろう。

+ 続きを読む

天守無しがアツい

閉門時間が早め (2024/05/30 訪問)

(URL)http://kagurazakaguide.web.fc2.com/5060.html

JR飯田橋駅から歩いて10分ほどの場所…坂を上った先に(一応)城跡があります。その名は牛込城跡…別名は光照寺

1度目は(17時まで開いてるものと思っており)16:30に入口に辿り着きました…しかし…(1枚目をご覧の通り)既に閉門…開門時間は16時まででした😭

門の注意書きに「防犯上の理由から閉門時の入山と墓参りはできません」とあり、仕方が無いので日を改めて伺うことにしました…そしてその約2ヶ月後…今度は14時に来訪…文句無しに入場することができました😁

本堂に向かい御賽銭120円を賽銭箱に入れて参拝…その際、注意書きに「許可なく境内の撮影を禁ず」とありました。墓参りの客と墓のお手入れをしているオジサン以外誰もおらず、許可を取る対象者が見当たらなかったので、今回は境内の撮影無しにすることとしました

境内に墓地があったので、そこを一通り見学しました。江戸時代には旅先で客死する者が(現代より)多かったそうで、彼等を弔う墓石…狂言歌師(名前失念)の墓石🪦

あとは…大名…庄内藩から江戸を行き来していた大名のお墓もありました。ただそこは…東日本大地震以降、墓石の倒壊が起きてるそうで…関係者以外立ち入り禁止…周りを格子で囲まれてました

境内の代わりに、門の前にある光照寺の石碑(2枚目)を撮影。20分と短めの滞在ではありましたが、上記のとおり一度訪れ損なってるので、その補完ができただけで満足でした(^∇^)

+ 続きを読む

ぴーかる

淀江台場 (2024/03/30 訪問)

【淀江台場】
<駐車場他>公衆トイレあり。トイレの横に4台分程の駐車場あり。
<交通手段>車

<感想>日帰り尼子十基制覇の旅ラスト5城目。夕刻ギリギリの駆け込み攻城。淀江台場は国史跡である鳥取藩台場跡の一つで、1863年に松波徹翁によって設計および築造されました。松波徹翁は鳥取藩の郷士に取りたてられた大庄屋役で鳥取藩台場のほぼ全ての土地提供・設計・地元農民を指揮して築造した大した人です。
 現地はメインとなる土塁が残されており、当時は残る土塁の両サイドに斜めに短い土塁が付いていたそうです。土塁上には砲台跡と思われる遺構は表面観察では残っておらず、海を眺められるベンチがあります。土塁の後ろ側も公園化されています。
 これにてこの旅終了。日帰り旅で一番走行した、687㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

本丸周辺 (2024/01/25 訪問)

西の丸を散策したあとは木の根道を通って北の丸→本丸→二の丸と訪問します。各曲輪の周囲には堀が配され、土塁も良好に残って(復元?)います。本丸の北東には天守櫓の跡があり、本丸堀には障子掘が再現されています。そのまま箱井戸を経由して駐車場に戻りました。西の丸の方が華やかには見えますが、さすがに山中城の主要部だけあり、遺構が充実しています。
守兵4千に対し、攻め手が4万という状況で衆寡敵せず数時間~半日で落城したとされますが、そのわずかな時間に敵味方大勢の命をかけたドラマが凝縮されていたと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

ファイトッ (2024/05/25 訪問)

城びとでは2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」で早くも盛り上がりを見せていますが、田沼意次の居城のあった、牧の原市では「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~」に田沼意次(配役・渡辺謙さん)が出るとのことで、地味に盛り上がりを見せております。
近世城郭としての相良城は明和4年(1767)に田沼意次によって築かれたとされています。
田沼意次の石高は最終的には5万7千石にまでのぼり、相良城もその石高に相応しい立派なものだったようですが、息子の意知が殺害されてから勢いが衰え、意次の失脚後には孫の意明が陸奥下村藩1万石となり、相良城はその後、徹底的に破壊されたようです。
二の丸跡に建つ牧之原資料館の入場券は七曜紋の書かれた御城印のようで洒落ています。萩間川近くには仙台候・伊達重村に寄進された仙台河岸が残り、相良城の貴重な遺構とされています。グーグルマップを拡大すると場所が特定できます。
意次公は江戸にいたと思うので、相良城の出番がどれだけあるかは不明ですが、意次公にあやかって相良城周辺も盛り上がっていくと良いですね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/05/18 訪問)

福岡・佐賀城廻 第二日目その2
唐津から等や城へ移動の途中、呼子を通ったが、できれば途中下車してイカの姿造でも食べたかったが断念。以前食べたことがあるが絶品、時間がある鷹はお勧めです。
まず博物館でスタンプをゲットし展示内容を見ながら事前勉強。名護屋城のジオラマや歴史のほか秀吉の黄金の茶室の展示されていた(ど派手でした・・)。
城跡はじっくり回ると2時間は必要、山里口の二重虎口などを見るならさらに時間が必要です。
石垣はところどころ崩れているが、これは江戸期の破却の跡かもしれません。広大な城域からは秀吉の権威を感じる。天守などの復元されると壮観だろうなという感想。

本日の行程は以下の通り
※唐津城と共に登城
※博多に前泊
7:22西鉄天神高速バスT(高速バス)、8:40唐津城入口
 (徒歩2分)唐津城(9:00-16:40)

11:50(徒歩16分)大手口(路線バス)、12:36名護屋城博物館入口
 (徒歩6分)名護屋城博物館(9:00-16:30月休)

16:19名護屋城博物館入口(路線バス)、16:49,17:01西唐津(JR,地下鉄)、18:13天神
 泊:博多

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/05/18 訪問)

福岡・佐賀城廻 第二日目
唐津城は海城なので、最初に城跡脇の橋を渡り海越しの城など約270度くらいの角度から眺めてみた。
本丸には斜行エレベータ(100円)で一気上り、天守から攻略、石垣や虎口を観ながら降りて行った。天守は模擬天守で中は唐津の歴史や唐津焼の展示がある。城内橋辺りからも映えスポットが多くカメラ好きにはたまらない城かと。

本日の行程は以下の通り
※名護屋城と共に登城

7:22西鉄天神高速バスT(高速バス)、8:40唐津城入口
 (徒歩2分)唐津城(9:00-16:40)

11:50(徒歩16分)大手口(路線バス)、12:36名護屋城博物館入口
 (徒歩6分)名護屋城博物館(9:00-16:30月休)

16:19名護屋城博物館入口(路線バス)、16:49,17:01西唐津(JR,地下鉄)、18:13天神
 泊:博多

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ215