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todo94

ドラゴンアイのついでに (2024/05/25 訪問)

翌日の東京優駿(日本ダービー)の入場券を手に入れることができたので、この日は本当は東京の城めぐりをするつもりでした。そんな折、八幡平のドラゴンアイが見頃となった情報が入り、急遽、前夜に家を出て早朝、気温0度の中、霧の中にたたずむドラゴンアイ(鏡池)を拝むことができました。更に帰りがけには松尾鉱山の廃墟も遠望することができて満足です。正直、田頭城はメインではなくおまけで立ち寄っただけです。ヒメジョオンだか、ハルジオンだかが生い茂っていました。ローラーすべり台も使用されている気配がありませんでした。空堀などの遺構はなかなか見ごたえがあるのですけれども。このあとは西根ICから帰路に着き、翌日の東京競馬場出陣に備えました。

朝田辰兵衛さん、しんしんちゃんさん ご心配いただきありがとうございました。だいぶ快方に向かっているので10月下旬には山城攻めを再開できそうです。とりあえず、今月は都会の城をちょろっとめぐるだけの予定です。

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赤い城

飛鳥山城 東京都北区 (2024/05/15 訪問)

ご存知飛鳥山公園です。
ここにも城があったとのこと。
もちろん遺構はありません。
ただ、小高い丘になっているので城があったことは推測できます。

徳川吉宗が享保の改革で整備したことや渋沢栄一の別荘があったことで知られています。
新一万円札の発行がもうすぐでもあり、渋沢推しな感じでした。
時間があれば敷地内の3つの博物館を回るのも良いかもしれませんね。
春は桜、梅雨時期は紫陽花など花の名所でもあります。

もっとゆっくり散歩したかったのですがこの日は奇跡的に当選したライブがあったので駆け足での訪問となりました。

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チェブ

実は私も、、、。

しんしんちゃんさん、すごいなんて とんでもない。
私は、山城は入口で退陣ですし、肝心な遺構を見逃してるなんて、いつもの事です。
城びとオールスターの皆さんの投稿で、自分の行ったお城の答え合わせをしている感じです。

で、昨年10月に1日歩き回り帰って来て、足の親指が黒くなってました、今年の2月に大島から帰って来たら親指の爪が取れました。
これを、きっかけに膝痛です。
'`,、('∀`) '`,、やってしまいました。

めまい、腰痛、膝痛の三重苦ですが、お城攻めは、心身共に健康にしてくれてます。
ですので、これからも脱線ばかりする投稿をしていきますので、よろしくお願いいたします。

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しんちゃん

登ってみたけど、よくわからん (2024/06/01 訪問)

先週、高天神城を訪問したので、昨日 リハビリに三岳城、只来城、犬居城の遠州山城をハシゴしてきました。元々 両膝を痛めてから城攻めを始めたという経緯はありますが、40代のころと50代に入ってからでは膝の筋肉の力が少し落ちてきている気がします。
たまにこうして山城を攻めながら平城、平山城(丘城)をバランス良く攻めていきたいですね。現状山城比率は2割弱です。少し少ないですが、秋に向けて減量や筋肉増強など体調を整えていきたいです。
朝田さんの投稿にありましたが、私もtodo94さんの鵞足炎のことは心配です。鵞足だと腿の内側の健と脛骨を繋ぐ重要な部分ですので、やはり今は安静にされるのが良いと思います。
私が城びとを始めて凄いなと思ったのはtodo94さん、とある煩悩の登城目録さん、あとぴーかるさんですね。カズサンさんはもっと凄いですね。もちろん山城(どんな城でもOK)を果敢に攻めてる皆さんや、チェブさんや にのまるさんも凄いですよ。返事は無しで大丈夫です。私は気にしませんので。 ご回復を願います。

只来城! 入口わかりにくっ! でも無料の地形図アプリがあるのでルートの想定はつきます。以前訪問した際は西からの林道はふさがっていたので東から攻めます。川の手前の道を左折、そのまま進んで未舗装の道が突き当たるので、手前の脇から入って回り込むようにして登城道から入ります。要は尾根の末端から尾根沿いに攻めていくわけです。
正直、遺構に乏しいです。武田信玄が進行してくる際に馬場美濃守が攻略したようなのですが、主要部の何割かは林道に占拠され、土塁や堀切などは見当たらず。南の広い扁平部の中間に不思議な石積みがあるのだが、櫓台にしては小さいかな? 烽火台の役割を持った砦のようなものだろうか。 途中にも石積と扁平地はあったけど地元の方の話では畑の跡だったらしい。やはり私が見た中では郭の中の石積が唯一の遺構かな?さすがにそれも違うと悲しい物がある‥

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朝田 辰兵衛

todo94さん,大事になさってください👏 (2024/04/02 訪問)

山城攻城にヒザは致命的ですね…。グルコサミン服用での対処では,すでに間に合わない状況でしょうか…?
日ごろからtodo94さんのレポートを参考にさせていただいておりますので,残念です。どうか無理せず,大事になさってください。

荒砥城ですが,蛇井戸伝説が興味深いです。『敵の攻撃を受けた時,空井戸の龍神に祈ると,不思議にも水が湧き溢れ空堀に水が充満して,敵の侵入を防ぐ難攻不落の城になるという』と,蛇井戸のパネルに書かれていました。今でも地元の婦人会の方が大切に保存活動をされています。この日,たまたまタイミングが合ってしまいました。

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カズサン

主郭まで逓減四段頂部は崖で平川へ (2024/05/20 訪問)

 大光寺城を終えて南下約5km程の石川城を初登城、別称に大仏ヶ鼻城、大渕ヶ鼻城とも呼ばれて居り大仏公園として整備されている。

 駐車場:大仏公園北西下駐車場利用。トイレは公園(4郭)に在ります。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 利用した駐車場から北登城階段横に在った石碑「大渕ヶ鼻城跡」を撮影し、戻って南側のなだらかな登りスロープを使って4郭に当たる大仏公園広場へ、南スロープを使って3郭花見広場へ、同じく南スロープを使って2郭へ、1郭へ一郭の背後尾根を使った土塁で背後には柵が有り落下防止柵、切り立った崖で平川へ落ち込んでいる、平川傍の切り立った独立峰を利用した城郭、4郭から逓減されて3郭、2郭、1郭と階段状に連なってる。
 4郭からは岩木山がより近くに見えましたが頂上は雲に隠れていました、すっきりした岩木山が見えませんでした。

 案内板によると。
 鎌倉期は曽我氏が支配し、戦国期南部氏が侵攻し津軽を支配しここを居城とした。元亀2年(1571年)城主南部高信は津軽為信に滅ぼされ、その後為信は津軽を統一した。慶長16年(1611年)弘前城築城に際し、堀越城などと共に大仏ヶ鼻城は廃城された。(案内板抜粋)
  


 

 

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しんちゃん

大知波峠廃寺跡 国の史跡・静岡県湖西市 (2019/02/17 訪問)

今回はシンカーで攻めさせていただきます。浜名湖の北西に位置する湖西連峰(標高350m地点)に位置する大知波峠廃寺跡は、10世紀中頃から11世紀末頃までに栄えたとされ、伝承の一切残っていない「幻の山寺」と呼ばれています。
天台宗や真言宗が伝わった平安時代には各地に多くの山寺(密教系)が作られ、以後の時代の山城の元になったとされており、大知波峠廃寺もそういった密教系の山岳寺院なのではないかと考えられています。
建築物の基部になった石垣などの遺構が良好に残っており、国の史跡として登録されました。最近ニュースで池跡に勝手に手を加えて畝の様な物を作った人物がいました。なんでもメダカのために水を溜めたんだとか。メダカも誰かが勝手に入れたようです。国の史跡をなんだと思っとるねん。

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小城小次郎

わかりにくい・・・が、そこがよい (2023/11/23 訪問)

相合元網を担いで毛利元就との家督争いに挑んで敗れた坂(さか)広秀ら坂氏の居城。登城口の看板が撤去され登城路も不明瞭だが確実に城には辿り着けるしメリハリの効いた遺構も存分に楽しめる、不思議な魅力に溢れたお城。

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チェブ

再登城を誓う。 (2024/05/04 訪問)

今回の旅行で、悔しい思いをした「前川本城」です。

伊達家の家臣 砂金氏が築城しました。「前川城」に移り「前川本城」は廃城しました。
道路沿いに説明板と縄張り図があります。
路駐して写真を写しました。説明板の奥にスペースがあるので駐車できそうです。

下調べをしていないので、登城を諦めました。

今回、他にも仙台市にある『いち福』のお団子を楽しみにしていましたが、長蛇の列に退陣しました。
あと、『ハラコ飯』も時期が違うと言う事で諦めました。

秋になったら『ハラコ飯』を食べに行けるかな?
その時に、再登城を誓う「前川本城」です。

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しんちゃん

いごっそう (2024/05/25 訪問)

先ほどの投稿では大河内源三郎政局についての記述は有りませんでした。天正2年の第一次高天神城の戦いの際に城主小笠原長忠は武田勝頼に降伏します。この時、勝頼は寛大な対応を見せ、降伏後の挙動は各人自由としたので小笠原長忠は勝頼に臣従し、大須賀康高、渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣らは高天神城を退去し浜松城の家康の下に帰還。大須賀康高は馬伏塚城から横須賀城の城主となり渥美・坂部ら帰還組は「横須賀衆」として康高の与力にとなりました。
高天神城の落城の際に、ただ一人、降伏をしなかった軍監・大河内政局は勝頼の怒りを買い、石牢に7年も幽閉され、救出された時には視力を失い、歩行も困難になっていたそうです。政局は出家し皆空と称しますが、小牧・長久手の戦いの際に徳川家康に召し出されて長久手にて戦死したそうです。出家までした人をわざわざ戦場に呼び戻すとは、家康さんも余裕がなかったのでしょうか? そのあたりの情報が不足しているので、ゆっくり調べてみたいですね。
勝頼さんにすれば、これだけ寛大な対応を見せているのになんで?ってっ感じですかね。

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赤い城

金田(こんだ)城 茨城県つくば市 (2024/05/11 訪問)

週末東京出張があり、後泊して登城しました。
四国にも良い城多いですが久しぶりに堀底道を周回したくなったので以前から行きたいと思っていたここへ。
金田池の側に車を停めて民家の脇から登城します。

すぐに主郭へ、広く整備もされていました。
土塁が囲み、その先を覗くと深い堀底道!
まさに「これこれ!」最近欠乏していた成分を取り込みました。

堀底道へ降りるとその深さを改めて実感できます。
この辺りは平地なので掘るしか無いのですがそれにしても良く掘ってあります。
もちろん周囲し、十分な栄養を補給できました。

小田四十八館とされ、沼尻氏が居城としていた城だそうです。
単郭の城、未登録ですがこの堀、おすすめです!

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しんちゃん

〇〇〇 近世城郭の癒し系 〇〇〇 ......〇 (2024/05/25 訪問)

~♪ ~~♪ ~~♪♪  ~♪ ~~♪ ~~♪♪ 例の曲の弾き語りのフレーズが頭にこびりついて離れない。ヘビーローテーションってやつだ‥。でも今日は多くの城びとの投稿があって、久々に盛り上がった感じです。
(声) ‥いいことだぜ。
‥さっきから宇崎竜童さんのようなシブくてカッコいい声が聞こえてくるんだけど‥
(声) ‥それほどでもねえよ(フッ)

横須賀城の北東にある松尾山は古い本丸が有った場所とされ、土塁や腰郭が残っています。玉石垣が見事な主要部と異なり、ネイティブな雰囲気が残り、多門櫓があった場所とされています。このあたりにはカラスが数羽いるのですが、カラスによって声色が異なるのが面白いです。近年、異なる種類の小鳥でも鳴き声を使い分けることで簡単な意思疎通ができることがわかっています(ダーウィンが来たより)。 カラスたち、何を話しているのかな?
引き返そうとすると後ろから「カーカー」と声がします。振り返ると ピタッと静まる。それを4回ほど繰り返します。
いつまでもカラスと「ダルマさんが転んだ」をしていても仕方が無いので戻ります。最後にもう一回、玉石垣にご挨拶。一部に祠のように角型になった部分があり、天井部分に角石がはめ込んであるようです。後世の改修でしょうか? それにしても見事に丸い石です。
城びとも、そうでない人も、心が疲れたらぜひ、横須賀城に来て玉石垣に癒されてほしいです。

(横須賀城) ‥いつでも来なよ(フッ)

ざーん(波の音)

〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇 〇  ......〇  

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街中の門跡など (2024/06/01 訪問)

 西尾市歴史公園の周辺、街中の門の跡などを散策しました。

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足利義氏 (2024/06/01 訪問)

 以前にも登城したことはありましたが、近くへ来たので寄ってきました。
承久の乱(1221年)の戦功により三河国守護に任じられた足利義氏が築城した西条城(さいじょうじょう)が始まりと伝えられています。天正13年(1585年)三河を治めていた徳川家康の命により城が修復され西尾城の基礎となる城が完成しました。この城の天守は本丸ではなく二の丸にあります。本丸丑寅櫓、鍮石門、本丸と二の丸の土塁や堀、天守台、二の丸丑寅櫓と二ヶ所の屏風折れのある土塀などが復元されています。また城下を堀で囲む総構えであったようです。街を歩くと門の跡などに石柱や説明板がありました。
 葉の茂るこの季節は城址は山城でなくても見学に不向きだと思っていますが、それなりには楽しんで散策できました。

名鉄西尾駅から徒歩15分くらいで城址である西尾市歴史公園に行くことができます。

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今川氏発祥の地 (2024/06/01 訪問)

 駿河の領主というイメージが強い今川氏ですが、ルーツは三河にあります。吉良荘西条城主であった吉良長氏が次男の国氏に今川荘を与え、国氏が地名にちなんで今川氏を名乗ったことが今川氏の始まりと伝えられています。今川氏は後に駿河に移り住み勢力を伸ばしていきます。跡地には石柱と説明板、奥には今川了俊の供養塔がありました。
西尾城の旧称が西条城であり、周辺観光として投稿させていただきました。

 名鉄西尾駅からは西尾城と反対方向に徒歩15分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

      M(エム)       (2024/05/25 訪問)

ちょっと足を山城に慣らしておきたかったので、リハビリを兼ねて高天神城に行ってきました。搦め手から攻めれば、比高もそんなに高くないし楽勝じゃね? と思って登ってみたけど、いやあ なかなかどうしてどうして、結構キツかったですわ。本丸と西の丸でいいかな~って思ってたけど、さすがに見所が多くて井楼曲輪まで訪問しちゃいました。
ずっと目の前にニンジンをぶら下げられている感じで、途中で足抜けさせてもらえない。さすがは続百名城ですな。井楼曲輪の前に二つ横たわる堀がえげつなくて、当然のように橋なんてかかってない。以前ならぴょんぴょん渡っていったところを、えっちらおっちら進んでいく。でも‥それがいい! 城攻めはしんどいのを楽しむのも、楽しみの一つだと気が付きました。何か扉が開いたような気がします。

いつも一緒に~いたかった~♪ 
それは別のエム!

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天守無しがアツい

山中城 二の丸 (2024/05/19 訪問)

売店で天たま蕎麦を食べて武将印2枚と城カードを買って準備万端にしてから右側半分…本丸側へ…三ノ丸の道を歩き階段を上り進みます

1枚目の場所へ辿り着き1枚撮影…この辺りは北条氏の居城だった頃は一面赤土…だったようですが、長い年月をかけて植物の花粉やら胞子やらが飛んできて受粉し、芽が出て草木となり…という過程で現在はご覧のとおり、一面緑が生い茂ってます🌱🌱🌲この様子がなんか印象的だなと思えました

本丸から二の丸を結ぶ橋(半分土橋、もう半分は木で出来てる)から見下ろす空堀(2枚目)…何ヶ所か見える凸のようなものは畝といい、北条氏の設ける防御機能の特徴的な存在。緊急時には木橋のみ堀に落とし、敵軍の本丸への侵入を防ぐ役割も果たしたそうです

天守櫓跡(3枚目)…本丸のもう少し先へ歩を進めると…ここに辿り着きます。ここに天守台がかつて存在…そして(スペースからして大きい天守が立っていたとは思えないので)櫓がかつてここにあったと推定はされるが、その柱穴は植樹により撹乱されていたため、確認できなかった…🏯

ちなみにこの城跡(山中城)…当時の建物は何一つ残ってません…売店にトイレ、休憩所があるくらい…(この城は堀を基本とした自然の要塞とは言え)当時建物は多少はあったと思うのですが、豊臣軍が攻め込んだ際に取り壊されてしまったのか…🔥

西の丸(4枚目)…「建物跡は発見されなかった…開墾耕作により撹乱された可能性が高く、あったとしても臨時の小屋程度」と案内文にあります。天守にせよ他の施設にせよ…あったとしても、やはり臨時的な小さい建物だったのではないか…と私も思います。そして北条氏が滅んで豊臣政権も終わり、江戸時代になるとこの辺りで開墾がおこなわれて…城の面影は薄れてしまった…のか😭

ちなみにこの城が落城した際…北条軍4000に対して豊臣軍は170000の軍勢をもって侵攻。一ノ堀…本丸…天守櫓…二の丸…どれを見てもその防御に特化した造りは芸術的でさえあり見事なのですが…それでもまだ未完成のまま備えなくてはならなくなり…深い堀も滑りやすく登りづらい関東ローム層も…数の暴力の前にはなす術がなく半日で落ちてしまった

障子堀(5枚目)山中城を象徴する存在と言える場所…畝が均等に設けられており、この造りは単なる防御機能というだけでなく芸術の領域にまで達するであろう存在…まるで障子の襖の如く造られているから障子堀なのでしょうね

この場所に辿り着いた瞬間…シャッターポイントと直感し撮影する自分がいました。ここを訪れたら逃さず撮るべきでしょう

二の丸には休憩所もあり、そこで荷物整理をして少しだけ腰を下ろし、一旦売店まで戻ることに🚶 買い物もしてから宗閑寺に行きました。ここには豊臣の大軍が攻め込んだ際に奮戦した北条軍の武将…松田康長と間宮康俊の墓があると地図にあったのでそこを見学(6枚目)

しかし…彼らの名前がはっきり書かれておらず、無関係の文字が彫られた墓…苔が蒸した楕円形の墓石しかなく、どれが彼らの墓か分かりませんでした…🪦🪦😅

なので…墓を撮影した(6枚目の)位置で両手を合わせて「どれが松田殿や間宮殿の墓か分からないけど、武士の名に恥じない最期でした…ご冥福をお祈りします🙏」と祈りました

売店では両武将の武将印も(御城印や城カードと一緒に)販売されており、(御城印は以前郵送申し込みして届いたので)武将印を購入。それが7枚目…

売店にはその他にも(山中城の様子がデザインされた)紙ロール…そして障子堀ワッフル🧇が販売…紙ロール100円、ワッフル200円(8枚目)と安かったこともあり買っちゃいました

城特集のテレビ番組で、障子堀を背景にしながらこのワッフルを撮影して食べる…というシーンがあった気がします。それに影響される形もあったかな。まぁ…障子堀とワッフルの形が似てるのはたまたま…翌日食べてみると「やっぱりただのワッフルだった🧇😅」というのが私の感想ですが、外袋(8枚目)はゴミ箱に捨てずにしばらく取っておこうかと思います

宗閑寺で御賽銭をあげて墓参りして…道路を歩いて左手に鳥居あり…通路を歩いたのですが何とお堂がロープで囲まれており…つまり閉鎖されてました

「道路際にもバス停あったから鳥居まで戻って道路を戻るように歩けば着けるけど、どうせなら残り時間10分余りあるから、もう少しだけ城の中を歩こう😀」と思いつき、本丸などを歩きました

途中…9枚目の道に辿り着き…「堀の中を歩くレアチャンス〜😍」と捉えた私はそこを迷わず歩く🚶‍♂️…急な坂道となっており、気を抜くと転ぶかもなくらい脚が加速しました🦵 

ここを見ながら歩きながら…「この土手の上から北条軍は弓矢を放ったり槍を振るう」「対して豊臣軍は坂を登り、足場の悪い中をひたすら進軍」「防御側に有利な地形を活用しながら奮戦し、一定数の豊臣軍を射倒し、堀をよじ登ろうとする者を転がり落とす北条軍」

「しかし豊臣軍は何せ大軍…倒しても転ばせても次から次へと本丸目掛けて迫ってくる」「豊臣軍も矢を放ったり鉄砲を撃ったり応戦したであろう…」「やがて次から次へと守備兵は倒れていき…動ける守備兵の数が減ってしまい満足に迎撃できなくなったタイミングで一斉突撃」「堅固な陣形も次々と破られていき…一ノ堀…二の丸…本丸…そして天守櫓も陥落」

「北条氏が誇る天然の要塞、山中城はこうして僅か半日で陥落してしまった🏳️」という光景が目に浮かぶのでした

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シャンシャン

現存天守10城目!! (2024/05/30 訪問)

漆黒の国宝天守、松本城。
どの角度から見てもかっこいい!!
姫路城ような白い天守もいいけど、黒色の渋い天守も武骨でかっこいい!!
櫓を始めとしたかつての遺構の復元計画が進んでいるそうなので今後も楽しみ!

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POYO58

石垣がすごいが… (2024/04/28 訪問)

久しぶりの投稿です。
鳥羽城に行ってまいりました。鳥羽城は九鬼さんによって築かれた海城です。遺構はもう石垣のみですかね。まあ思ったよりすごかったです。駐車場は家老屋敷に止めました。家老屋敷跡には早速大規模な石垣が残っており素晴らしかったです。階段を登るとtobaと書かれたロゴがあり、そこが城山公園だそうです。さらに階段を登ると本丸へと辿り着きます。本丸の高石垣も素晴らしく、水門も発見しました。本丸には天守がかつては建っていたそうですが、廃城になった後は小学校の運動場になったそうです。また少し離れた相橋という橋の下の小さな川沿いに石垣が綺麗に残ってました。
満足のいく遺構なのですが、毛虫が大量にいるのと、蛇に遭遇したので怖かったです。山城でもないのにこんなに怖い生き物がいるのは残念でした。

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ぴーかる

虎口高石垣に圧倒 (2024/04/13 訪問)

【徳倉城】
<駐車場他>駐車場はなし。県道61号線道路脇<34.778113, 133.899706>に停めました。
<交通手段>車

<見所>櫓台石垣・主要部石垣・連郭曲輪
<感想>日帰り今シーズン山城攻めラスト旅2城目。現地説明板によると、徳倉城の築城年代は不明だが、「太平記によれば1362年に高師秀徳倉城に退き」とあり、また御津町郷土歴史資料館で頂いた資料によると、備前の守護代金川城主の松田元隆の四男、元資が1476年には居城していたとあります。戦国時代は松田氏の一族宇垣氏の居城でした。1568年に主家の松田氏が宇喜多直家に滅ぼされると徳倉城も宇喜多氏の家臣の遠藤河内守秀清が入城します。宇喜多氏が備前を平定した後は遠藤氏も岡山城に移り、徳倉城には城番を置いていたようです。関ヶ原の合戦後岡山に小早川秀秋が入城すると城は廃城となりました。

 上記駐車ポイントが大手口になり空き地が小屋か民家跡のようですが、山の壁面に古い石垣が少し残っています。私も大手道から登り、そのまま大手道から下山したので搦手道は見ていません。大手道には出丸跡(藪化)、出丸長郭・堀切があり、中腹辺りに竈門跡のある舌状曲輪があります。斜面に堀切が1条あります。そこから段々の曲輪になっていて、櫓台らしき石積み跡、井戸跡を通り主要部の下の方に着きます。
 主要部は主郭と二郭が一帯となった南北に長い長方形の曲輪で、主要部北側に3段の舌状曲輪、西に1つ腰曲輪、南に2段の腰曲輪があります。各腰曲輪の下方は急斜面の谷になっていて堀切はありません。最大の見所である野面積みの高石垣は主要部の東側虎口にあたります。おそらく宇喜多氏家臣の遠藤秀清が入城後に主要部全体と所々に残る石積み遺構をこの時改修されたものと思います。主要部の曲輪壁石垣は東面に鉢巻き石垣に残っており、北側はかつて石垣があったであろう石が3つだけ残っていて、ほぼ全て崩落してしまったものと思います。西面は急斜面で石垣の痕跡は見当たらず、南面は多門櫓跡の石垣が良く残っていて、その下段に腰巻石垣のように一部石垣が残っています。
 主要部内部は北側半分が二の丸跡で南側半分が本丸跡の看板がありますが、中間に堀切もなく、一体となっているので明確な仕切りは無かったように感じます。中心に瓦片が大量に落ちています。主要部南端にくの字状の多聞櫓跡の石垣が良好に現存しています。郭内部からの高さは低いですが、南の郭壁と一体となっているので南下段から見ると圧巻の見応えです。
 おそらく織豊期であろう高石垣がよく今日まで美しく残されていて感動しました。お勧めの城跡です。

<満足度>◆◆◆

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