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POYO58

石垣がすごいが… (2024/04/28 訪問)

久しぶりの投稿です。
鳥羽城に行ってまいりました。鳥羽城は九鬼さんによって築かれた海城です。遺構はもう石垣のみですかね。まあ思ったよりすごかったです。駐車場は家老屋敷に止めました。家老屋敷跡には早速大規模な石垣が残っており素晴らしかったです。階段を登るとtobaと書かれたロゴがあり、そこが城山公園だそうです。さらに階段を登ると本丸へと辿り着きます。本丸の高石垣も素晴らしく、水門も発見しました。本丸には天守がかつては建っていたそうですが、廃城になった後は小学校の運動場になったそうです。また少し離れた相橋という橋の下の小さな川沿いに石垣が綺麗に残ってました。
満足のいく遺構なのですが、毛虫が大量にいるのと、蛇に遭遇したので怖かったです。山城でもないのにこんなに怖い生き物がいるのは残念でした。

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ぴーかる

虎口高石垣に圧倒 (2024/04/13 訪問)

【徳倉城】
<駐車場他>駐車場はなし。県道61号線道路脇<34.778113, 133.899706>に停めました。
<交通手段>車

<見所>櫓台石垣・主要部石垣・連郭曲輪
<感想>日帰り今シーズン山城攻めラスト旅2城目。現地説明板によると、徳倉城の築城年代は不明だが、「太平記によれば1362年に高師秀徳倉城に退き」とあり、また御津町郷土歴史資料館で頂いた資料によると、備前の守護代金川城主の松田元隆の四男、元資が1476年には居城していたとあります。戦国時代は松田氏の一族宇垣氏の居城でした。1568年に主家の松田氏が宇喜多直家に滅ぼされると徳倉城も宇喜多氏の家臣の遠藤河内守秀清が入城します。宇喜多氏が備前を平定した後は遠藤氏も岡山城に移り、徳倉城には城番を置いていたようです。関ヶ原の合戦後岡山に小早川秀秋が入城すると城は廃城となりました。

 上記駐車ポイントが大手口になり空き地が小屋か民家跡のようですが、山の壁面に古い石垣が少し残っています。私も大手道から登り、そのまま大手道から下山したので搦手道は見ていません。大手道には出丸跡(藪化)、出丸長郭・堀切があり、中腹辺りに竈門跡のある舌状曲輪があります。斜面に堀切が1条あります。そこから段々の曲輪になっていて、櫓台らしき石積み跡、井戸跡を通り主要部の下の方に着きます。
 主要部は主郭と二郭が一帯となった南北に長い長方形の曲輪で、主要部北側に3段の舌状曲輪、西に1つ腰曲輪、南に2段の腰曲輪があります。各腰曲輪の下方は急斜面の谷になっていて堀切はありません。最大の見所である野面積みの高石垣は主要部の東側虎口にあたります。おそらく宇喜多氏家臣の遠藤秀清が入城後に主要部全体と所々に残る石積み遺構をこの時改修されたものと思います。主要部の曲輪壁石垣は東面に鉢巻き石垣に残っており、北側はかつて石垣があったであろう石が3つだけ残っていて、ほぼ全て崩落してしまったものと思います。西面は急斜面で石垣の痕跡は見当たらず、南面は多門櫓跡の石垣が良く残っていて、その下段に腰巻石垣のように一部石垣が残っています。
 主要部内部は北側半分が二の丸跡で南側半分が本丸跡の看板がありますが、中間に堀切もなく、一体となっているので明確な仕切りは無かったように感じます。中心に瓦片が大量に落ちています。主要部南端にくの字状の多聞櫓跡の石垣が良好に現存しています。郭内部からの高さは低いですが、南の郭壁と一体となっているので南下段から見ると圧巻の見応えです。
 おそらく織豊期であろう高石垣がよく今日まで美しく残されていて感動しました。お勧めの城跡です。

<満足度>◆◆◆

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刑部

改修中の城址 (2024/05/22 訪問)

残念ながら改修中で見られない部分がありました。
1人用のリフトで上がって探索、見事な石垣です!途中ゴソゴソと変な音がするので下を見るとモグラが顔を出してこっちを見て逃げて行きました夜行性なのに大丈夫?城下町は鯉が泳いでいて気分が最高です、ここから津和野城の石垣が見えるまさに天空の城!

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チェブ

DTE48の弟グループ、YGI21。 (2024/05/04 訪問)

細い道を鋭角に曲がり、ゆるゆる登った所に『平沢地区公民館』があります。
「平沢城」の本丸跡です。
1段高くなっている所に石碑があります。
「勝岡城」。
また、間違えたかと思いました。

説明板があり、「平沢城」は年代や誰が築城したのかは不明なんだそうです。
江戸時代に入ると、伊達家の家臣 高野氏の居館になりました。説明板には「平沢要害」。
「平沢要害」は伊達四十八館の1つです。
一国一城令があり、お城、21の要害、残りを所、在所と分類。
世が世なら お城だったのでしょうが『要害』グループに所属です。
公民館の1段下には広いグラウンドがあります。郭にも見えてきます。

最近『ナガミヒナゲシ』という名の可愛らしい花を駆除しました。東京都のいろんな自治体で駆除を推奨しています。
このお花、外来種で他の植物の育成を阻害し、触るとカブれます。
そして「平沢城」にも咲いてました。

かつて街道監視をしていた場所は、在来種で彩ってもらいたい「平沢城」攻めでした。

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小城小次郎

絶望的に楽しい堀切底の横断ルート (2023/11/23 訪問)

毛利氏と古くから姻戚関係にあったことが知られる三田氏のお城で尾根を断ち切る長大な多重堀と石段・高石垣を伴う主郭周辺の技巧が見どころ。主郭部に向かうには堀切底を横断するしかないがこれがなかなか絶望的に楽しい(笑)。

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カズサン

大光寺コミュニティセンターに案内板と碑が有ります (2024/05/20 訪問)

 田舎館城を終えて南に約5km程の大光寺城跡を目指し初登城しました。

 駐車場:大光寺コミュニティセンター内の駐車場
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 大光寺コミュニティセンターの入口に案内板が設置されて、入口の東道沿いに石碑「大光寺城阯」が立っている、南側の道は堀跡のようで東へ下がっており、コミュニティセンター辺りが本郭だった様子、遺構的なものはなさそうです。
 案内板によると弘前城の北門(亀甲門)は大光寺城の追手門を移築した事が記載されています。

 

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カズサン

役場は城郭風建物近くに残存土塁 (2024/05/20 訪問)

 浪岡城を終えて南下し城郭風建物で有名な田舎舘村役場を目指す、途中の道中では岩木山の頂上は雲で隠れていますが裾野稜線の存在感が目に迫って来ます。

 駐車場:田舎舘村役場駐車場を利用。
 参考資料:余湖図コレクション城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 役場の城郭建物を撮影して、役場から東へ100~200m程の所に余湖図コレクションによると本郭北土塁アヤコが残存していますので訪ねる、(グーグルマップには史跡マークで田舎館城跡と記載されています。)  民家の北東に残存土塁と案内解説板、「田舎館城址・サイカチ大樹」の標柱、サイカチ大樹が佇み、田舎館城400年祭記念碑と裏に田舎舘城主千徳政武と妻於市の墓碑が立っています、土塁に立つと周りが堀で囲まれ堀底水田まで結構の高低差が有り本郭北側の実感がわきます。又城郭風建物が良く観えて現在田起こし中、水張中で田圃に張った水に城郭風建物役場が写って絵に成ります。

 案内解説板に依りますと、城主は千徳氏、三戸南部宗家の直臣で五代政武まで続き、天正13年(1585年)津軽統一を目指す津軽為信に攻められ壮絶な籠城戦で300余名の討ち死にて滅亡した。
 傍にはサイカチ大樹が討死300余名の埋葬した時の埋葬樹としてたたずんでいる。

 以前から城郭風の建物で有名な田舎館村役場を訪ねたいと思っておりましたので今回の企画に入れて思いを叶う事が出来ました。
 又ここは田圃アートで有名な所でTVニュースなどで時期に成ると取り上げられています。
 

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todo94

福井の城めぐり⑤ (2024/05/11 訪問)

この日は敦賀のホテルに泊をとったので、若狭の城めぐりの締めは疋壇城としました。廃校跡が駐車場として利用できます。しかしこちら側からはネットが張られていて主郭に入ることができません。なかなかの規模を持つ空堀の外を回り込んで北側から主郭にとりついてみました。

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まさお

川越城 富士見櫓跡・喜多院・東屋 (2024/05/31 訪問)

会社時代の元同僚と、川越東屋(喜多院と成田山に隣接)での昼食を取った後
喜多院(仙波東照宮・家光誕生の間・五百羅漢)を観覧し、南大手門跡を通り
補修工事が終了した川越城富士見櫓跡に行きました。
元同僚は川越市のボランティアガイドをやっているそうで、色々なおもしろい解説を
聞きながら散策する一日になりました。

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しんちゃん

柿田川公園 (2024/01/25 訪問)

泉頭城の主要部は現在は柿田川公園になっています。主要部は泉の館や駐車場になっていて、船着曲輪の周辺や貴船神社、湧水の見える展望台などを経て、橋を堀切で横切りながら駐車場に戻ってきます。堀切などの遺構は少ないですが雰囲気を感じ取ることは出来ます。
駐車場付近では湧水を汲める場所があり、そこで携行のペットボトルに水を補充しました。特に加熱しなくても体調に問題は有りませんでしたよ。

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しんちゃん

幻の鯖江城建設予定地 西山公園 (2016/08/14 訪問)

少し古い写真で申し訳ない。鯖江藩初代・間部詮言は無城格の大名でしたが、7代・間部詮勝は幕政で重きを成し大阪城代、京都所司代、老中を歴任します。老中就任中に築城の許可が出ますが、水野忠邦との対立が影響したのか実現には至っていません。
建設予定地は御達山(長泉寺山)と呼ばれる丘陵で現在は西山公園として整備されています。
国道417号線が県道229号線と交差する北側、別名つつじ通り(国道417)を堀代わりに東西に公園(曲輪)が配され間を鉄橋で行き来します。北西の展望所に天守が築かれる予定だったらしく、全体に城郭の雰囲気を残しています。公園東側には藤棚を備えた庭園が整備され、大名の城郭庭園に通じる趣と格式を備えています。陣屋跡は未訪問なので「いった」はおあずけにしておきますが、別名:鯖江城の由来はこの西山公園にあるのではないでしょうか。地元の方も残念だったらしく公民館に天守の模型があったりしますが(記憶)、ここに模擬天守が無いのは西山公園を市民のために解放した間部詮勝公に敬意を表してのことかもしれません。「嚮陽渓」とは詮勝公が安政3年(1856)に命名した名称ですが「日本の歴史公園100選」に選ばれる重要なファクターにもなっています。

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ごんぎつね

連続する曲輪と堀切 (2023/11/03 訪問)

登山口が厳重な感じで物々しい雰囲気。
熊でもいるのかとビクビクしながら、入山。

登山道の所々にイノシシが餌を探した跡があったので、
農作物への被害対策だったようです。。

約1時間ほど歩くと、「大堀切」が!
これはお見事!

その先の本丸に行くまではいくつもの曲輪群および虎口と思われる場所に
石垣がありました。
本丸のさらに奥にはくっきりと確認できる「堀切」が奥の奥まで
いくつもあるように見えました。
なかなかの勾配であったため、先に進むのは断念しましたが、
もっと奥に行けば畝状竪堀群があったようで見たかったです。



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しんちゃん

川島 (2012/12/11 訪問)

屋島の写真といっしょに川島城の写真も出てきました。阿波九城の一つで川島惟忠によって築かれたとされています。現在は川島公園として整備されていて二の丸跡に模擬天守が立っています。正直、このような天守があったかどうか不明なのですが、天守からの眺望は良く、案外周囲との景観ともマッチしているようです。地元の住民のデマンドに応じた結果だと思うので、あまり深く考えず素直に楽しませていただきました。

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しんちゃん

屋島 (2013/12/11 訪問)

屋島城は屋島に築かれた古代山城で、屋島は江戸時代までは独立した島だったようです。四国遍路84番札所の屋島寺は屋島城跡に築かれています。11年前、初めて屋島を訪問した際、山中を徘徊していた時に整備中の屋島城の石垣と遭遇し、写真をいくつか撮って、そそくさ退散しました。すでに整備も終了し、一般に公開されているので改めてじっくりと訪問したいと思います。

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小城小次郎

一文字に三ツ星 (2023/11/11 訪問)

都心部とは思えない本格山城だが公園内をさらっと眺めるだけでは凄いところをまるで見ないで終わるので隅々まで見て欲しい。大江氏一族の長井氏にまつわるとされ、城内の住吉神社には意味ありげな家紋が光っている。

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しんちゃん

柿田川公園 (2024/01/25 訪問)

泉頭城は現在は柿田川公園として整備されています。「駿河記」には「弘治年間築之、小田原北条の臣・多目周防守荒川清兵衛守衛たり」と記載があったとされ戸倉城・獅子浜城らと並んで北条氏の出城であったようです。
「余呉くんのお城のホームページ」さんの縄張りを参考にすると、駐車場のあたりが本丸。南の周遊路付近が船付曲輪。西の芝生公園(広場)が西曲輪で貴船神社は西曲輪の出丸の位地にあります。柿田川を天然の守りとし、湧水のあるあたりが出丸になるようです。
公園の東側にも曲輪が複数あったようですが、市街地になっているようです。

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ぴーかる

宇喜多直家飛躍の城 (2024/04/13 訪問)

【沼城】
<駐車場他>駐車場はなさそう。新幹線の高架下<34.707266,134.035401>に停めました。
<交通手段>車

<感想>日帰り今シーズン山城攻めラスト旅1城目。現地説明板によると亀山城(別名沼城)の築城は戦国時代に浦上宗景配下の中山信正(勝政)によって築城されました。1559年に宇喜多直家が浦上宗景よりこの城を賜り、1573年に岡山城に移るまでの14年間、宇喜多直家の壮年時代活躍の拠点となった城跡です。宇喜多秀家もこの城で生誕したそうです。1601年小早川秀秋が岡山城主となり廃城となったそうです。
 この城は丘城で登城口は城跡南側からの階段の真っすぐ登ればすぐ主郭跡に着きます。主郭の周囲を帯曲輪で取り巻いていて所々に腰曲輪があります。北西側の麓の民家の所が大きく掘りこんでいて、大手虎口のような感じも受けました。主郭は2段構造になっていて上下段それぞれ建物があったような感じを受けました。東方向に下って二の丸跡の削平地は現在はすべて畑になっています。西方向の平地にある西の丸跡には高土塁跡が見られます。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

北条氏と今川氏の争奪戦。 (2024/01/25 訪問)

長久保城は築城時期については定かではありませんが、戦国期には執拗に駿河に侵攻してくる北条氏に対する、今川氏の防衛拠点だったようです。天文14年(1545)には北条氏の城となっており北条氏綱の弟・葛山三郎長綱(北条幻庵)が始めに入り、清水太郎左衛門尉康秀が城将の時に今川義元の攻撃を受けたようです。9月24日に武田・北条・今川の間で和睦が成立し、義元が駿河・富士二郡を支配下に置くことが決定し、今川氏の城番が入ったようです。
城山神社は周囲に対して小高くなっており平山城や丘城としての雰囲気を持っています。周囲に土塁が良好に残り、かつては八幡曲輪・南郭として機能していたようです。東のトイザらスあたりが、かつての本丸のようですが当然のように何の遺構も残っていません。

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ばばよ

5月末なら蚊に刺されない (2024/05/24 訪問)

訪問した日は30℃近く、本郭まで着いたときには汗びっしょりでした。
山に入ってからの距離はそれほど長くないですが、勾配がかなり急で足に応えました。
5月末なので虫が心配されましたが、蚊には刺されませんでした。
足元にカナヘビが多く、目の前に小さな虫が飛んで鬱陶しかったですが、クモの巣に悩まされることもありませんでした。
しかし少し草が多く、石垣の全貌を見るにはもう少し早い時期の方が良さそうです。
また、少し崩落の危険があるため金網が張られている場所もありました。
この城のページのトップにある石垣がどこか、見つけられませんでした。

しかしこんな山上に石垣を築くとは、当時はまだ常識ではなかった技術でしたし、さぞ大変でしたでしょう。

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「安心してください、ついてますよ!」

現在、商品化プロジェクト実施中の「日本100名城かるた」。
「いざかるた取りしてみても、取った札が正解かどうかわからない…」
当然の不安ですね、でも…

安心してください、ついてますよ!

絵札読み札の対照表!
しかも読み札のフリガナつき!

商品化プロジェクトも残り5日。
ご協力のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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