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しんしんちゃん

茨木城の支城。 (2023/07/18 訪問)

新庄城は茨木城の支城とされています。
明教寺周辺が城址のようですが、
遺構らしきものは見当たらないのですが、明教寺を含め
周辺の住宅の塀が、まるで城郭の塀の用に連なっています。
当時の縄張りは不明ですが、かつての城の縄張りが
道路や街道の形状に残っているのは良くあることなので
想像を巡らしながら散策してみます。
やはり城址付近が周囲に比べ幾分か小高くなっているようです。
明教寺の門は本日も閉じられているのですが、開いている時も
あるようですね。時と場合次第といったところでしょうか。

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しんしんちゃん

江口の戦いの舞台になった城。両側の真ん中の狛犬に注目。 (2023/07/18 訪問)

江口城は他の城の口コミでも名前が出てくる江口の戦いの
舞台となった城で、ここで三好長政が討死を遂げています。
大隅神社周辺が城址と推測されますが
狛犬の台座に江口とかかれている狛犬が江口城の遺構と伝わっています。
両側にいる狛犬の真ん中のやつがそうみたいですね。
後で知った情報なのですが、なんとなく気になったので
写真を撮っておいてよかったです。

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しんしんちゃん

太鼓楼と築地塀が良い感じ。近くに大塩平八郎ゆかりの書院跡あり。 (2023/07/18 訪問)

守口城は難宗寺周辺が城址と伝わります。
応仁の乱の際に大内義弘の家臣の杉九郎がここを守っていたという話や
明智光秀が砦を築いたなどの情報が検索すると出てきます。
難宗寺は周囲を築地塀で囲み北側に太鼓楼と長屋門を配し
なかなか良い雰囲気を漂わせています。
すぐ近くのマック(大阪ではマクド)に大塩平八郎ゆかりの
書院跡の案内板と石碑がたっていますので
合わせて訪問してみると良いと思います。

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しんしんちゃん

10年に及ぶ石山合戦を支えた重要な拠点。 (2023/07/18 訪問)

葱生城は本願寺の支城の一つです。
榎並庄に築かれ、ここの稲田で刈られたコメが本願寺の
軍糧として送られていたようです。
常宣寺の周辺が城址のようで、北に淀川が流れます。ここから
米を送るルートの途中に毛馬城があります。
なるほど食料補給路を守る城塞の関係性が見えてきました。
米→葱生城→毛馬城→川を南下して本願寺

10年に及ぶ石山合戦の籠城を支えるための重要な城だったのですね。
毛馬城、ポチるための城と言ってゴメン。

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しんしんちゃん

ポチるための城 (2023/07/18 訪問)

石山本願寺の51の支城の城の一つと伝わりますが
毛馬町の由来として、天正年間に織田氏がこの地に毛馬城を
築き布陣したという説もあり、はっきりしたことはわかりません。
城址とされる善福寺は周囲よりわずかに高地にあるようですが
それ以外に城跡を彷彿させる要素は見当たりません。
ここはポチるための城と割り切り先に進みます。

来た見たポチった ‥‥シーザーさんみたいですね。

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しんしんちゃん

三好政長の息子、政勝の城。 (2023/07/18 訪問)

榎並城は三好長政が築城し、息子の政勝を入れたと伝わります。
江口の合戦で長政が戦死し、政勝も瓦林城に退いたとされています。
城址は榎並小学校から野江水神社あたりとされ、小学校には
城址を示す石碑があります。

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しんしんちゃん

本願寺派の城塞都市と一体化した城 (2023/07/17 訪問)

久宝寺城は久宝寺寺内の北の区画に築かれていたとみられます。
寺内の中心には顕証寺(けんしょうじ)があり
連如上人により西証寺として建立されました。
後に顕証寺(久宝寺御坊)と呼ばれ、周囲に二重の堀と
土塀をめぐらし、今でも街路にその形状が残っており
西の池がかつての堀跡で周囲との境でもあるようです。
寺内の支配権は御坊が握り、久宝寺城主 安井氏がこの権を
任されていたようです。
中世末期浄土真宗本願寺派境内に発達した城、集落、寺院が一体化した
城塞都市と呼んで良いのではないでしょうか。



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しんしんちゃん

城址碑のみの大阪市のポチ城。歴史は侮りがたし。 (2023/07/17 訪問)

柴島の地はかつては神崎川と中津川に囲まれた中州であり
現在残されている石碑の周辺が「柴島城跡伝承地」とされています。
十河 一存の築城とされ、天文18年(1549)の江口合戦では
三好政長派の細川晴賢が籠る柴島城を三好長慶の大軍が攻め、
柴島城は落城、この時江口城も落城し政長は戦死しています。

伝承地とはいえ完全に市街化し、かつての面影はありません。
大阪市の城跡で遺構を探すのは無駄に近いので
周囲を散策し、飛行機が飛んでいくのを眺め退散します。

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しんしんちゃん

大阪市のポチ城。歴史は侮りがたい。 (2023/07/17 訪問)

三津屋城は現在 本願寺流光専寺及び、ひかり保育園となっております。
かつては楠木正行の築城とされ、三好政長や長慶が拠点とした中島城
の跡と案内板には出ています。
さすが大阪の城、小城でも歴史は深いですね。
私は大阪市街を回っていくつかこういう小城を回って
勝手にポチ城と呼んでいました。
簡単に探索できて、「いった」をポチれるので暑い夏の城跡めぐりには
うってつけです。
動物のポチや、ポテチのようにお手軽につまめるからというわけではありません。
あくまで簡単にポチれるからポチ城です。
とはいえポチ城にはポチ城なりの苦労があります、
道がせまかったり、駐車場がなかったり、中に入れなかったり‥etc‥
特に奈良市の辰市城には閉口しました‥‥

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しんしんちゃん

遺構はないが歴史は深い城。 (2023/07/17 訪問)

堀城は西国街道筋に当たる十三渡(じゅうそうのわたし)
北岸の要地にあった城と伝わります。
十三渡といえば荒木村重が一揆の軍勢を押し返した所ですね。
元禄元年(1570)の織田信長による野田・福島攻めの際に
将軍・足利義昭が入場したと有ります。
城址は現状 武田薬品工業の敷地となっており、周囲を
愛車で散策してみますが特に遺構はありません。
北側の通路が堀のような雰囲気を醸し出していますが
縄張りとは異なるようです。

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しんしんちゃん

小学校が城跡。北側の門の中に城址碑がある。 (2023/07/17 訪問)

大和田城は石山本願寺の支城であったと伝わり、現状は大和田小学校です。
一度は荒木村重の軍を敗走させるも
逆襲にあい、落城したそうです。
門のところに城址碑があるとのことで学校の周囲を回ってみましたが
どうやら北側の門のところにあるようです。
最初に見たとき見落としていました。
案内板にある城の想像図はなかなか素朴な絵ですが
ここの生徒さんが書いたのでしょうか?
だとすれば、なかなか将来有望ですね。

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しんしんちゃん

城址碑は二つ、恵美須神社も訪ねてみては (2023/07/17 訪問)

野田城があった地域は平安時代には難波八十島といわれる島々が点在していた
地域だったそうですが戦国時代には城郭として機能していたそうです。
戦国時代に細川高国の同盟者、浦上村宗(掃部)がこの地と福島の地に築城したのが
始まりとされています。
場所ははっきりとしないのですが城址碑は二か所あります。
極楽寺の東側の恵美須神社まで城域に含まれていたのでは?
とのことで尋ねてみましたが、祭りの準備をしているらしく
子供たちのたたく太鼓の音が響き渡っていました。
暑い夏の夕方に太鼓の音は清々しく響きます。

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しんしんちゃん

ぽちっと押せるポチ城だが歴史は侮れない (2023/07/17 訪問)

楼ノ岸砦は元、織田方の城で本願寺派に奪われた後
本願寺派の支城となり、塙 直政が三津寺砦を攻めている際に
楼ノ岸砦から襲撃した一揆勢が塙 直政を討ったと伝わります。
現状 坐摩神社行宮所ですが、まだ整備が終わっていないようですが
錠がかかっていないようです。
ちょっとお邪魔してすぐに立ち去ります。
隣のビルは工事中です。大阪は工事が多いですね。

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モト

山頂の主郭 (2023/07/12 訪問)

3回目の九州でしたが、猫尾城行って参りました。
城跡は現在城山公園になっております。
地元、付近の知り合いに城跡だと話しをした所、小さい頃から遊びに行っていた山の公園だそうで、よもや城跡だったとはという反応でした。
主郭のある山頂近辺まで車で行く事ができます。
城山公園の駐車場に停め、歩いて5分で主郭に到着します。
駐車場から主郭までの間に曲輪が見られました。
また、主郭には神社のような物がありますが、石垣で一段高くなってます。
城跡の紹介を見ると写真によく出てくる石垣はこれだったのかと思いましたが、この石垣がなかなか雰囲気があってよかったです。

追伸
この日は晴れでした。
加えて訪問した時間が19時45分頃でしたが、この明るさです。
随分日が伸びたのだなあ、なんて思ってましたがこちらは関東よりも日が長いのだそうです。
その代わり、朝の明るくなる時間は遅いとの事でした。
言われればホテルからの夜明けの時間が5時でも薄暗いくらいだった事に気がつきました。
最近、仕事で九州に来ています。
仕事なのでなかなか城跡には寄れませんが、魅了的な城跡の多い九州を少しでも堪能できればと思う今日この頃でした。

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chiroru

大満足! (2023/07/21 訪問)

登城日和。

テレビでしかみることがなかった上杉謙信さんの銅像。ついに目の前に♡
本当に絵図通りの縄張りで後悔なく一つ一つの址地を確認できました。
木漏れ日の中にある毘沙門堂の神聖な感じや、御花畑址と直江屋敷址の辺りでは、川のせせらぎなのでは?
と思わせるくらいの風の音、タイミングよく涼しさも運んできてくれる。
謙信さんは信念を含め後世に素晴らしいものをたくさん遺してくださってると実感することができた春日山城でした。

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イオ

台地の突端 (2023/06/09 訪問)

戦国中期に北条氏に仕えた牛込氏の居城で、北条氏の滅亡後は徳川氏の旗本となり牛込城は廃城となったようです。現在、城跡は光照寺になって遺構は消滅しており、本堂前に牛込城跡の説明板が立てられているくらいでした。また、城とは無関係ですが、境内には出羽国松山藩・酒井氏の墓所がありました(無断撮影禁止のため写真は無し)。

御殿山城からぶらぶら歩いて登城しましたが、地蔵坂を上ったところの光照寺入口をなぜか見落としてしまい、周囲をぐるりと一周する羽目に。このタイムロスにより写真撮影の許可を求める時間的・心理的余裕もなく、仕事前に昼食を摂れなくなりはしたものの、おかげで牛込城が台地の突端に位置することを実感できました(ポジティブシンキング)。それにしても、神楽坂に三年坂に御殿坂に地蔵坂…。このあたりって本当に坂道ばっかりですね。さすが台地の突端。
 

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todo94

研修前の攻城① (2023/06/25 訪問)

にのまるさんと同様、王子駅(北区)から歩いて朝駆けしてまいりました。早朝のウォーキングでしたがすでにかなりの高温になっていて汗だくになってしまいました。宮城氷川神社の境内に無事、石碑を見つけることができました。

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しんしんちゃん

新たな姿に生まれ変わる行基創建の本願寺の支城 (2023/07/17 訪問)

三津寺砦は石山本願寺の支城で塙 直政がここを攻めている時に
楼岸砦から出撃した一揆勢に数千の鉄砲で攻撃され
激戦の末に一族とともに討死したと伝わります。
戦後の信長の怒りは凄まじく、塙一族の探索捕縛を命じ、罪人として捕えたと
伝わります。  直政がんばってたじゃん‥。
三津寺は奈良時代に行基が建立したという由緒正しい寺なのですが‥
尋ねてみると工事中のようです。
工事完了予定時期‥令和5年9月30日 あと2か月ちょっとか
西立面図‥ ってなんじゃこりゃ!由緒正しいお寺じゃなかったの?
一瞬心の中でとりみだしましたが、すぐに正気に戻ります。
  恐るべし大阪‥ とりあえず工事終了後が楽しみです。




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しんしんちゃん

門は常に閉まっている。城びとはその周りをクルクル回る。 (2023/07/17 訪問)

天王寺城は織田信長の石山本願寺攻めの拠点の城ですね。
原田(塙)直政討死の後に入城した佐久間信盛は戦果をあげられず
本願寺の和議のあと追放され高野山に送られたとか。(一説には)
高野山‥ ブルブル‥。
高野山と伊豆の修禅寺ってイメージ良くないですね。
殺されるために送られるような。
先人の皆様の投稿に倣い六万体の交差点の西側の
学園坂を下から車で登ってみました。
とても降りて写真を撮れる状況ではないのでコクピットから
撮影しています。ご容赦を。
wikiを見てみると信長が手勢百騎を率いて若江に到着し、自ら負傷しつつも
天王寺城を包囲していた一揆勢を蹴散らしたとあります。
そういえば村上海賊の娘という小説にもそんなシーンがありましたね。

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朝田 辰兵衛

南東側より可能な範囲で… (2023/06/09 訪問)

todo94さんが攻城されたルートは,とても立ち入る勇気は起きませんでした。
他に行けそうなところを探してみたところ,南東側に唯一発見しました。しかし,すぐに私有地の雰囲気になり,奥の方で物音も聞こえてきたので,トラブルになる前に退却。
当時のものかわからない石垣を見つけました。

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