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しんちゃん

横須賀城の後詰の城になったか (2024/05/25 訪問)

馬伏塚城は今川氏の重臣、小笠原氏の城で文亀元年、遠江守護斯波氏と今川氏の戦いの舞台の一つにもなっています。天正2年(1574)高天神城を武田勝頼に奪われると、高天神城を奪い返すための重要な拠点として改修を受け大須賀康高が入りますが、新たに築いた横須賀城に康高が入ると、馬伏塚城には高力清長が入りました。
本丸の跡には土塁が残り、諏訪神社が祭られています。それ以外の遺構は開発によって消滅しているようですが、城址北側の住宅の周囲にわずかに名残が見られるようです。しかし、武田を攻めるための城跡に諏訪神社が祭られているのも不思議な気分です。

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ぴーかる

江美城 (2024/03/30 訪問)

【江美城】
<駐車場他>櫓台跡の東側の堀切の上<35.282220, 133.487612>が2台分駐車スペースになっています。東側の台地状の農道から来てゲートを開けて入れます。
<交通手段>車

<見所>櫓台跡・石垣・堀切・切岸
<感想>日帰り尼子十基制覇の旅4城目。現地説明板によると江美城はこの地の国人である蜂塚安房守が文明年間(1469~1487年)に築城され4代にわたってこの地を治めましたとあります。蜂塚氏は尼子氏の支配下に入ったが、1564年に毛利氏によって落城し蜂塚氏は滅びます。その後吉川氏が入り今ある城跡は吉川氏によって改修されたもののようです。城は一国一城令まで存続していたようです。
 上記駐車スペースに駐車しすぐ横に櫓台跡があるのでまず堪能。発掘調査で金箔瓦が出土したそうなのでかなり立派なものであったろう。近畿から中国地方によくみられる長方形で石積みがよく残っています。主郭は畑化されていて曲輪の輪郭しか残っていません。主郭の西側に大堀切を挟んで西の丸は周囲を高さのある切岸に守られています。西の丸の南西下段に模擬櫓があります。現在は閉館しています。主郭の南側帯曲輪の壁面に石垣が多く残っていて見応えがあります。
 大山の噴火による火砕流堆積によって出来た台地地形と日野川によって削られた河岸段丘上の城といっていいでしょう。東海地方や群馬県で見た河岸段丘の城跡が鳥取県で見られるとはまた一つ勉強になりました。深い堀切見応えあります。

<満足度>◆◆◇

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ぴーかる

ありがとうございます。

赤い城さん、尼子十旗制覇の祝辞ありがとうございます。尼子十旗の三沢城、本当に良かった城跡です。大手虎口跡の巨石石垣から圧倒されました。また主要部が綺麗に整備されていて、連郭曲輪と堀切・周囲の切岸が見事な美しさでした。眺望も抜群で山並みがきれいでした。忘れられない城跡の1つです。主要部の奥の切岸下の1区画を上から覗いただけで足を踏み入れなかったのが悔やまれます。

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朝田 辰兵衛

冬季明けの整備前でした… (2024/04/13 訪問)

まだ,冬季明けの整備前で,登城道はワイルド感があり,案内板の設置もされていませんでした。登城口にあるべきパネルは,十日町公民館の入口前に退避されてました。本丸の標柱は無惨な状態でしたが,折損部分を見ると数年前からの気配がしました。そんなこともあってなのか,十日町公民館の表札と並んで「小国城本丸跡地」という表札が掲げられていました。
この地の冬の厳しさをうかがい知ることができたのですが,本丸から先にある御前清水を見つけることができませんでした。御前清水の案内板はなぜか,本丸虎口ワキに倒れてました。

todo94さんの代行リベンジ登城には,いささか物足りなかったかもしれません…。

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レコメンドサイト「イチオシ」に「日本100名城かるた」登場!

みんなのおすすめ商品を紹介するサイト「イチオシ」に
「日本100名城かるた」が登場しました!
https://www.ichi-oshi.jp/articles/crowdfunding/28082

「日本100名城かるたってどんな商品?」
「イチオシポイントは?」
「一番こだわったところは?」など、
知りたいポイントがまとめられています。

ぜひご覧ください!

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しんちゃん

サ〇ユリが咲いている。 (2024/05/25 訪問)

先ほどの投稿は忘れて、今度は美しく締めたいと思っています。城主の横地氏は平安時代末期の源義家の庶子(長男)家長を祖にもつ名家です。城址は主郭を特定しにくい構造ですが、西の横地神社のある場所が西の丸、そこから東にいった場所に中の城があり、さらに東に行くと金寿丸があり、堀切を挟んでさらに北に城域が伸びています。西の城の西側には例の谷などの遺構が残っています。
中の城と金寿丸の麓にはサ〇ユリがたくさん咲いています。珍しいですよね。山百合より色味が薄いですが、白色にうっすらと桃色がかった清楚な花です。けっこう人気があって、地元では持って行ってしまう人がたまにいます。城びとの皆さんにはそんな人はいないと思うので、こっそりと紹介してしまいます。

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しんちゃん

キンタマ落としの谷 (2015/07/12 訪問)

先日、横地城へ行ってきました。でも駐車場から二の丸へ直行したので、肝心な部分を見ていません。「金 玉落としの谷」をです。
キンタマさん、漢字はNGなんですね。ひらがなとカタカナはOKか。

昨日は酔っぱらって投稿したため、内容がひどいことになってますね。チンチン(山) へっへっへ‥‥ってこれじゃ変態じゃないですか。ご婦人方が引いてしまいますよ。失礼いたしました。
朝田さんのことも変態って書いてる。これ、朝田さんの投稿を読んでない人が見たら引くだろうな‥。朝田さん、怒っていたら御免なさい。しかし、酔って投稿するといいことは有りません。いつの間にか名前が変わってたりするし‥。
写真は2015年にキンタマ落としの谷を訪問した時のものです。キンタマ落としたら大変ですよ、ただの棒になってしまうやんけ。(シラフでも変わらんじゃないか!)
‥‥‥失礼しました。

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WEST

臼井城探訪 (2024/05/24 訪問)

臼井城を訪問しました。支城である師戸城より、自動車で約10分のところでした。ただ、県道から公園に向かう道路が狭いので自動車の訪問の際は注意が必要です。
ここは、臼井城址公園として整備されており、二の丸と本丸の曲輪、空堀、土塁が残っています。
師戸城とセットで訪問すると良いでしょう。

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WEST

師戸城探訪 (2024/05/24 訪問)

師戸城を訪問しました。ここは千葉県立印旛沼公園として整備され、4つの郭と空堀が残っています。
駐車場も整備され自動車でのアクセスがし易いお城です。
築城は、千葉氏の一族である臼井氏の居城であ臼井城の支城とのこと。公園内の展望台からは印旛沼、対岸の臼井城方面が一望できます。
城内は整備が行き届き散策し易く、堀底を歩くことができます。

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刑部

江戸時代・毛利氏のおさえの城 (2024/05/21 訪問)

近代城郭の城らしい石垣の城、主郭部からの景色は絶景です! 昨日は穴子飯、焼き牡蠣、お好み焼きでしたが今日は石見パークの生姜焼き。やはり城廻りにはその土地のグルメを食するのが最高です!

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カズサン

横内城主堤弾正夫妻の墓碑が注目です (2024/05/20 訪問)

 三内丸山遺跡開門の前に近くの横内城に初登城、前日浜松を出発し約950km程を高速道を飛ばし、SAで仮眠車中泊を重ねて、津軽SAで岩木山を眺め青森を実感、青森中央ICを降りて横内城へ。

 住所:青森県青森市横内亀井146-1朝日山常福院
 駐車場:常福院山門を入って北隅、数台の駐車可能。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

  西の山門は仁王門、山門内に横内城跡の解説板、山門を潜ると横内城主堤禅定夫妻の墓所が目を引きます、治世良く地元の方に慕われているようです、正面は本堂で朝の読経が響き渡ていました、本堂西前の龍神庭が奇麗に整備されていますが元は2郭の西側の堀跡の様子、本堂浦の東側には崖の切岸で横内川に落ち込んでいる。
 2郭の常福院北に1郭の稲荷神社があり西側の堀、中間の道が堀跡のようで東の横内川に落ち込んでいる。(1郭、2郭の表示は余湖図コレクションの俯瞰図に依ります)

 堤弾正は南部氏の一族で堤弾正家は4代続く、南部氏一族である津軽為信に攻められ天正13年~18年当たりに落城?。
 墓所の石塔は明治28年に横内城主3代堤弾正則景と同室朝日御前の墓標として建立された。
 
 こじんまりと堀に曲輪、横内川に落ち込み崖、切岸が残って居る。
 

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AJ

江州あれこれ (2016/05/21 訪問)

近江・長浜城(滋賀県長浜市)は、犬山や伏見をモデルにした模擬天守。江戸時代にはすでに田畑だったため、遺構の残りは良くないという印象です。

とはいえ、同じく近江の浅井氏(小谷城)攻めの戦功により秀吉が初めて一国一城の主となった場所。のちに政権の最高幹部となる石田三成との出会いの場とされる観音寺(米原市)からも程近く、JR長浜駅前には「三献茶」の像が。

家臣の屋敷は三の丸に並んだといいますが、現在は検討がつきづらい状況。そんな中、比較的わかりやすいのが山内一豊と妻・千代が暮らした「伊右衛門屋敷跡」でしょうか。本能寺、賤ヶ岳を経て長浜に入ったのがこの「功名が辻」カップル。掛川に移るまで当地を治めたそうです。

さて、近江をこよなく愛したと伝わるのが松尾芭蕉。大坂で亡くなると、生前の希望通り木曽塚に埋葬されたといいます。義仲寺(大津市)を訪れてみると、そこには弟子の又玄が詠んだとおり、木曾義仲と「背中合わせ」(厳密には隣り合わせ?)の俳聖が。

琵琶湖はもちろん、当時から大動脈だった東海道に近く、風光明媚な場所だったようですが、今は住宅街の中でちょっと窮屈。敷地内には小ぶりながら巴御前の塚も。この地で義仲を弔って信州へ立ち去ったとか。

再びところ変わって大津市・近江神宮。主祭神は天智天皇。御製が百人一首の第1番に選ばれていることから、社が競技カルタの甲子園とされているのは有名な話。

国内初の水時計(漏刻)を設置したことから「時間の祖神」とも称される天智天皇。そんな和風クロノスにちなんで、敷地内には各メーカーが寄進した日時計などが多数。時間を忘れて散策、というわけにはいかなそうです。

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー76城目 (2024/05/11 訪問)

3月16日の敦賀延伸からほぼ2か月が経過。漸く北陸新幹線の延伸部分に乗車することができました。敦賀駅は特急の乗り継ぎだけでなく改札の外に出るのにも時間がかかります。これは不便ですね。特急乗り継ぎに難渋される関西の皆さんがお気の毒でなりません。レンタカーを借り受けてまず向かったのが佐柿国吉城。ゴールデンウイーク明けでは麓の居館辺りの草がかなり伸びてきてしまっていました。散策マップを片手に隅々までめぐることができました。5つの郭が連なる連郭曲輪群に足を踏み入れたのは今回が初めて。大きな比高差に吃驚です。本丸までの距離表示の木にアクリルのカバーがかけられていたり、登城路に土留めの板が設置されていたりと整備が進められていてとてもうれしくなりました。

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赤い城

鷲の山城 香川県高松市 (2023/05/06 訪問)

城びと未登録、南北朝時代に築かれた城です。
鷲峰寺の背後の山が城趾です。
鷲峰寺本堂左手、八十八ヶ所霊場巡りの道を進んで行きます。
霊場巡り途中で鷲ノ山山頂への案内板があるので左手に。
ここからピークを3つ経て主郭に到達します。

途中はほぼ尾根道でいくつか堀切の跡のような部分も見られますが派手な遺構はありません。
主郭から東にも尾根が伸び、曲輪がありました。

帰りは二郭と思われる第3ピークから東側の尾根を下りました。

城廻りというよりはハイキング、結構な運動にはなりました。

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しんちゃん

夜景がキレイ (2015/02/23 訪問)

ギックリ腰の朝田さん。たしかにそんな変態は貴方ぐらいでしょう。なぜそのような過酷な試練を自らに‥ (守山城の投稿を参照)
私も30代のころは変態と呼ばれていました。「しんちゃんは鉄人を通り越して変態だね」と呼ばれていましたね。(遠い眼)そんな私も40の声を聴いて両膝変形性関節症‥これジーさんがかかる病例でしょうに。最初は歩くのもヒーヒーでしたが、それから城めぐりを始め山城を600ほど歩いて、富士山も登って体力も回復してきました、ありがたや‥。今何とか歩けるのも山城のおかげです。
私もいずれ真の「変態」に帰り咲きたいと思っています。(今は別の意味で変態ですが)

守山城の投稿でした。ここは夜景がすごくきれいです。アベックがいっぱいいましたね。長崎や横浜なんて目じゃなかったですよ。夜景で重要なのは距離感ですね。目の前が夜景の光でいっぱいになりました。今は知らんですけど。

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しんちゃん

南北に長い城域を持つ (2015/10/23 訪問)

城生城は神通川の左岸にある丘陵上に築かれています。文和年間(1352~1356)に斎藤常喜によって築かれたとされ天正11年(1583)に佐々成政によって攻められ落城したとのことです。
落城後、佐々成政によって改修が加えられているようで、主郭の周囲には空堀が配されています。城址碑のある細長い部分と北の広い部分を主郭とするとして、主郭の南側には特に複雑な縄張りが配されているようです。

チンチン山は富山市婦中町にある遺跡です。新町大塚古墳ともいいますが、行き倒れた僧が鉦を鳴らしながら読経をして、やがて亡くなったためチンチン山というらしいです。深い意味は無いです。近くを通りかかったら不思議な名前の遺跡があったので寄って見ただけです。(チンチンってNGワードじゃないんだ へっへっへ‥)

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朝田 辰兵衛

岩手城(新潟県上越市) (2024/05/25 訪問)

【いわで じょう】標高:115m,比高:約60m。上越市柿崎区岩手字城山に位置します。ここも猿毛城と同様に,主郭の塚に祠があります。『温古之栞』によると,承久3(1221)年の承久の乱の際,順徳上皇方であった宮崎定範の居城であったとあり,貞治3(1364)年には守護上杉憲顕が重臣宇佐美氏に岩手城を守らせたとありますが,真偽のほどはわからなく,謎に包まれています。
見どころは主郭東側の堀切だと思います。眺望は北側に米山,南側に春日山城ですが,この日は草木の繫茂で南側の眺望は開けていませんでした。猿毛城登城のウォーミングアップにちょうど良いです。

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しんちゃん

家康公の鷹狩りのための御殿‥の一画にあった陣屋 (2024/05/25 訪問)

中泉御殿は徳川家康が鷹狩りの際に用いる宿泊所として中泉村に築いたとされ、中泉陣屋は御殿の一角に置かれ「中泉代官所」とも呼ばれました。陣屋のあった場所は御殿遺跡公園として整備されています。周辺に遺構は有りませんが、御殿の裏門が西願寺に、表門が西光寺に移築され、案内板が建てられています。
また磐田市の民家には陣屋の表門が移築されているようです。

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びーこ

ホントに5日で掘ったの〜? (2024/05/19 訪問)

本来だったら、信長らしい一直線の大手道をグイグイ登っていくのが醍醐味なのかもしれないが、
まずは小牧山城史跡情報館「れきしるこまき」に立ち寄って情報収集することをお勧めする。
石垣模型や城郭シアターなど様々なコンテンツを備えているが、これらは後でゆっくり見るとして、トイレ脇のレクチャールームでひっそりと上映されていた春風亭昇太師匠の「小牧山散歩!信長の城コース、家康の城コース」が面白いし、分かり易かった。ぜひこちらを視聴してから登城して欲しい。

◆土塁
今回一番楽しみにしていたのはこの土塁。「どうする家康」で榊原康政が5日で掘ったというアレである。写真だと分かり難いかもしれないが、とにかく深くて広い土塁。堀に降り立ってみたかったが、立ち入り禁止。残念・・・

◆大手道
真っすぐに伸びる大手道があるのは、小牧山城と安土城だけらしい。安土城のような立派な石造りではないが、十分存在感はある。一番の下から一気に登ろうとしたが、やっぱり途中で息切れ・・体力不足を痛感。

◆石垣
岩盤の上に積み上げられた野面積の復元石垣は、なかなかの迫力!石垣の崩壊で落ちた転落石が落ちたままの場所に転がっているのも面白い。

◆模擬天守(小牧山歴史館)
1年前にリニューアルしたということで、映像を使った斬新な展示が多く、楽しみながら見学することができた。また、展望室は犬山城ほどではないが開放的で、風を感じながらしばし遠い昔に思いを馳せる・・・

◆土塁断面展示
文字通り土塁の断面をそのまま展示してある。これは面白い!他では見たことない。大手口とは反対側にあるのでちょっと歩く必要があるが、これはぜひ見て欲しい。

それにしても、小牧山歴史館と小牧山城史跡情報館の2館見学で200円というのは破格!リニューアルもしているのに大丈夫か?と心配になってしまった。
それからフレンドリーなスタッフの方々の対応にも感謝したい。掃除も行き届いており、気持ち良く見学することができた。

小牧山城でのランチは市役所の食堂を予定していただが、残念ながらこの日はに日曜日ということでお休み。本来なら6階の食堂からお城と土塁を眺めながらランチができたはず。

代わりに愛知県民のソウルフード「スガキヤ」でラーメンとチャーハンを頂いた。普通に美味しかったが、登城後のビールにありつけなかったのが残念・・・フードコートにビールなし。覚えておこう。

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しんちゃん

夕方訪問なので写真が暗い。 (2023/01/04 訪問)

串木野城は串木野氏の城で南北朝の合戦の際には五代・串木野忠秋は南朝方に味方しますが、島津貞久に敗れ、忠秋は知覧に逃れたそうです。以来当地は島津氏の支配下に置かれ、島津義久が弟の家久を串木野・隈之城の地頭に任じ、嫡男・豊久がここで生まれたとされています。
零汰さんの投稿にもありますが、私も「ドリフターズ」の島津豊久の印象が強いです。「ヘルシング」も好きなのですが、独特のケレン味たっぷりの平野節というセリフ回しがクセになるんですね。私が「城びと」を投稿する半年ほど前から投稿が途絶えてしまっているのが残念な限り。
多くの人が入ってきて(もちろん若い人も)城びとがもっと盛り上がり、長く続いてくれればと思っています。城びとを初めて一年を過ぎた私の感想です。

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