築城当時は、大坂城に次ぐ巨大城郭だったそうなので、破却するのも大変だったらしく、石垣が多く残っていました。
山里丸跡に広沢寺というお寺が建っているのですが、地元の肥前垣添城主・名護屋経勝の娘で豊臣秀吉の側室となった広沢局に由来するお寺でした。
広沢局は20歳で秀吉の側室となったそうですが、秀吉が名護屋城に滞在したのは1年2ヶ月程で、秀吉は広沢局を名護屋城に残したまま大坂に帰ってしまい戻ってきませんでした。それから5年程して秀吉が亡くなったので、広沢局は26歳の若さで出家したそうです・・・
秀吉の側室になったことで、名護屋氏としては恩恵も多かったのだろうとは思いますが、広沢局の一生を考えるとやるせなくなります。
戦国時代なんだからそんなことは当たり前で、広沢局は恵まれている方だったのかもしれませんが。太閤の夢跡の名護屋城より、広沢局のことの方が心に残ってしまいました。
遺構について全然書いてなく申し訳ないですが、広沢寺には加藤清正が朝鮮から持ち帰ったと伝わる蘇鉄がありました。5枚目の写真です。加藤清正が好きな方は広沢寺に行けば見られますよ。
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