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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ②:津辺城➡城びと未登録(千葉県山武市) (2020/01/23 訪問)

飯櫃城から転戦。車で30分くらいでした。
日吉神社脇(35.614885,140.411041)に駐車し、登城口(35.614915,140.411652)より攻城。

津辺城の歴史は必ずしも明確ではないが、伝承では鎌倉時代に千葉氏の配下だった石井将監の居城だったといいいます。
その当時の居館の在り方からすると津辺城が本拠地ではなく津辺集落のどこかに居館を構えていたものと思われます。
ある程度はっきりしているのは、天正年間に坂田城の城番を務めた井田氏の家臣白桝和泉守が津辺城の城主をつとめていたと伝わっています。
現在城址には主郭部に空堀と、わずかに土塁を確認することができます。
登城口は日吉神社の東にあり、目と鼻の先には成東城があります。

倒木、枯枝が攻城を阻むが、堀は深く、見ごたえがあります。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ①:飯櫃(いびつ)城➡城びと未登録(千葉県芝山町) (2020/01/23 訪問)

高野神社入口(35.730407,140.4228)に駐車して攻城しました。

飯櫃城は山室氏の居城として知られており、天文元年(1532年)に山室常隆によって築かれたと云われています。
常隆のあとは山室氏勝そして山室光勝と三代続いたが、天正18年(1590年)光勝の時、豊臣秀吉の小田原征伐で徳川家康の家臣保科正俊の軍勢によって攻め落とされ、山室氏は滅びました。
現在城址は農地となっていますが、土塁や空堀などの遺構が良好な状態で保存されています。
また城址東端にある高野神社の参道脇に城址碑が建てられています。

高野神社入口に駐車して攻城しましたが、朝早かったので真っ暗。
ヘッドライトをしても、よく見えませんでしたが登城路の切通しは確認できました。
攻城時間は20分くらいでした。

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リトルボブ

臼井城とセットで訪問 (2021/01/31 訪問)

一部削られているところもありますが土塁が良好に残っています。
見晴らしが良く印旛沼が見渡せます。

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リトルボブ

激戦の地 (2021/01/31 訪問)

下総に侵攻してきた上杉軍を撤退させた臼井城の戦いで知られるお城です。
本丸跡に土塁が多く残っています。
わかりにくいですが、堀の一部が駐車場になっています。

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リトルボブ

小さくてかわいい城址 (2021/01/31 訪問)

城址には民家が建っていて、入り口が虎口のように見えます。
虎口を見るとつい突入したくなりますが、地権者が建てたこの先入らないよう書かれた標識があります。
ご迷惑をおかけないよう気を付けましょう。

土塁がどの程度残存しているのか気になりましたが、民家前という事もあり数分の滞在で退散しました。
隣接する藪の中にはだいぶ埋まっていましたが堀も見えました。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその9、その10 増尾城、幸谷城 (2021/01/31 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその9、10

近いので2城セットで攻城。(幸谷城はこのサイトに登録されていません)
緊急事態宣言が出されましたが、移動は自家用車、現地は人がほとんどいないので、登城する事にしました。

増尾城は、学校が近くにあるからか、部活の学生らしきランナーがマスクもつけずに走っていました。
城は広く、説明板に描かれた縄張りの外側も含めてお城だったのだと思います。(知らんけど)
御城印が無ければ多分来る事のなかった城址ですが、意外とお城でした。

御城印は、緊急事態宣言発出前に道の駅しょうなんで購入済みの物に日付を記入しました。

一方幸谷城は住宅街の中にあり、入口が分からずウロウロしました。不審者と思われたかも(^^)
郭はあり、「堀」とか「土塁」とか「虎口」などの案内板がありますが、地味、というか、よくわかりません(高低差が小さい)。幸谷城の写真は御城印のみにしました。

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新九郎

土塁が素敵な師戸城 (2021/01/31 訪問)

ここのお城に来て、土塁で出来た城の魅力にはまりそうになっている今日この頃です。城という字は土で成ると書いてあるのが、なるほどと納得することが出来ます。展望台からは印旛沼が良く見えて水運を利用していたのがよく分かります。
印旛沼の向かいには、本家の臼井城が良く見えて、連携playでこの地を抑えていたのも良く分かります。戦国のお城で実際戦ったお城はさほど多くはないので、守りにも長けていることが実感出来ました。

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新九郎

臼井城跡 (2021/01/31 訪問)

北側が印旛沼、東側も昔は沼で、西は湿地と川で南は湿地帯であり、城に登りたくても小高い丘を活かした高低差が半端ない土塁で囲まれていては、これでは、確かに謙信公も苦労して南下したのはいいがこの戦いで敗けた後には千葉には来なくなるのも分かりました。

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姫街道

白富士望む充実の勝間田城 (2021/01/31 訪問)

遠江地方における16世紀の代表的な山城は、武田対徳川で有名な高天神城・諏訪原城。15世紀は今川対横地・勝間田の横地城・勝間田城だ。
その勝間田城だが、今大変革を迎えていると言っていい。全体的に伐採・伐根・草刈り整備が進み、その全貌が現れつつある。特に三の郭周辺は横堀や二重堀切が明確になり、以前より城が大きく感じられるようになった。
勿論名所である東尾根の5重堀切は管理者の熱意が伝わる整備のおかげで圧巻。東尾根の物見台整備も今後期待していいだろう。
築城当時は対今川で北向きの形状で、武田・徳川の高天神城を巡る戦い時に主曲輪や南曲輪の土塁が高天神城に向かって築かれたのではないかと私は想像した。戦国時代初期の連続曲輪に、武田・徳川の技巧的な築城技術によって曲輪が独立的・階層的に残存している。
穴ケ谷城、龍眼山城などの支城と共に巡ると、東西に伸びる支城ネットワークで、侵入してくる敵から領土を守ろうとした勝間田一族の想いが伝わってくる。

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赤い城

藤沢城 栃木県栃木市 (2021/01/23 訪問)

不摩城から見ると川の対岸にあります。
県道沿いに小さな案内板があり、そこから登城。
説明板も立っていました。主郭への道はこの時季でも藪で断念。
遺構がどの程度残っているのかもわかりませんでした。
手作り感のある案内板も立っていますがイマイチよくわかりませんでした。

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小城小次郎

小さいけれども小さく見えない (2020/11/29 訪問)

犬山市内のフレンチ料理店「奥村邸」は戦国時代に大森城主だった奥村氏の末裔が営んだ商家なのだそうだ。面積的には小さな城だが現地に行くと小さくは見えない。横堀と土塁を効果的に配した実に戦闘的な城塞だ。

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pascal

とにかく、気持ちの良くなる 采女城 (2016/01/23 訪問)

采女城は又兵衛基次でお馴染みの播磨後藤氏の一族の城です。
鎌倉初期、武功のあった(承久の乱か?)後藤伊勢守基秀という人が采女の地頭職を与えられ、移り住んで築いた城だそうです。
以後15代300年余りにわたり、この地を統治した後藤氏ですが、永禄10(1567)の織田信長の侵攻に際しては防備を固めて果敢に戦い、玉砕・滅亡してしまいました。

地元の方の話によると、後藤氏は領民にとても慕われた領主だった様で、廃城となった城址も領民の手によって“聖地”として守られて来たのだそうです。
城址の周囲では、住宅団地や霊園の開発が進んでいますが、自然林に覆われた城域には、住居や耕地の痕跡が認められません。
お陰で、縄張り図通りの遺構がハッキリと遺っていて、次々に現れる郭や堀切には、嬉しさを越えて感動すら覚えます。

史跡指定の無い采女城の整備を担っているのは地元の有志(老人会)の方達だそうで、適度な手作りの整備でもてなしてくれます。
城址とそれを大切にし行動する地元の人達のベストマッチ。
遺構の残存度と相俟って、『行って良かった♪』と思える気持ちの良い城址です。

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ヒロケン

未完成のままの城 (2021/01/09 訪問)

吉田城は1505年、牧野古白が戸田氏に対抗するため、今橋城を築城したのが始まりとされ、戦国期には今川・徳川・武田の争奪の地で戦いが繰り返えされました。
1564年松平元康(徳川家康公)が今川方の吉田城を攻略し、城主に酒井忠次を城主に据えています。酒井忠次は新たに堀などを堀り、吉田城と改名しています。家康公が関東移封後は、羽柴秀吉配下の池田輝政が15万2千石で入封し、吉田城を15万2千石に相応しい大改造を行い、近世城郭へと変えようとしましたが、関ヶ原合戦で手柄のあった輝政は未完成のまま姫路へ転封。以降は、3万石から8万石の譜代大名が吉田城へ入りましたが、小禄であったため、完成を見ず明治維新を迎えました。

現在、豊橋公園として市民の憩いの場所として、親しまれておりますが、鉄櫓(復興)・曲輪・土塁・石垣・堀などが残り、当時を偲ばせています。アクセスとしては、JR豊橋駅から市電で5分、市電市役所前から徒歩5分で豊橋公園に着くことができます。また、公園内に無料駐車場もあります。続100名城のスタンプは鉄櫓内(無料 火~日曜の10時~15時まで開館)または、市役所東館内に置かれています。

昨年、輝政時代の石垣が見つかったということで、見に行ったのですが、雨で堀底がぬかるみ早々に退散したことがら、年明けに行ってきました。

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小城小次郎

小さいながらも完成度は高い (2020/11/29 訪問)

小領主だった小池氏のお城だが戦国期に改修を受けたらしく、小さいながらも完成度は高い。公園整備が行き届いていて見学しやすいお城なので、本来の城道がどう通っていたのかを考えながら歩くと実に楽しい。

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チェブ

耳に抜け穴。 (2020/12/30 訪問)

千葉県習志野市の「実籾城」、名前の響きだけで米作りに適してる土地っぽいです。

「実籾城」は千葉氏のお城だったようですが、遺構が発見されても文献が残っていないので、不明です。
「実籾城」近辺の地域は江戸時代、『牧』という牛や軍馬の飼育や繁殖をする場所があったそうです。
米作りよりも、飼葉が豊かだったのでしょう。
この頃には「実籾城」も廃城してしまっていたんじゃないでしょうか?

こちらの「実籾城」も以前 投稿した「夏見城」と同じように抜け穴伝説があります。
習志野市の「実籾城」とお隣の船橋市の「夏見城」、抜け穴で繋がってたとか、どちらかの築城者がアドバイスして便利だから掘ったなど文献が出てきたら楽しいのにな(^-^)

「実籾城」は石碑や説明板、ありません。
住宅街を抜け、下がったらナビの案内が終了しました。少し歩いてみましたが、畑の場所が湿地だったとすると、住宅があった所が城跡か?と想像力、フル回転散歩になります。

余談ですが城攻めばかりしていたら、右耳が四六時中、出陣の法螺の音がボーボー鳴ってます。
武者震い、ウズウズしますが自粛中だから、仕方ありません。
『早く自由にお城巡りしたいね』と言ったら、家族に『それは、耳鳴り!』と言われました。
耳に抜け穴の病院が先か!

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pascal

オジサンには、最も難攻不落だった萱生城 (2016/01/23 訪問)

四日市市街の北のはずれの丘陵上にある萱生城は、鎌倉時代からこの地の地頭職だった春日部氏の居城です。
伊勢平氏だったこの氏は、その後に武蔵春日部氏(埼玉県春日部市)との縁が有った様で、春日部氏を名乗ります。
戦国時代には、北畠氏や長野氏、関氏などと並んで“伊勢六人衆”のひとつに称されていますから、そこそこの勢力を持っていた様ですね。
その本拠地の萱生城ですが、日本城郭体系によると、平山城ながら東西700m、南北300mもの平坦地を山上に持ち、家臣団屋敷も取り込んだ一体型の城だった様で、北伊勢髄一の威容を誇ります。
山上には大堀切が走り、本丸には石積みの天守曲輪も有った様ですが、残念なことに先の大戦後に学校用地として開発された為、殆どの遺構が失われてしまいました。
現存遺構としては、井戸跡などが確認されていますが、山裾を歩いたら切岸痕が確認できるので、それなりに遺っている可能性は有りそうですね。
是非とも登って肉眼で確認したいところですが、訪問時点での城址は女子高校なので、カメラを持って入り、バシャバシャ写真を撮ってるとパトカーが来るのは必至です(^-^;
鎌倉の玉縄城址状態ですね。
やむなく周辺を撮った写真を添付しますが、聴くところによると近年に共学になった様で、ハードルは幾分下がっている様です。

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ぴーかる

山崎陣屋 (2020/12/13 訪問)

【山崎城】
<駐車場他>山崎歴史郷土館駐車場
<交通手段>車

<見所>紙屋門・石垣
<感想>日帰り宍粟市攻め城の旅ラスト4城目。この陣屋跡は城砦があったかもしれないこの鹿沢の地に1587年木下勝俊が山崎城を築城した。その後、1615年に池田輝澄が山崎3万8千石で入封した後に本格的な築城を行った。池田氏が4代ほど続き、本多氏が1万石で入って陣屋扱いとなり明治まで続く。
 陣屋跡南側は直線がつづく桜の馬場と石垣が見事、現存の移築門である紙屋門と両サイドの土塀も当時の雰囲気を出している。南西隅に埋門跡石垣は切込接の布積み石垣で下から見上げるとまあまあの迫力で初期は城として築城された造りをしていると思った。

<満足度>◆◆◇

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅰ⑦:生実城(ラスト) (2020/01/31 訪問)

小弓城から徒歩25分弱/1.9Kmで本城公園(35.566510,140.1459)に着きました。

千葉氏は、上総国との境界付近の守りとして、南生実町に小弓城を築き、重臣原氏に守らせていたが、小弓公方にこれを奪われました。
その後、1538年の第一次国府台合戦に勝った後北条氏方の原氏は領地を取り戻し、新たに北に2kmほど離れた生実町(北生実)に城を築いて、ここを本拠地としました。
同時に、「おゆみ」の表記を「小弓」から「生実」に変えたものと考えられています。
ただし、近年の発掘調査で、北生実の城も室町時代には既に存在していた事が確実となり、実態としては2つの城を併せて「小弓城」または「生実城」と書き表していた可能性も出てきました。
なお、従来は小弓城(南生実城)廃城後に築かれた新城だと思われていましたが、出土品などから同時期に存在していたことが調査結果からわかってきており、原氏の居城は生実城で小弓公方もここに入ったとする説もあります。
このため、北生実を本城、南生実を支城をとらえ、連歌師の柴屋軒宗長が入った小弓館や小弓公方も北生実にあったと考えるべきとする研究者もいるそうです。
1590年に後北条氏が滅亡すると、この城は徳川家康のもとのなり、西郷家員が支配しました。
その後、1627年に生浜地区を中心とする地域の大名となった森川重俊は、生実城の一角に陣屋を築き、生実藩の政庁となり、以後11代240年にわたって森川氏の支配が続きました。
現在城址には生実神社があり、神社を取り巻くように土居と深い空堀が残っています。また本城公園に案内板があります。

本城公園(35.566510,140.1459)で案内板の写真を撮り生実神社(35.564865,140.1480)で空堀の確認をして撤収しました。
攻城時間は30分くらいでした。
「房総日帰り攻城Ⅰ」での城間徒歩移動距離=17Km、攻城距離=24Km、攻城歩数=30801歩でした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅰ⑥:小弓城➡城びと未登録(千葉県千葉市) (2020/01/31 訪問)

木出城から徒歩30分弱/2.3Kmで千城台北駅に到着。そこから千葉モノレールで千葉駅に向かい、京成線で学園前で下車。
学園前から徒歩15分強/1.4Kmで墓地前(35.554250,140.1505)の城碑/案内板に着きました。

鎌倉時代初期の創建といわれ、千葉氏が上総国との境界付近を守る要衝として築き、重臣の原氏に守らせたようです。
1517年(永正14年)10月15日、足利義明が原氏(原胤清)を追って城を奪い、「小弓御所」(小弓公方)と名乗り、里見氏の支援を受けて後北条氏方の千葉氏・原氏と争いました。
武田二十四将としても知られる原虎胤は、このときの合戦で敗れて甲斐に落ち延び、武田信玄に仕えました。
1538年の第一次国府台合戦で足利義明が敗死すると、城を奪還した原氏は城の北側に新城を造り、表記を「生実城」と改名した。
ただし、近年の発掘調査で新城とされた城も室町時代にはすでに存在していたことが確実となり、実態としては2つの城を併せて「小弓城」、または「生実城」と書き表していた可能性も出てきました。
そのため、近年では便宜上、旧城とされてきた小弓御所跡の城を「南生実城」、新城とされてきた生実藩陣屋跡の城を「北生実城」呼んで区別されることがあります。
現在城址には八剣神社があり、墓地の中に城址碑や案内板が建てられています。

墓地前で城碑/案内板の写真を撮った後、八剣神社に廻り切通しの写真を撮り撤収しました。
攻城時間は20分くらいでした。

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トリウィス

岡豊城 (2020/12/11 訪問)

高知県、初のお城訪問は、岡豊城でした。
長曾我部氏の居城で、敷地内では長曾我部元親の像が立っています。
敷地内でスタンプラリーを行っており、すべてのスタンプを集めると御城印がもらえました。
お天気もよく、景色もきれいでした。

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