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YAICHI

川俣の戦いの舞台 (2017/03/16 訪問)

城址は、九十九曲集落の西、蛇行する櫛田川に西、南、北にかこまれた山地頂部にあります。城址は方形に近く、北から西にかけては土塁がめぐります。北側では4m、高さ1.5 mであるが西にかけては巾10mもあります。南側では、堀切が認められ、特に巾広い土塁は2条の堀によって切られています。なお、土塁の内側は、二段になっています。 (「三重の中世城館」参考)

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だめなこ

足助城 (2019/11/09 訪問)

時間がなくてバタバタだったから
色々ゆっくり見れてないし
また行きたい\('ω')/

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チャンミー

この道の先に… (2019/08/03 訪問)

釧路空港からレンタカーで約2時間半🚗。根室駅前の案内所に立ち寄りスタンプをゲット✌️チラシを手に再び現地を目指す。この道を歩いたときのワクワク感は忘れられない。間違いなく今年一番のハイライト⭐️

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だめなこ

妻木城 (2019/11/10 訪問)

お城 この日は4つ行ったのに
名前が違うのか1つ見つからないけど
暗くなりかけてたのに御城印ももらえたしヨカッタ\('ω')/

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だめなこ

素敵すぎる! (2019/10/19 訪問)

また 今度は御城印をもらいに行きます♪

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YAICHI

一之瀬城 東の城跡・西の城跡 (2017/05/17 訪問)

一之瀬城を本拠地とする豪族愛洲氏は、南北朝時代、南朝方を支える勢力として活動していました。
延元二(1337)年、伊勢に下向してきた後醍醐天皇の息子宗良親王を愛洲太郎左衛門らが一之瀬城に迎えています。
このことは、右の和歌の詞書によって知ることができます。
 当時の城は、後世の城のように高い石垣や堀をもつのではなく、この一之瀬城のような山城が一般的でした。
 一之瀬城の東の城跡は、大然の要害という地形を得て築城され、台状曲輪(主郭)を中心に空堀、土塁などをめぐらしています。ここから西に見える山頂(西へ400 メートル)には西の城跡があり、曲輪、堀切などがよく残っています。
 一之瀬城は東西の城が一体となって機能した中世の城でした。           (説明板より抜粋)

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小城小次郎

丸子城

通好みのキレッキレな縄張はまさに比類なき存在。実は見れば見るほどわからないことだらけで、個人的には「自然歩道」は大手道ではないのではないかと考え始めたところ。

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赤い城

蓮福寺の背後に (2019/11/09 訪問)

本納駅から徒歩15分。蓮福寺の墓地の背後が城址になります。
里見氏と北条氏の間で争奪戦もあった城。
脆そうな土壌で切通のようになった先に主郭部があります。
主郭には石碑が立っていました。
痩せ尾根上を削った平場がありますが両脇は崖、落ちたらひと溜まりもありません。
藪の先にも進んでみたいような感じでした。

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だめなこ

明知城\('ω')/ (2019/11/10 訪問)

これ ホントに歩きやすくなってるの?w
ってぐらい険しい山すぎて
お城ってことを忘れてて
写真撮るのも忘れてた(´Д`|||)

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チャンミー

令和1年11月11日 (2019/11/11 訪問)

たまたま1並びの日に訪れることができたので、うれしくって載せてみた✌️

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だめなこ

御城印と五平餅だけ・・・ (2019/11/10 訪問)

夏に行った時はまだ御城印を集めてなかったので
他のお城に行く予定もあったし
今日は御城印をもらって五平餅を買って撤収('ω')

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シロマサ

鹿沢城 現在は本多公園 (2019/10/30 訪問)

傘内氏が築いた篠の丸城があったが、1580年(天正8年)羽柴秀吉に攻め落とされた。
その後、黒田官兵衛が秀吉からこの山崎に領土を与えられた時は、山上の篠の丸城を居城としていたようである。
木下勝俊が1587年(天正15年)に、現在の山崎城がある鹿沢の地に築いた。

江戸幕府になり、山崎藩は1615年(元和元年)鹿沢の山崎城を政庁として、池田輝政の4男輝澄が3万8千石で入封した。
その後、松井氏、池田氏、本多氏と、3度藩主交代を経て明治維新を迎えた。

廃藩置県後は、学校施設などが設置されたが、現在本丸跡は本多公園となり、幕末期の設置とされる紙屋門などが残る。

今回初めて山崎城を訪れたが、本丸跡は本多公園として整備されていて、石垣などは新しく整備されているが、当時偲ぶことができる。
本丸内に移築された山崎歴史民俗資料館(龍野治安裁判所山崎出張所)ある。
また、宍粟市立図書館の2階にある山崎歴史郷土館は、図書館の受付の人に声をかけて見学されてもらった。
そして駐車場は、図書館の南側を利用した。



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チェブ

ズッキーニ畑。 (2019/09/22 訪問)

長野県佐久市「根井氏館」に行きました。
ねのい、と読みます。
佐久市には続100名城の「龍岡城」を含め7城のお城が「お城を探す」に登録されています。
前日が雨だったので山側は後日リベンジするとして、「根井氏館」に向かいました。

木曽 義仲さんの四天王の一人、根井 行親さんの館です。
ちなみに四天王は根井さんの他に今井 兼平さん、樋口 兼光さん、楯 親忠さんです。
今井さんと樋口さんは兄弟。楯さんは根井さんの息子です。
そして樋口 兼光さんは直江 兼続さんのご先祖様になります。

正法寺辺りが館跡です。高い場所でもない、どちらかと言うと低い場所です。遺構もありません。
お寺さんとズッキーニ畑でした。

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だめなこ

やっぱり晴れた日に・・・ (2019/10/12 訪問)

台風の日
ググってみたら『営業中』ってなってたからポンチョ着て長靴め履いて行ってみたけど
臨時休業 だて貼り紙があって
お城の中には入れませんでした( •᷄⌓•᷅ )

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イオ

大坂の陣史跡めぐり (2019/10/09 訪問)

大坂冬の陣では徳川家康が本陣を置き、夏の陣では真田信繁(幸村)が天王寺口の戦いに際して陣を置いた茶臼山陣城は、茶臼山古墳を利用したとも、奈良時代に和気清麻呂が排水・水運のため上町台地を開削した際の盛り土とも言われますが、現在では地形は大きく改変されており、陣城としての遺構は見られません(茶臼山南側の河底池が水堀かと思っていましたが、違うようです)。
ですが、茶臼山の麓や山頂には大坂の陣にちなんだ石碑や説明板が数多く建てられていて、歴史の大きな舞台となった地に立って、往時に思いを馳せるには絶好の場所かも知れません。特に山頂は「真田幸村という人」「英雄になった真田幸村」「真田幸村名言」などといった説明板に取り囲まれており、真田推しの方(私もその一人ですが)にとっては、一度は訪れる価値があると思います。

周辺にも大坂の陣関係の史跡は多く、茶臼山から北に徒歩約5分の安居神社は真田幸村最期の地と伝わり、戦死跡の石碑や座って休息する姿の銅像、最期を遂げたとされるさなだ松(の二代目)が見られます。
また、茶臼山北隣の一心寺には夏の陣で戦死した本多忠朝(本多忠勝の二男)の墓所がありますが、冬の陣の際に深酒により敗走して家康に叱責されたことにより、天王寺口の戦いでは汚名返上すべく先鋒として毛利勝永隊に突撃し奮戦するも、猛反撃を受けて戦死。死の間際に、自分のように酒で身を誤る者を救いたいと誓ったといわれることから、酒封じの神として酒で苦しむ人々の信仰を集めているんだとか。私も酒をやめたいとは思わないまでも、酒による小さな失敗は何度もありますし、身を誤らない程度に楽しく飲めるよう願って手を合わさせてもらいました。
あと、茶臼山や大坂の陣とは関係ないものの、天王寺公園内には中之島の黒田藩蔵屋敷から移築された長屋門がありますので、こちらもあわせてぜひ。

以下余談。
ここまで書いてきて、周辺史跡も含めてくろもりさんの投稿をなぞったかのように同じところをめぐってるなぁ、と。同じついでに申しますと、私も「じゃりン子チエ」は大好きで、くだんの歌は今でもそらで歌えます。それにしても、ひょうたん池は茶臼山の河底池がモデルだったんですね。
 

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しーげ

長大な「水城」 (2011/11/13 訪問)

水城は道路で分断されています。すべて回るのは難しいと思います。また、春日市には小水城が点在しています。

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しーげ

登りやすい城 (2016/04/30 訪問)

道が整備され、登りやすい城です。

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しーげ

道が変わっている (2016/12/30 訪問)

光源寺から新しい道がついているので、これまでと違うので要注意です。

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しーげ

イノシシ除けの柵に注意 (2016/08/07 訪問)

円通寺の奥のイノシシ除けの柵の出入り口から城跡に入ることが出来ます。

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しーげ

何とか石垣が見える (2018/04/29 訪問)

なかなかわかりにくいですが、石垣の列の一部を見ることが出来ます。

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