遺構は土塁や庭園にある石垣が見所です。
その石垣がどこの残りなのかははっきりわからずですが、その石垣を見て心踊ってしまう私です。
伊達家に300年という長い時間を関わってきた梁川城、建っていた頃の詳細な遺構を見たかったなという欲が出てきてしまいました。
残る遺構は範囲が小さい為、見学はしやすいです。
伊達家の事など思いを巡らし、土塁や石垣を眺めている間に意外にもなかなか時間が経過してしまった城巡りでございました。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2021/11/17 13:06
伊達家にゆかりの深い城跡 (2021/08/10 訪問)
遺構は土塁や庭園にある石垣が見所です。
その石垣がどこの残りなのかははっきりわからずですが、その石垣を見て心踊ってしまう私です。
伊達家に300年という長い時間を関わってきた梁川城、建っていた頃の詳細な遺構を見たかったなという欲が出てきてしまいました。
残る遺構は範囲が小さい為、見学はしやすいです。
伊達家の事など思いを巡らし、土塁や石垣を眺めている間に意外にもなかなか時間が経過してしまった城巡りでございました。
+ 続きを読む
♥ いいね
23人が「いいね」しています。
2021/11/17 10:32
銀杏が色付き綺麗でした❣ (2021/11/12 訪問)
復元二の丸角櫓の公開再開され水戸城を訪ねましたら、先ず三の丸の大空堀、大土塁には何時もながらの圧巻景観に驚きますが更に土塁上の銀杏の木々が黄色く色付き初めての風情を楽しみました、復元二の丸大手門を潜って二の丸内部の水戸学の道沿いにも黄色く色付いた銀杏で各学校の白土塀と相マッチし城内雰囲気は最高感充満。
杉山門越しの色付いた銀杏、本丸大堀切の水郡線には丁度列車が走り金網越しに撮影、本丸薬医門、同枡形虎口等を角櫓に登った後に家内と散策しました。
今回の水戸城登城で写真を沢山撮ったので二回に分けて投稿させて頂きました。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2021/11/17 08:11
八上城攻略の拠点 (2021/11/06 訪問)
戦国前期に細川高国に反旗を翻した柳本賢治が籠った城で、明智光秀の丹波攻めでは八上城攻略の拠点となり、降伏した波多野兄弟が連行された本目城は神尾山城を指すとされます。
八上城へと続く篠山街道を見下ろす神尾山に築かれ、山上の金輪寺の後背の尾根沿いに多数の曲輪を連ねていますが、金輪寺は奈良期創建の古刹で、かつては周辺に多数の堂宇が建ち並んでいたため、周囲の削平地のどこまでが寺でどこからが城なのかは判然としません。
山麓から対向困難な細い山道をひたすら上って金輪寺へ。金輪寺の駐車場に車を駐めて登山口の石段を上り、境内の東側奥から登城開始です。整備された登城道を進むと金輪寺歴代住職の石碑が並ぶ曲輪があり、この辺りからが城域のようです。水の手曲輪を右下に見ながら登って行くと、東西に長くのびた堀切に到着。堀切は幅広く深さもあり、北側は切岸、南側には土塁が設けられ、西側は竪堀となって続いています。堀切南側の曲輪は藪に沈んでいるので探索をあきらめ、北側の切岸をよじ登ると、階段状に曲輪が続いており、切岸は急峻で高さもなかなかのものです。その一段上の曲輪には、神尾山城址の案内板と丸太ベンチが設置されていました。神尾山城の石碑や説明板は見当たらず、案内板もここでしか見かけませんでしたが、なぜ城の中心部でもなく、眺望がきくわけでもないただの段曲輪に設けられているんでしょうね? さらに進むと、登城道に立ち塞がるように土塁がせり出し、土塁には石垣が設けられていました。城道に設けられた城戸(虎口)のような位置付けでしょうか。
城戸を抜けると山頂部に至ります。奥に進む前に「八幡平 天望台」の案内標識から登城道を逸れ、東尾根の曲輪群へ。数段の段曲輪の先には天狗岩と呼ばれる巨岩があり、山岳修験の行場だったようです。山頂部はほぼ平坦なため曲輪は土塁により区画されている…らしいのですが、最大の仕切土塁以外は灌木と藪でよくわかりませんでした。登城道は北曲輪群の西側の虎口を出て尾根沿いに続き、虎口を出たあたりには小規模ながら畝状空堀群が設けられています。また、北曲輪群東下の帯曲輪にはわずかに石積みが見られました。
須知城に続いて、明智光秀の丹波攻めの拠点の城として訪れましたが、石垣も少しはあるにせよ、主には切岸と土塁と堀を駆使した土の城であって、須知城のような光秀による改修は感じられませんでした。あくまで八上城攻略の中継地であって、前線ではないからなんですかね。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2021/11/17 07:13
2021/11/17 00:03
その1 (2021/10/31 訪問)
早朝から開いている門もあるとのことだったので7時前に出かけてみましたが、すでに園内にはお散歩をされている方々の姿が。早朝城散歩生活、憧れます。
今回は5時間ほどかけて見てまわりました。写真を全部で500枚くらい撮ったので、整理がてら分割投稿します。
最初は公園に着くまでの寄り道です。金沢城は二重堀の総構えですが、西外総構えの枡形遺構がきれいに整備されていました。江戸初期の姿だそうです。説明板を読みながら脳内復元も試みました。総構え一周、いつかできたらいいな。
尾崎神社は金沢城の北西隅で、天照大神、東照大権現、前田利常が祀られているのだそうです。加賀藩御算用場跡地の案内もその先に。町なかにも見どころがあふれていました。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2021/11/16 23:14
23区内の遺構を巡る⑥ (2021/11/06 訪問)
目黒駅から徒歩で10分くらい。
国立科学博物館自然教育園の中に土塁が残っています。
但し明治以降、旧陸軍弾薬庫としても使われていたためすべてが館跡の遺構とは言え無さそうです。
それでも都会の真ん中に残る土塁は貴重かと。
入園料は320円。
土塁だけでなく四季の植物や花を楽しめる都会のオアシスかと思います。
もう少ししたら紅葉も綺麗そうですね。
志村城、赤塚城、石神井城、世田谷城、奥沢城、白金館と廻った23区内の遺構廻りもこれで終了。
この他は江戸城、品川台場、浜離宮ですかね。
他あれば教えて下さい。
微妙な遺構もありますが大都会東京に残っていることが奇跡的かと思いました。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2021/11/16 22:47
2021/11/16 21:15
やっと復元二の丸角櫓に登れました❣ (2021/11/12 訪問)
待ちに待ってた水戸城復元二の丸角櫓に登る事が出来ました、昨年9月には竣工してたのですが公開の為の見学通路の開設整備を今年の春、水戸梅祭りの頃と伺って居たのですが工事整備の関係と武漢コロナ感染拡大5波の影響で入館公開が延び延び中止となり蔓延防止規制、緊急事態の解除がなされ11月1日より公開が開始されたようです。
家内と宇都宮に居る孫の運動会を訪ねる途中に東名、圏央道、常磐道を駆けて水戸城を訪ねました、車は三の丸大堀西に在る有料駐車場を利用。
駐車場から三の丸大空堀、大土塁、黄色いもみじ銀杏を眺め、弘道館、復元二の丸大手門を潜り二の丸展示館で情報収集、資料ゲットし趣のある白土塀の在る水戸学の道を通り新しく出来た附属小学校、水戸三高の間に出来た模擬竹矢来で両サイド囲まれた砂利道見学通路を通ると新しく復元された白土塀と奥角に待ちに待った復元二の丸角櫓が目に入って来ます、人出もそこそこの入り、裏側から見る角櫓には格子窓等の構えは無く白漆喰の塗り壁面を眺めるだけ、二階部分は両サイドの多聞櫓上にこじんまりと収まってる。
角櫓に登りますと木の香り新たに木目の削りも綺麗で初々しい角櫓、二階へは登れません禁止されてます、格子窓から外を眺めますが近くのビル建物など視界は今一、角櫓、大手門復元の工程、使用部材の展示等がなされて居ました。
感想ですが二の丸角櫓を表側より景観良く俯瞰する所が欲しいないぁ~、見学遊歩道は大手門から白土塀下に通し土塁と白土塀を眺めるコースにして欲しかったとの思いを深く致しました。・・まあここまで頑張った茨城県、水戸市には感謝ですしありがたいことです、まあ贅沢な感想でした。
昨年10月に撮った二の丸角櫓の外側写真も1枚掲載いたします。
続きに綺麗だった銀杏のもみじを含めた水戸城散策写真を投稿させて頂きます。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2021/11/16 20:17
柳生古城 (2021/10/23 訪問)
【柳生古城】奈良県奈良市柳生
<駐車場他>専用駐車場はなし。市立観光駐車場有料を利用
<交通手段>車
<見所>堀切・堀
<感想>柳生古城の築城年は定かではないが、元弘の乱の時に後醍醐天皇が北にある笠置寺に逃げた際に築城者とされる柳生永珍が支援したことから、この頃からあったかと思われます。城びと未登録です。
登城口はバス停横にあり登城路はしっかりと整備されています。南から北の主郭に向かって攻めて行きますが、曲輪間は堀切で仕切られて、中には堀切からの竪堀ではなく、堀切から横堀に曲輪を回らす遺構も見られます。主郭までは数条の堀切と曲輪、主郭は広く北側に土塁、土塁上に剱塚があります。主郭北側は堀切が1条あり、その奥は遺構は見当たらなかったので城域はここら辺までかと思われます。比較的簡単に登れ、見所ある堀切があるので城びと未登録なのが不思議なくらい。訪れた際時間があったら是非行ってみてください。
<満足度>◆◆◇
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2021/11/16 19:54
佐々野城 長野県安曇野市 (2021/11/07 訪問)
この地方の会田氏に属する堀平氏が番をしていたらしい。
標高899mのこの尾根は南に佐々野城、北に三峰城があります。
特徴的なのは馬屋窪(うまやくぼ)という馬屋があったとされる40mx7m程の窪地が
あることです。綺麗に残ってます。
城跡には廃村となった堀平集落まで細い林道で行けます。
自分はAM6時とまだ薄暗い中で廃村に行くのは気が引けたので、手前の天田山神宮の
看板のあるカーブに車を停め、西尾根を行きました。20分位で3つの堀切を超え主郭に
行けます。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2021/11/16 17:09
勝幡城 (2021/11/16 訪問)
御城印目当てで出かけて来ました。石碑はひっそりと立っていました。
2度目の清洲城にも行って御城印ゲット。
+ 続きを読む
♥ いいね
7人が「いいね」しています。
2021/11/16 08:10
明智光秀の改修 (2021/11/06 訪問)
詳細は不明ながら、南北朝期に地元国人の須知氏が築いたと伝わり、明智光秀の丹波攻めにより落城。光秀によって改修され、丹波支配の拠点となりました。
先人の投稿を参考に、玉雲寺の駐車場に車を駐めさせてもらって明石側から登城開始。本格的な山城は半年ぶりのため、身体がなまっていないか懸念もありましたが、特に問題なく20分程度で西曲輪群の西端に到着。一部急斜面もあるものの、こちらのルートはよく整備されていて歩きやすい道でした。
西曲輪群の西端には土塁があり、櫓台状の土壇を越えて東に進むと、階段状の曲輪群の上に石塁が見えてきます。石塁の南側にはスロープ状の虎口が開口し、虎口脇の櫓台から横矢が掛かる構造になっているようです。スロープを下りた一段下の帯曲輪にも石積みが見られ、厳重な造りになっています。虎口を入るとまたも石塁が立ち塞がり、南側には喰違い虎口が設けられている…ようですが、石塁が崩れていて、そのつもりで見てようやくそう見える、という感じでしょうか。喰違い虎口を入った先が主郭です。この朝の下界は霧に沈んでおり、主郭からは一面の雲海を見ることができました。主郭の東辺は高さのある土塁がめぐり、北東部から主郭の裏手に回ってみると……こんな山中に4mもの高石垣が! 苔むした野面積みの石垣が主郭の東半分を覆っています。下調べで存在は承知していましたが、これほどの規模だったとは。高石垣南東下の二条の堀切の先は東曲輪群で、一部に石垣も見られますが、基本的には土の城で、階段状の曲輪の土塁と南側斜面に竪堀が数条見られるくらいでした。
下山して玉雲寺に参拝。玉雲寺は須知氏の懇請により島津氏出身の梵清禅師が開いた寺で、須知城落城時に焼失するも明智光秀が再興したとされ、見頃にはまだ少し早いものの、色づきつつある紅葉と山門と高石垣はなかなか絵になる景色でした。
主郭部を中心に石垣造りの虎口を設ける改修は黒井城を、山中の苔むす高石垣は周山城を連想させ、現地に立ってみて明智光秀が改修したとされる理由を実感することができました。「青天を衝け」も終盤に向かう中、今さらながらの「麒麟がくる紀行」ですが、下調べしていながらコロナ禍のため未訪の地もまだまだありますので、もうしばらく紀行を続けたいと思います。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2021/11/15 23:17
夕暮れに佇む大谷吉継の居城跡 (2021/09/20 訪問)
金ヶ崎と天筒山城を素通りし、日が暮れるまでの間にと敦賀城址に行ってみた。
跡地には浄土真宗大谷派の眞願寺が建つって、なんてドラマティックな‼️
境内には城の礎石が残っており、周囲には掘の跡かと思われる水路が巡っている。
敦賀市内の史跡を廻ってみたが、城域内に建つ敦賀西小学校には石碑があったがそれ以外分からなかった。秋の深まりとともに日没も早くなり時間切れ。。。次は敦賀全体をゆっくり廻りたい。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2021/11/15 22:45
2021/11/15 21:30
鯖街道を見下ろす優良物件! (2021/09/20 訪問)
光秀の大河ドラマ縁の地に名乗り出ていたからか、友人の評価がえらく高かったので行ってみた。
ここは、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている熊川宿にある山城。白石神社を突き抜けて登る。
登山道は整備されており軽い散歩程度、片道20分程で山頂に着く。
江戸時代には鯖街道としても栄えた熊川宿を見下ろす山城は、櫓台や本丸、堀切など綺麗に残す優良物件だ‼️
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2021/11/15 21:17
2021/11/15 20:47
河後森城,大正解です! (2021/05/03 訪問)
カズサンさん,瞬殺でしたね。
さすが,日々全国を行脚されているだけあります。
さて,解説ですが…
河後森城のメイン登城口の風呂ヶ谷を挟み,新城からスタンプ設置場所の西第十曲輪を眺望しています。
スタンプペッタンが気になると思いますので,本郭⇒古城⇒新城という散策順が王道かと思います。
宇和島市内で前泊し,始発の電車に乗車しました。日祝日の始発はホビートレイン。電車の模型展示があり,地味ですがラッピングもされてました。また,車内には専用ポストもあり,オリジナルスタンプのサービスもありました。わかっていれば,自分宛の絵ハガキを用意してたのに…。
早朝にもかかわらず,大勢の鉄オタくんたちが乗車していましたが,JR松丸駅降車は私を含めてたったの2名。その方とは風呂ヶ谷で再び…。感染リスク軽減のため,お互いに会話を避けました。
復路は,松野町役場前から路線バス。というのも,愛媛県内は知事からの協力要請で,飲食店等の強力な閉鎖措置が取られていました。バーターであてにしていた“ウナギを食すプラン”が頓挫してしまったため。
にのまるさん,東京コンプリート楽しみに待ってます!
いよいよ大島に上陸ですか!
次のクイズの準備に入りたいと思います。
甲府城の石画像ですが,お尻に見えちゃいました。
右のほうに「クイッ」とした感じで…。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2021/11/15 07:43
四国…∑(゚Д゚)
カズサンさん、早い‼︎
ありがとうございます。
みなさまの河後森城のご投稿と写真をじっくり拝見させていただきました。
朝田さん、素晴らしい景観のお城を教えてくださってありがとうございます。
出題写真を見ていろいろ想像してみました。結果、1ミリもかすらずに大はずれでしたが🤣、すごく楽しかったし、まだまだ全然何もわかっていないなぁということがわかったし、何より今後の楽しみが増えました‼︎
いつか絶対に行くので、その時は必ずや同じアングルの写真を撮ってご報告させていただきます♪
昨年の怒涛の【眺望クイズ】でお城巡りの視野が広がり、素晴らしい世界があることを知れたので、大切な写真を提供して出題くださった方々にはとても感謝しています。
西日本出身なのに西日本は空白地帯だらけなのでがんばりますᕦ(ò_óˇ)ᕤ
東京都の城びと登録城制覇まであと1城です。コンプした暁には是非【超ムズ眺望クイズ】で祝ってください‼︎
昨日11月14日はいい石の日だったそうなので、お礼に「途中まで彫ったけどやめちゃった〜」な感じの下書きの残る矢穴の写真をどうぞ‼️
さて、どこのお城でしょう?
…甲府城です(o^^o)
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2021/11/14 23:15
そこに愛はあったのか (2021/09/30 訪問)
一気に春日山城を攻めたい気持ちを堪えて途中下車。直江津。ご存知のとおり、越後の地は200年間上杉家のものでした。住民の殿様への愛着も相当で、その推しぶりは、逆説的ですが、秀吉が上杉景勝を会津に移した後に造られた城の縄張にも滲み出ているのだから興味深いものがあります。
後任として春日山に入った秀吉の功臣堀氏は1607年、日本海を背負った平野部に福島城(福嶋の表記も)を築きます。鉄砲使用で山城の機能が失われたことに加え、時代はすでにポスト関ヶ原。戦乱の世でなければ、山に拠り続ける必要もなく、国政の中心としての適地に大規模な平城をつくるのはある種の流行でした。ところがこの福島城、海だけでなく川も巧みに利用したガチの水城。天然の要害という点では山城となんら変わりありません。一体何をそんなに警戒したのでしょうか。
堀家の越後支配は難渋したようです。住民からすれば、上杉以外の藩主は全てよそ者。要は気に入らないのです。ことあるごとに一揆が起き、城下町経営どころか、領民との交流もままならないーー。わずかな遺構や縄張図からはそんな地域の歴史が読み解けます。結局、7年で廃城となりました。一方、旧領復帰を目論む上杉が裏から一揆をそそのかしたという疑惑が晴れません。謙信公以来の「義」とは相容れない気もしますが、これも直江兼続の地元「愛」だと言われれば、まあそうなのかもしれません。
--
余談ですが堀氏はその後、お家騒動で領地召上げ。同家を断絶しようと考えていた家康にとっては渡りに船で、これを機に自身の六男、「鬼っ子」松平忠輝(伊達政宗の娘婿)を投入。越後を一族で固め、加賀の前田、出羽の上杉を牽制するという北陸方面の警戒態勢が一応の完成をみますが、後にこの選択が家康の“終活”にノイズをもたらすことになります。その話は別の機会に。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。