2022/06/10
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第49回 廻縁(まわりえん)と高欄(こうらん)
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回のテーマは、天守の周りに設けられている廻縁と高欄について。この2つはセットで造られることが一般的でしたが、いつ頃からどのような目的で採用されたのでしょうか? 全国のお城に今も残っている廻縁に注目しながら考えてみましょう。
天守をぐるりと一周できる縁側(えんがわ)のことを廻縁(まわりえん)(回縁)と言います。 高欄(こうらん)は廻縁に付けられる手すりのことで、転落を防止(ぼうし)すると共に飾(かざ)りとしての役割(やくわり)も持っていました。元々の廻縁は、神社の本殿(ほんでん)や寺院の本堂(ほんどう)の外側に付けられた飾りのための縁側だったのです。その縁側からの転落を防止するために高欄(手すり)を付けたため、セット関係になっていったのです。
法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂(こんどう)と五重塔(ごじゅうのとう)を見てください。1階は入口の石段(せきだん)の脇(わき)にしか高欄は無く、2階以上の階になると、四周に設(もう)けられていることがよく解(わか)ります。この金堂と五重塔に設けられた廻縁と高欄は、実用的な1階部分の高欄を除(のぞ)けば、完全に飾りでした。金堂や五重塔の二階以上に上がることはありませんので、格式(かくしき)を高めるための物であったことが解ります。織田信長(おだのぶなが)が安土城(滋賀県近江八幡市)の最上階に廻縁と高欄を設け、実際(じっさい)に外に出るようにしたため、城では格式の高さを示す飾りと共に実用的な物となったのです。
法隆寺金堂・五重塔の入口脇に高欄が付いています。2階部分にある廻縁と高欄は、完全な飾りです。五重塔は各階に、廻縁と高欄が付いていますが、外に出るための物ではありません。
「廻縁」の普及
安土城天守で、廻縁が採用(さいよう)されたことによって、廻縁は大坂城(大阪市)天守にも引き継(つ)がれました。宣教師(せんきょうし)のルイス・フロイスは、大坂城天守を案内されており、それを記録に残しています。そこには「一番上の階には、外に飛び出すようなベランダ(廻縁)がついていました。豊臣秀吉は、堀(ほり)の中で進む工事を見るのと同時に、近畿(きんき)地方の諸国(しょこく)を見渡(わた)すためにベランダに出ることを命じました。ベランダからは、数カ国を望むことができました」と記録され、さらに工事中の人々が、ベランダに出ている宣教師一行の中に、秀吉が混(ま)じっているのを知って非常(ひじょう)に驚(おどろ)いていたとも記録されています。
大坂城に廻縁が採用されたことで、秀吉配下の武将(ぶしょう)たちの多くは、これを見習って自分の城の天守にもこぞって廻縁を造(つく)るようになりました。当然、大坂城の廻縁が外に出ることが出来たため、それらの城も外に出るために廻縁を設けたのです。そうなれば安全確保のために必ず「高欄(手すり)」が設けられることになります。
昭和6年(1931)に市民の寄付で再建された鉄筋コンクリート造りの3代目天守は、豊臣秀吉を偲び、「大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)」に描かれている秀吉の天守をもととして建てられています。天守の最上階には、廻縁と高欄が付けられています
大坂城に次いで、聚楽第(じゅらくだい)(京都市)や肥前名護屋(ひぜんなごや)城(佐賀県唐津市)の天守にも、廻縁と高欄が採用されていたことは、屏風(びょうぶ)等の絵画資料から確実な状況です。次いで、天正20年(1592)頃(ごろ)完成したと考えられる毛利輝元(もうりてるもと)の広島城(広島県広島市)天守にも採用されています。これらの廻縁は、いずれも実用的な物で外に出ることが可能(かのう)だったと思われます。
秀吉の大坂城にならって、一門衆(いちもんしゅう)(豊臣家に関係する家柄(いえがら)の人々のことです)の城のすべてで廻縁が採用されたわけではありません。五大老で、一門の宇喜多秀家(うきたひでいえ)が文禄(ぶんろく)年間(1592~96)に完成させた岡山城(岡山県岡山市)天守には、廻縁はありません。これは、構造的(こうぞうてき)な問題だと思われます。
廻縁を採用した広島城天守(左)と、未採用の岡山城天守(右)。岡山城は、下層の入母屋破風の影響で、廻縁を採用することが出来ませんでした
取り込まれた廻縁
廻縁を回すことで格式は高まりますが、我(わ)が国の気候では風雨や雪にさらされ、廻縁そのものが傷(いた)みやすいのが大きな欠陥(けっかん)でした。そのため、慶長(けいちょう)の築城(ちくじょう)ブームの時になると、室内に廻縁を取り込(こ)んで入側(いりがわ)(縁側)にするような天守が登場してきます。姫路(ひめじ)城(兵庫県姫路市)や松本城(長県松本市)、松江城(島根県松江市)などで見ることが出来ます。
室内に廻縁を取り込んで入側とした姫路城天守(左)と、松本城天守(右)。縁側を廊下(ろうか)としているため、幅が狭(せま)いのが解りますか。壁(かべ)が無ければ、廻縁そのものです
ところが層塔型(そうとうがた)天守が登場すると、破風(はふ)の無い丹波亀山(たんばかめやま)城(京都府亀岡市)や津山(つやま)城(岡山県津山市)は、デザインの一つとして採用しています。何一つ飾りのない天守にするわけにはいかなかったのでしょう。一国一城令発布後の元和(げんな)8年(1622)に竣工(しゅんこう)した福山城(広島県福山市)には、千鳥破風(ちどりはふ)、軒唐破風(のきからはふ)など数多くの破風が採用されているにも関わらず、最上階にも廻縁を設けています。格式を高めるために必要だったとしか思えません。津山城、福山城は、江戸時代後期になると廻縁を風雨から守るために周囲(しゅうい)を板で囲(かこ)い込んでいます。福山城は、高欄に沿(そ)って板を張(は)ったため、途中(とちゅう)で板壁(いたかべ)を折れ曲げています。まっすぐ立ちあげると、上階の屋根より外にはみ出すための工夫でした。
福山城天守古写真(「歴史浪漫」とおり町交流館/福山本通商店街振興組合より転載)。廻縁を風雨から守るために、周りに板を張って保護(ほご)した福山城天守。上部屋根が跳(は)ね上げ式になっていたようです
西南戦争時に焼失した熊本城(熊本県熊本市)天守の古写真を見ると、廻縁の外側に側柱(がわばしら)を設け、さらに外側に雨戸があり、両端(りょうたん)には雨戸を収納(しゅうのう)するための戸袋(とぶくろ)が取り付けられています。これも、廻縁を風雨から守るための工夫の一つです。加藤清正が築(きず)いた天守には、大坂城同様の廻縁が採用されていたため、細川時代になって、風雨から廻縁を守るために雨戸を設けたと考えられます。
熊本城絵葉書部分(個人蔵)。大天守・小天守共に、外側に雨戸があり、両端には雨戸を収納するための戸袋が取り付けられています。当初は、共に廻縁がめぐる姿だったのです
装飾化した廻縁
現存する彦根(ひこね)城(滋賀県彦根市)、伊予松山城(愛媛県松山市)、丸岡城(福井県坂井市)の各天守には廻縁が残されていますが。いずれも外へ出ることが出来る実用的な廻縁ではありません。これらの城の廻縁は、室内の床(ゆか)面よりもかなり高い位置に設けられおり、室内からはかなり出にくい構造となっています。さらに、縁の幅も狭く、高欄も低くて手すりとして機能を果たしていないだけでなく、中途に破風があるため、四周を廻ってもいません。遠くから見れば、高欄が付いた廻縁が付設する格式高い天守に見えることになります。これらは、完全に装飾化(そうしょく)した飾りと理解されます。
完全に装飾化した彦根城の廻縁と高欄。入母屋(いりもや)破風があるため、廻縁は四周を廻ることが出来ません。また、幅も狭く、床面より高いため外へ出ることはできません
松山城の廻縁は、床面から一段高くしてあり、外へ出にくくなっており、装飾だったことが解ります。彦根城と違い、外へと出られないわけではありませんが、危険で実用的ではありません
実用的な廻縁としては、現存(げんぞん)する犬山城(愛知県犬山市)天守と高知城(高知県高知市)天守に見られます。これらの天守は年代が下がり、犬山城が17世紀代の改築(かいちく)時に付設されたもので、高知城が延享4年(1747)の再建になります。高知城については、創建時の形式を踏襲(とうしゅう)したためと思われます。実際に、江戸時代に使用されていたかどうかは不明ですが、江戸時代の改修・築城時にも廻縁は格式を高めるために採用されていたと考えられます。
外に出ることが可能な高知城天守の廻縁(左)と、犬山城天守の廻縁(右)。共に、江戸時代の17世紀になってから設けられたものです。当時使用していたかは不明です
今日ならったお城の用語(※は再掲)
入側(いりがわ)
縁側(えんがわ)と座敷(ざしき)の間にある通路のことを指し、外部と内部をつなげるための空間です。 主に人が通るための廊下としての役割を果たしていました。 縁側と同じように扱(あつか)われますが、入側自体は、外ではなく室内にあたります。
※層塔型天守(そうとうがたてんしゅ)
1階から最上階まで、上の階を下の階より規則的(きそくてき)に小さくし、1階から順番に積み上げて造った天守のことです。関ヶ原合戦後に登場する新式の天守形式です。
※一国一城令(いっこくいちじょうれい)
慶長20年(1615)に江戸幕府(ばくふ)が発令した法令(武家諸法度(ぶけしょはっと))の中の細目で、一国(大名の領国(りょうこく)、後の藩(はん))に大名が居住(きょじゅう)あるいは政庁(せいちょう)とする1つの城郭(じょうかく)を残して、その他の城(支城(しじょう))はすべて廃城(はいじょう)にするという内容です。従(したが)って、2カ国支配していれば2城、3カ国なら3城を持てることになります。
※千鳥破風(ちどりはふ)
屋根の上に載(の)せた三角形の出窓(でまど)で、装飾や明るさを確保(かくほ)するために設けられたものです。屋根の上に置くだけでどこにでも造ることができます。2つ並(なら)べたものを「比翼(ひよく)千鳥破風」と言います。
軒唐破風(のきからはふ)
軒先の一部を丸く持ち上げて造った破風のことです。屋根自体を丸く造った唐破風は「向唐破風(むかいからはふ)」と言います。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。