理文先生のお城がっこう 城歩き編 第50回 瓦葺(かわらぶき)建物と鯱(しゃち)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回のテーマは、お城の建物の屋根に載っている瓦について。お城の屋根に瓦が使われるようになったのはいつ頃からなのか、またどのような種類の瓦が用いられたのか見ていきましょう。


現在(げんざい)の城の建物は、ほとんどが瓦葺(かわらぶき)で、瓦で葺(ふ)かれていない建物を探(さが)す方が難(むずか)しいくらいです。瓦は、我(わ)が国で発明されたものではなく、飛鳥(あすか)時代の西暦(せいれき)588年に百済(くだら)から仏教(ぶっきょう)と一緒(いっしょ)に伝わったと『日本書紀(にほんしょき)』に記録されています。本格的な伽藍(がらん)(僧(そう)が集まり住んで、仏様(ほとけさま)の教えを修行(しゅぎょう)する場所です)を備(そな)えた日本最初の仏教寺院である蘇我(そが)氏の氏寺(うじでら)(一族が栄ええること、先祖(せんぞ)を弔(とむら)うこと、死後の幸福などを祈(いの)るために建てた寺のことです)の飛鳥寺(法興(ほうこう)寺)を築(きず)くにあたって、百済から4人の瓦博士(はかせ)が派遣(はけん)され、初めて瓦で葺かれた建物が登場しました。こうして瓦は、寺院で使用されるようになったのです

元興寺
飛鳥寺から移築されたと伝わる元興寺(がんごうじ)の屋根には、一部飛鳥寺が建てられた推古天皇4年(596)に造られた瓦が、1400年間もそのまま使われ続けています

持統(じとう)天皇(てんのう)が建てた藤原京(ふじわらきょう)大極伝(だいごくでん)(天皇が政治や儀式(ぎしき)を行う場所です)で、瓦が使用されていたことが確認(かくにん)されており、これが寺院以外で使われた最初の事例になります。その後、瓦は寺院、宮殿(きゅうでん)(天皇や天皇の一族が住む御殿(ごてん)のことです)の他、官衙(かんが)(国の役所や官庁(かんちょう)のことです)国府(こくふ)(今の県庁のことです)国分寺(こくぶんじ)(聖武(しょうむ)天皇が仏教によって国を守るために、当時の日本の各国(今の県)に命令して建てさせた寺のことです)といった公的な建物にのみ使用されるようになります。

戦国時代が終わり頃(ごろ)になり、城が地方の拠点(きょてん)としてずっと同じ場所から動かないようになると、瓦が使われるようになりました。初めの頃は、お寺の瓦を持ってきて屋根に葺いていましたが、織田信長(おだのぶなが)がお城のための専用(せんよう)の瓦を造(つく)って、自分の居城(きょじょう)や配下の武将(ぶしょう)の城に用いるようになると、あっという間に広く行き渡(わた)り、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代に全国へ行き渡り、使われるようになったのです。

瓦葺建物の登場

戦国時代にも、瓦を造る職人(しょくにん)集団(しゅうだん)は残っており、お寺のために瓦を造っていました。この時代の主な瓦職人(工人)は、奈良を中心とした南都(なんと)(けい)の職人、堺(さかい)や大坂周辺の四天王寺(してんのうじ)系の職人、姫路(ひめじ)周辺の播磨(はりま)系の職人などで、備前(びぜん)にもある程度(ていど)の職人集団がいたようです。

これらの地域を支配していた大和(やまと)の松永(まつなが)氏、播磨(はりま)周辺地域(ちいき)、備前(びぜん)・美作(みまさか)の浦上(うらがみ)氏、宇喜多(うきた)氏関係、北部九州地域で城の中で瓦が使われていたことが解(わか)っています。これらの瓦は、近くのお寺などに使用していた瓦を、自分の城に使うために持ってきて屋根に葺いたものでした。これは、各地域で力をたくわえた武将達(たち)が、一つの場所を拠点として動かなくなり、長い間住むために丈夫(じょうぶ)な建物を建てるようになったからです。

唐招提寺
奈良には、唐招提寺(とうしょうだいじ)を始め、古くからの瓦葺きの建物が多数建ち並んでいました。当然瓦職人も多く存在していました。瓦は、他より極めて入手しやすかったのです。

城のための専用の瓦が造られたのは、織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)が最初でした。信長は、唐人一観(とうじんいっかん)という特殊(とくしゅ)な技術者を呼び寄せ、南都系工人(奈良衆)等の技術集団を集めて、今までのお寺で使っていた瓦とは違(ちが)う、お城の屋根に載(の)せるための瓦を造りあげたのです。さらに、安土城の瓦は「他の誰(だれ)も勝手に使うことを許さなかった」と宣教師(せんきょうし)のルイス・フロイスが記録しています。安土城と同じ瓦は使えませんでしたが、信長配下の羽柴(はしば)秀吉や明智光秀(あけちみつひで)などの武将もこぞって瓦を使い、広く行き渡るようになります。

一般庶民(いっぱんしょみん)の家屋は、江戸時代になっても板葺きが一般的でした。瓦葺きが普及(ふきゅう)したのは江戸時代末期のことです。

様々な瓦

信長の安土城や、秀吉の大坂城(大阪府大阪市)には、瓦の瓦当(がとう)(軒丸瓦(のきまるがわら)・軒平瓦(のきひらがわら)の先端(せんたん)の文様のある面のことです)に金箔(きんぱく)(は)った金箔瓦が用いられました。金箔瓦は、誰でも勝手に使うことは許されておらず、信長や秀吉の命令によって使われていたようです。

岡山城天守、金箔瓦
復元された岡山城天守の金箔瓦です。豊臣一族ということで金箔瓦を使用できたのです。瓦の模様(もよう)は、豊臣氏の家紋(かもん)である桐(きり)紋でした

関ヶ原合戦を経(へ)て、慶長(けいちょう)の築城ラッシュと呼(よ)ばれる時代になると、天守の大型化(おおがたか)が進みました。秀吉亡(な)き後、天下を治めた徳川家康(とくがわいえやす)は、江戸幕府(ばくふ)のシンボルとして金属(きんぞく)の瓦を使った天守を江戸城(東京都千代田区)に建ちあげます。この時使われた金属製(せい)の瓦は、銅(どう)製と鉛(なまり)製の瓦でした。金属は当時、非常(ひじょう)に高価(こうか)な材料でした。その高価な材料で屋根を覆(おお)うことは、金箔瓦以上に贅沢(ぜいたく)なことだったのです。

名古屋城、銅瓦
名古屋城の銅瓦です。現在は緑青(ろくしょう)によって緑色に見えますが、葺いた直後は黄金色に輝(かがや)いて見えたはずです。金属瓦によって、巨大天守が登場したのです

金属瓦にはもう一つメリットがありました。重い土の瓦から、薄(うす)くて軽い金属の瓦に変えたことで、屋根にかかる重さは極端(きょくたん)に減(へ)って、建物全体にかかる力も減少(げんしょう)します。金属瓦とは、木型で作った瓦型の上に、薄い金属を張(は)ったものです。それによってそれまでの天守より巨大(きょだい)な天守を建てることができるようになったのです。

名古屋城(愛知県名古屋市)天守は、当初は最上階のみ銅瓦でしたが、重さによる力によって石垣が傾(かたむ)くと、初重以外を銅瓦に改修(かいしゅう)しました。 はっきりした根拠(こんきょ)もなく、世間一般に言い伝えられている説で、鉛瓦は万が一の時に溶(と)かして「鉄砲(てっぽう)玉」にすると言われていますが、屋根から瓦を外し、さらに木型に張られた鉛板をはがすことは容易(ようい)ではありません。鉄砲玉用の鉛は、駿府(すんぷ)(静岡県静岡市)などで半円形の縦長(たてなが)インゴット(塊(かたまり)です)として出土しています。

日本海側などの寒冷地では、普通(ふつう)に使われている粘土(ねんど)で出来た瓦は冬になると内部の水分が凍(こお)って割(わ)れることから、使用されませんでした。丸岡城(福井県坂井市)や福井城(福井県福井市)などでは、笏谷石(しゃくだにいし)を整形して造った石瓦(いしがわら)を用いていますが、重量は相当で建物を巨大化するにはかなり無理があったと思われます。

金沢城、鉛瓦、丸岡城、石瓦
金沢城の鉛瓦(左)と丸岡城の石瓦(右)です。共に、寒暖(かんだん)差によって通常の瓦が割れて使用できないため、工夫された瓦です

江戸期になると、割れを防ぐために粘土の瓦の表面に釉薬(ゆうやく)(表面を覆って粘土中に水その他の液体を浸透(しんとう)させないように表面に塗(ぬ)られたガラス質(しつ)の素材です)を施した施釉(せゆう)が登場します。有名なのは、会津若松(あいづわかまつ)(福島県会津若松市)の赤瓦です。また、弘前(ひろさき)(青森県弘前市)では銅瓦、金沢(かなざわ)(石川県金沢市)では鉛瓦という金属製の瓦を用いるようになります。どちらも冬の寒冷対策(たいさく)でした。

会津若松城、赤瓦
会津若松城は、寒暖差による割れを防ぐため赤い釉薬を塗った赤瓦を使いました

鯱瓦の登場

(しゃち)は、頭は虎(とら)、身体は魚で、龍(りゅう)のようなするどい尾(お)ひれや棘(とげ)を持つ想像上(そうぞうじょう)の動物です。一文字で、シャチとかシャチホコと読みます。口から水を吹(ふ)くと言われているため、火災除(かさいよ)けの守り神とされていました。室町時代は、お寺の本堂(ほんどう)の内部に安置(あんち)されていた厨子(ずし)(仏像を納(おさ)めるための仏具の一種です)の屋根を飾(かざ)っていたものです。その鯱を、織田信長が安土城の天主の屋根に飾ったことで、その後の天守には必ず鯱が載るようになったと言われています。

姫路城、江戸城、鯱
姫路城の瓦製の鯱(左)と、江戸城の青銅製の鯱(右)です。幕府の鯱は、青銅製の鯱が多く見られます

最初の鯱は瓦製で、口などに部分的に色が塗られていたり、金箔が貼られたりしていたことが出土瓦から確実(かくじつ)です。瓦製の鯱は重いため、松江城(島根県松江市)のように木造で銅板張の鯱も造られました。銅板造りの鯱は、軽量のため大型化しやすく、値段も安かったのです。同じ青銅製でも江戸城のように鋳造(ちゅうぞう)(純度(じゅんど)の高い青銅を熱で溶かし、型に流し入れ「冷やし固める」加工方法です)の青銅製の鯱も残されています。こちらは、かなり高価になります。

松江城、鯱
松江城天守の鯱は、木造で銅板張でした。軽量のため大型化しやすく、値段も安かったのです

最も高価で豪華な鯱は、慶長17年(1612)に完成した名古屋城天守の屋根に飾られていた鯱で、黄金製でした。ヒノキ材をいくつか張り合わせた部材を芯(しん)として、黄金の板を打ち付けて造られています。金鯱は雄(おす)(北側)と雌(めす)(南側)の一対で、雄の方が大きく造られています。2対で慶長大判が1,940枚(まい)(小判(こばん)にして1万八千両、純金換算(かんざん)で215.3㎏)を使っています。尾張藩(おわりはん)が財政難(ざいせいなん)を迎(むか)えると、その度(たび)に金鯱の価値(かち)があてにされ、明治になるまでに3度改鋳されています。

名古屋城、金鯱
「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ。尾張名古屋は城で持つ」と言われるほど、金鯱のイメージは強かったのです。江戸時代の中期。金助と称する盗賊(とうぞく)が、強風に乗じて大凧(おおだこ)に体を縛(しば)りつけ金鯱の鱗をはぎ取ったという「伝説」が残されている程です

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※金箔瓦(きんぱくがわら)
軒丸(のきまる)瓦、軒平(のきひら)瓦、飾り瓦などの文様部に、漆(うるし)を接着剤(ざい)として金箔を貼った瓦のことです。織田信長の安土城で最初に使用が始まったと考えられています。

金属瓦(きんぞくがわら)
信長や秀吉の時代までは、銅のような金属の加工は大変な作業でしたが、江戸時代に入ると、金属を加工する技術が進んだことと、労働力をまとめることも出来たため、銅や鉛という金属製の瓦が使われるようになりました。金属瓦は、軽くて丈夫なため、寒冷地で使用されることが多く見られます。

石瓦(いしがわら)
泥質(でいしつ)の岩石である粘板岩(ねんばんがん)で造った屋根瓦です。丸岡城や福井城の石瓦は、笏谷石(福井産の緑色凝灰岩(ぎょうかいがん))を使用しています。

施釉瓦(せゆうがわら)
粘土製の瓦の表面に釉薬(水が入らないように塗るガラス製の上塗薬です)を施したものをいいます。赤色の釉薬を塗った瓦を赤瓦と呼んでいます。

鯱(しゃち、しゃちほこ)
屋根の大棟(おおむね)の両端に取り付け、守り神として使われる装飾(そうしょく)・役瓦の一種です。姿は魚で頭は虎、尾ひれは上を向き、背中には幾重(いくえ)もの鋭いとげを持つ想像上の動物です。建物が火事の際には水を吹き出して火を消すと言われることから、大棟の両端に置(お)かれたといいます。

次回は「天守の構成(こうせい)」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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