2022/08/12
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第51回 天守の構成
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回のテーマは、天守の構成。お城の天守をよく見ると、建物が1つだけ建っている以外にも、いくつもの建物がつながっている場合がありますよね。そうした天守の形式を1つずつ、全国の有名なお城を例に見ていきましょう。
天守は、他の建物から離(はな)れて、ただ1基(き)だけ単独(たんどく)で建つ場合と、横に続く建物が付く場合とがあります。天守の横に付属(ふぞく)する櫓は「付櫓(つけやぐら)」と言います。付櫓は、普通(ふつう)は1階建ての平櫓(ひらやぐら)が繋(つな)がっていますが、二重櫓や三重櫓となることもあります。
天守と繋がっている付櫓のうちで、一番上の階が本体の天守と離れて独立している付櫓については、付櫓とは呼(よ)ばずに「小天守(こてんしゅ・しょうてんしゅ)」と言います。小天守が付く場合、本体の天守を「大天守(おおてんしゅ・だいてんしゅ)」として区別して呼ぶことがありますが、こうした呼び方をするのは近代になってからのことになります。
松江城天守は、直接(ちょくせつ)天守へと入る入口はありません。天守と接続する付櫓を設け、そこに入口が設(もう)けられています。内部通路は、極めて強固な防備(ぼうび)が施(ほどこ)されていました
天守の形式
このように天守は、小天守や付櫓がどう接続しているかによって、4種の形式に分けられています。
独立式
付属の建築(けんちく)が無く、天守だけが単独で建っている形の建物を呼んでいます。基本的には、外から直接天守へ入ることが出来る建物のことです。
宇和島城天守は寛文(かんぶん)年間(1661~73)に建て替(か)えられた三重三階の天守で、平和な時代を反映(はんえい)して玄関(げんかん)が設けられています。破風(はふ)は完全な装飾(そうしょく)になります
丸岡城天守は寛永(かんえい)年間(1624~44)に築(きず)かれた二重三階の天守で、石段(だん)によって直接1階に入ることが出来ます。石垣(いしがき)の状況(じょうきょう)を見ると、本来は付櫓があった可能性(かのうせい)もあります
複合(ふくごう)式
最も多く見られる形の天守で、天守に付櫓や小天守が接続する形をしたものを呼んでいます。いずれも天守に繋がっている櫓などの建物を通っていかないと天守には入れない構造(こうぞう)になっています。
彦根城天守。現在(げんざい)は、多門櫓から続櫓(つづきやぐら)へ入って、そこから天守へ入り玄関口(付櫓)から出ていますが、本来の入口は手前の玄関口でした。玄関口を入ると階段があり、1階へと続いています
熊本城天守は極めて特異(とくい)で、天守に付櫓が付設し、その付櫓に小天守が付設しています。福山城も天守に付櫓が付設していますが、最上階が天守と独立しているため複合式に分類されています
連結式
天守と小天守を渡櫓(わたりやぐら)で繋ぎ合わせている形をしたものを呼んでいます。接続する小天守は1基となるのが普通の状態ですが、左右に1基ずつ、合計2基が接続するケースも見られます。いずれにしろ小天守の中を通っていかないと、天守には入れない構造のものになります。
天守と小天守を橋台で接続した名古屋城天守群。入口は小天守のみで、橋台を渡(わた)った先に天守入口が設けられていました
2基の小天守を渡櫓で接続した広島城天守群。小天守は共に三重櫓で、天守へは渡櫓に一度入って、そこから入る構造でした(作画:香川元太郎)
連立式
大天守と2基以上の小天守または隅櫓(すみやぐら)が、中庭を取り囲(かこ)むようにロ字状に渡櫓で繋ぎ合っている形をしたものを呼んでいます。中庭の面積が広げられ曲輪(くるわ)全体を中庭ととらえ、その曲輪(天守曲輪や本丸)全体を多門櫓で囲み込(こ)み、その隅に天守を置いた形式も連立式と同一の構造となるため、連立式の進んだ段階(発展型(はってんけい))あるいは変化によって生じた形(変異体(へんいたい))として捉(とら)えられています。
5重6階地下1階の大天守(写真右奥)と3重の小天守3基(東小天守(写真左隅)・西小天守・乾小天守(写真中央))を2重の渡櫓で結んだ、典型的な連立式の姫路城天守群
和歌山城天守群は、天守から時計回りに多門(写真左手前)、天守二の門(楠(くすのき)門)、二の門櫓(写真左の奥)、多門、乾(いぬい)櫓(写真右奥)、多門、台所、小天守と続く連立式天守でした
形式の変化
最も単純(たんじゅん)な独立式が古く、それが複合式、連立式などに進化し、最終的に連立式となって完成したわけではありません。初期天守の多くは、まっすぐに入る平入(ひらいり)が多かったため、入口を防御(ぼうぎょ)するために櫓を設けたり、防御を固めるために櫓を付設してそこを入口にしたりしていたため、複合式の天守になったのです。
その後、防御強化を図ることが求められる時代になったため、連結式が登場し、より複雑な連立式へと発展し、さらに曲輪全体を取り囲むような形式へと変化していったのです。徳川政権(せいけん)が成立し、大坂の陣(じん)によって豊臣氏(とよとみし)が滅亡(めつぼう)すると、天守の役割(やくわり)も変化し軍事的な色彩(しきさい)は大きく後退することになります。天守は、よりシンボルとしての役割が強くなり、曲輪の中央部に独立して建てられるようになったのです。
今日ならったお城の用語(※は再掲)
※付櫓(つけやぐら)
本来は天守に続く櫓のこと。天守と接続する例が多く見られますが、渡櫓によって接続する例もあります。
平櫓(ひらやぐら)
一重の櫓。最も簡略(かんりゃく)な櫓で、平面規模(きぼ)も二重櫓より小さいのが普通です。倉庫的役割が主な櫓になります。
※渡櫓(わたりやぐら)
左右の石垣の上に渡して建てられた櫓のことです。または、石垣上に長く続く櫓や、櫓と天守あるいは櫓と櫓の間に建てられた接続目的の櫓のことです。
多門櫓(たもんやぐら)
塁線(るいせん)上に細長く築かれた長屋形式の櫓です。多聞城に初めて造られたためとか、毘沙門天(びしゃもんてん)(多聞天)を祀(まつ)ったために「多聞」と呼ばれたと言われます。
平入(ひらいり)
土塁や石塁を割って、真っすぐに入ることのできる出入口のことです。入口を狭(せば)めただけの、最も単純な虎口(こぐち)になります。平虎口(ひらこぐち)とも言います。
次回は「国宝天守に行こう①犬山城」です。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。