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ハシビロ

【お城川柳】

道迷い 戻った曲輪に 井戸あった?

八王子城で、降りてくるときに道に迷ってしまい、やっと戻った曲輪。同じところに戻ってきたはずなのに、行きには見なかったはずの井戸があり、みんなで「???」となったのでした。

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ハシビロ

【お城川柳】

地元愛 頼んでないのに 城ガイド

地元愛あふれるおじさんが、頼んでないのにガイドをしてくれるという体験を、一か所のみならず、何か所かのお城で出会いました。
今では、ちょっとそんな出会いを期待しちゃってます。

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ハシビロ

【お城川柳】

城めぐり 始めて皇居が 江戸城に

城めぐりをする前は「皇居」だと思っていたのに、城めぐりを始めた今では、同じ場所を「江戸城」と呼ぶように。

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ハシビロ

【お城川柳】

城と聞き 天守閣と つい訂正

つい(^^;;

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ハシビロ

【お城川柳】

羨ましい 天守閣見ながら 日々くらす

姫路城とか、犬山城とか、天守閣を見ながら向かっていると、毎日天守閣を見ながらの暮らしはどんなものかと思いを思い、羨ましくなります。

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】葉の裏に潜んでいることが多いです… (2021/07/24 訪問)

「暗いヤブ うかつに入れば 蚊の餌食」

大量の落ち葉の裏にも潜んでいることがあり,そこを歩いただけで蚊を刺激してしまい,集中攻撃を食らうことがあります。
佐世保城の時がそうでした…。
ン~,そもそも地名にも藪間などという表記が…。
豊田ジャンクションの南西側になります。
鴛鴨城から,徒歩約20分です。
復路は,名鉄若林駅まで,徒歩約60分。

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ハシビロ

【お城川柳】

狭間のぞき 討ち取ったり 通行人

狭間があると覗かずにはいられず。上から見ているのを気づかずに通っている人を討ち取った妄想をついしてしまいます。

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】鴛鴨城(愛知県豊田市) (2021/07/24 訪問)

「鴛鴨城(おしかもじょう) 神明遺跡より 3分」

神明遺跡台地の手前で高速道路をくぐると案内板が出ています。
神明遺跡台地から,徒歩約3分で到着します。
豊田ジャンクションの北西側に位置します。

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ぴーかる

韮山代官屋敷 (2021/07/10 訪問)

【韮山代官屋敷】静岡県沼津市
<駐車場他>専用大駐車場無料・トイレあり
<交通手段>車

<見所>主屋・表門・移築門
<感想>1泊2日沼津・三島の城巡り番外編。韮山代官所は江戸時代初期からある幕府直轄領を管轄する代官所でほぼ江川氏が世襲している。江川氏は小田原征伐には韮山城江川砦に籠って戦っていたが、嫡子の方が徳川方にいたので戦後赦されている。管轄領地は当初5000石程度だったが、徐々に増え5ー10万石余管轄していたこともある。幕末の江川英龍は農兵の組織、大砲の鋳造、砲術指南、品川台場の築造、反射炉の建造等多才な人物であったことで有名。
 江川邸は有料650円です。当時の役所は無く跡地庭になっておりました。主屋内に展示物、江戸時代の蔵が3棟あり内1棟内には大砲、品川台場のひな形等の展示物があり中に入れます。江川邸裏門が韮山城の移築門であり、門扉に豊臣軍の銃弾と矢をうけた穴が無数にある。入場しなくてもここは外観から見れるので一見です。有料なので内部写真は控えさせてもらいます。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】神明遺跡台地(愛知県豊田市) (2021/07/24 訪問)

「しりとりで 許容するも 起用せず」

この先を見据えて『三百名城しりとり』を実施する展開になった時,再び許容することとなるでしょう。
明知城,明智長山城へのアプローチ手札が,現状で見当たらないからです。
豊田ジャンクションの北側に位置します。
しりとり回顧②はコレになります。
名鉄竹村駅から,徒歩約50分でした。

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【お城川柳】 (2021/07/26 訪問)

「グシク(城)立ち マブイ(魂)重ねる 先人と」

中城グスクを造った先人、地域の平和や繁栄を願い努めた先人、未来をみた先人、戦争を経験した先人。
私達の祖父母も幼少期清掃活動をしたという中城グスク。

時代から時代へと、たくさんの先人たちが大事に守ってきた中城グスクに立ち、
見下ろした景色の中で、物理的には会うことの出来ない中城の先人たちと、
現代に生きる私たちの想いが交差する中城グスクを表現しました。

(一社)中城村観光協会

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カズサン

【お城川柳】垂直岩盤切岸で一句

 ・ 松浦党 岩盤刻みし 直谷城

 お城川柳の投稿期限が後1週間と迫り詠んでみました。
 長崎県佐世保市吉井町に在る直谷城は松浦一族の城郭ですが岩盤を切り刻み垂直な切岸状態で急峻な地形を活用して堅固な城郭です、垂直岩盤に驚愕しました。
 城内に入り込んでしまうと全体像が掴めませんが案内板の想像俯瞰図を合わせて観ると凄さが実感出来ます。

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カズサン

【お城川柳】天守台修復で一句

 ・ 海浮かぶ 南蛮造り よみがえれ

 お城川柳投稿期限が後1週間と成って来ましたので詠んでみました。
 天守台にあった社も移転され天守台が大修理されました、後は古写真で南蛮造り天守閣が確認されてますが、発掘調査結果、写真、史料等で地下一階地上四階南蛮造りの天守閣の復元を待ち望んでいます。

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カズサン

【お城川柳】昭和・平成大修理で一句

 ・ 大修理 二回も遇った 姫路城

 ・ 天白く 聳えて麗し しらさぎの城

 お城川柳の投稿期限が後1週間と迫って来ましたので詠んでみました。
 昭和の大修理を中学生の修学旅行で体験し平成の大修理は家内と何回か見学体験しました、長生きはしないと遇えません、白漆喰で化粧直し白さが際立ち築城当時もさもこのように美しいのかと感嘆❣
 写真は平成の大修理後、昭和の大修理写真はフイルム時代でデジタル化未処理未整理で投稿できません悪しからず。

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todo94

砂越城跡本丸公園 (2021/07/10 訪問)

神社も鎮座する本丸は砂越城跡本丸公園となっていて、土塁と濠が残っています。橋はチェックできましたが、模擬櫓は見つけそびれてしまいました。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目:間門城 (2021/07/03 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目の5城目は間門城です。
善得寺城から転戦。間門浅間神社付近(35.186992、138.725850)に路駐しました。

間門城は、築城年代や築城者については定かでないが、天文年間に北条氏が駿河東部に侵入して城砦を築いており、この頃に間門城も築かれたかもしれないそうです。
日本武尊の東征の時、しばらく滞在した蝦夷城の跡との伝承があるそうです。

雨は少し小振りになりましたが、近くを流れる赤淵側が濁流になって凄い勢いで流れています。怖いので早々に撤退しました。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目:善得寺城 (2021/07/03 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目の4城目は善得寺城です。
蒲原城から転戦。日吉浅間神社駐車場(35.166511、138.688038)に駐車しました。

善得寺城は、1417年(応永14年)に今川範政により富士川以東一の善得寺に併設して築城され、今川氏の有力な支城でした。 
ちなみに善得寺は1363年(貞治2年)開山の寺院です。
1554年(天文23年)に武田信玄・北条氏康・今川義元の3者による「甲相駿三国同盟(善得寺会盟)」が締結された場所とされていますが、これは創作の説が濃厚のようです。
元亀年間(1570年~73年)武田氏に攻められ落城しました。

現在本丸跡には日吉浅間神社が建てられており、当時の城域は上和田公会堂や和田神社も含んだ一帯だったとされます。また近隣の善得寺公園に太原雪斎の墓があります。
駿甲相三国同盟の会談があったとされる場所(真偽のほどは不明)なだけに感慨深いものがあります。
豪雨の中、歩きまわったので、カッパと雨除け用足カバーをしていても、かなり濡れてしまいました。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目:蒲原城 (2021/07/03 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目の3城目は蒲原城です。
小島陣屋から転戦。城址駐車場(35.1247490、138.6023656)に駐車しました。

築城年代は不明だが、天文年間(1532年~1555年)に今川氏による築城とされます。
一般に蒲原氏数代の城と言われるが、河東の乱(1537年~1545年)の際には今川方で遠州の国人飯尾乗連らが守備に入っており、甲相駿三国同盟期(1554年~1567年)にも駿河の諸将が城番となっていることから、史料上否定されています。
三国同盟が崩壊し、1568年(永禄11年)12月に武田信玄が駿河侵攻を開始します。
最初の侵攻で信玄は蒲原城を落とさずに駿府に入ったところ、今川氏救援のため北条氏政が派遣した北条氏信率いる援軍が蒲原城に入り武田軍封じ込めの拠点としたため、信玄はやむを得ず駿河から撤退しています。
駿河奪還のために掛川城から戻った今川氏真も短期間だが入城しているそうです。
1569年(永禄12年)9月から10月にかけて武田信玄が小田原攻めを実施。この結果、北条氏は戦力立て直しを余儀なくされたそうです。
1569年(永禄12年)暮れの再侵攻時には総攻撃を加え、北条氏信ら後北条勢や今川諸将は戦死し12月6日に落城しました。
信玄は自ら城に入って改修し、後北条氏に対する防衛拠点としたそうです。
その後も武田勢が掌握していたが、1582年(天正10年)に織田・徳川連合軍に攻められ落城、廃城となりました。
現在城址には土塁や堀切などの遺構を確認することができるようです。

駐車場もトイレあります。豪雨の為、攻城断念。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目:小島陣屋 (2021/07/03 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目の2城目は小島陣屋です。
庵原山城から転戦。当初は庵原山城➡横山城➡小島陣屋の順で攻城する予定でしたが、豪雨の為、城びと未登録の横山城はスキップしました。案内板(35.084684、138.5108)近くの陣屋裏門跡に路駐しました。

小島陣屋は徳川家の親藩で、瀧脇松平家初代藩主・信治が1704年(宝永元年)に小島村に陣屋を構えました。
滝脇松平氏は、松平親忠の九男乗清を祖とする十八松平氏の一家で、1657年(明暦3)年に松平重信が駿府城代に任じられ5千石を領する大身旗本でした。
1689年(元禄2年)重信の養子信孝が若年寄に就任して加増され1万石となり諸侯に列し、2代信治が所領を駿河小島に集められ陣屋を構えました。
滝脇松平氏は、11代信敏の時に明治を迎えたが、徳川宗家の駿河駿府移封のため上総桜井へ移封となりました。
明治に廃城となった後はしばらく小学校として利用されていましたが、1928年(昭和3年)に建物が取り壊され、現在では石垣がその名残をとどめています。

陣屋といっても、立派な城で階段状の石垣や枡形虎口も実際見れるようですが、豪雨の為、車の中から説明板の写真を撮り撤退しました。
国道52号線はここより6~7km先で豪雨により通行止めになっており、山梨方面へは国道139号線を使用して北上することにしました。。
国道52号線沿い(身延線沿い)にある真篠城/波木井城/下山城/菅沼城/上野城・一条氏屋敷(城びと未登録)は今回攻城を諦めました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目:庵原山城 (2021/07/03 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り7日目の1城目は庵原山城です。
高速道路下空スペース(35.051051、138.485996)に駐車しました。

築城年代は定かではないが、在地土豪庵原氏が居城し、室町時代中期からは今川氏の家臣となり引き続き領したようです。
庵原氏は藤原秀衡の後裔とされ、代々今川家臣、太原雪斎も庵原氏の一族と云います。
1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」では庵原美作守元政らが参戦し、今川義元とともに討死しました。
1568年(永禄11年)武田軍の駿河侵攻で武田方の城となり、今川氏旧臣の朝比奈駿河守信置が入り、大庵原城主となりました。
1582年(天正10年)武田氏滅亡の際、徳川の大軍に攻められ落城し、朝比奈信置は織田信長の命令により庵原城で自刃した云わっています。
現在は新東名高速道路建設で大部分を消失し、北端の曲輪、堀切が残るのみだそうです。

静岡県全域で豪雨です。その為、車の中から撮りました。付近の川が増水しており、怖いので早めに撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。

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