みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

城とマスク

埼玉のお城巡り (2015/06/29 訪問)

映画のぼうの城を観て行きたくなりました。
マスクはラゴーシャン製

+ 続きを読む

城とマスク

福島のお城巡り (2020/03/20 訪問)

とらや分店村田やにラーメン食べに行ったとき1時間まちだったのでその間に寄って来ました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城とマスク

関西のお城巡り (2012/09/10 訪問)

10年前に行った大阪城
マスクはラゴーシャン製

+ 続きを読む

城とマスク

茨城の城巡り (2021/03/08 訪問)

この頃はまだ櫓の内部は見られませんでした。
マスクはメキシコローリン製オログラム革タイプ

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城とマスク

山形のお城巡り (2020/07/24 訪問)

上山城の帰りに寄りましたま。
マスクはラゴーシャン製

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城とマスク

静岡のお城巡り (2018/12/27 訪問)

来年はどうする家康なので来年また行きたいです。
マスクはラゴーシャン製

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城とマスク

鶴ヶ城桜祭り (2018/04/09 訪問)

桜祭り開催中に行きました、4月の会津はまだ寒いです。
マスクはラゴーシャン製絶版生地パールブルーラメ

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城とマスク

福島のお城巡り (2018/05/14 訪問)

白河ラーメンを食べた帰りは必ず寄ります。
マスクはラゴーシャン製

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城とマスク

福島のお城巡り (2021/07/05 訪問)

小野町の仙台屋食堂に行った帰りに行きました。
マスクはラゴーシャン製

+ 続きを読む

城とマスク

茨城のお城巡り (2020/04/29 訪問)

お城の帰りに名物のお蕎麦を食べました。
マスクはHAYASHI製ヴィトンタイプです

+ 続きを読む

城とマスク

栃木のお城巡り (2021/05/03 訪問)

宇都宮城に行った後宇都宮餃子を食べて帰りました。
マスクはHAYASHI製金旧ラメ5色革です。

+ 続きを読む

tt

小田原城

何度行ってもいい城

+ 続きを読む

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:古麓城 (2022/06/09 訪問)

黒淵城からの転戦です。県道158号春光寺入口(32.491785、130.635013)から進入し、春光寺横を南東に100m進むと駐車場があります。
今回は時間の都合で、駐車場から400m先にある新城のみ攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、内河義真によって築かれたと云われています。
隠岐を脱した後醍醐天皇を伯耆国船上山に迎え、倒幕の兵を挙げた名和長年は、鎌倉幕府が滅亡すると、その功により嫡男義高に肥後国八代庄の地頭職が与えられました。
1335年(建武2年)一族の内河義真が代官として八代に下向し、南北朝初期の争乱により城を築きました。これが八代城で現在古麓城と呼ばれています。
1459年(長禄3年)名和義興が十六才のときに殺害されると、幸松丸は元服して名和顕忠と名乗りました。
文明年間(1469年〜1487年)になると名和氏は相良氏と敵対するようになります。
1482年(文明14年)名和顕忠が高田に侵攻するが相良為続に撃退され、1483年(文明15年)には相良為続が逆に八代へ攻め入り古麓城は落城しました。
相良氏は一度退いたが、1484年(文明16年)に再び八代に侵攻してくると名和顕忠は古麓城を捨てて逃れました。
1499年(明応8年)相良氏は豊福で菊池能運と戦って敗れると、勢いに乗じて八代へ侵攻した菊池軍に追われ、八代の地は再び名和氏が復帰しました。
1504年(文亀4年)相良長毎が八代へ侵攻すると、名和顕忠は古麓城を明け渡し、木原城を経て宇土古城へ移りました。
1534年(天文3年)には相良義滋(長唯)によって城の拡張と城下町の整備が行われ、自ら移って居城としました。
豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後に入封した佐々成政は肥後国人一揆により改易となり、代わって加藤清正と小西行長が入封します。
八代は小西行長の所領となり、古麓城は廃され麦島城が築かれました。

古麓城は近世の八代城が築かれる前の中世の八代城で、八町嶽城・鷹峰城・鞍掛城・丸山城・新城・勝尾城・飯盛城の総称と云われています。
1334年(建武元年)~1484年(文明16年)までの名和氏時代は、飯盛城を主城として丸山城(新城の尾根続きの西)・鞍掛城(新城の尾根続きの南)・勝尾城・八丁嶽城(八丁山山頂)の五城にて構成されていました。
1484年(文明16年)~1581年(天正9年)までの相良氏時代は、新たに主城の鷹峰城(新城の尾根続きの鞍掛城の南)とこの新城を築き、七城にて構成されていました。
全て古麓山(八丁山)の尾根筋に点在していて、2つの堀切で隔たれる北の勝尾城と、球磨川に面した小高い山の上にある南の飯盛城、山深い最頂部にある八丁嶽城を結ぶ三角形が、おおよその古麓城の位置となるそうです。


ピンクのテープを頼りに登っていきます。方向音痴の自分はピンクのテープがなければ確実に迷子になっていました。
登城路に石積がありましたが、遺構かどうかは不明です。遺構として堀切は確認できました。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=田川内城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:黒淵城 (2022/06/09 訪問)

堅志田城からの転戦です。黒渕河川自然公園駐車場(32.533990、130.719230)に駐車しました。

黒渕城の詳細は不明ですが、南北朝時代に少弐頼尚と恵良惟澄で争奪されたと伝わります。

現在城址には郭・櫓台の遺構を確認することができ、山頂の主郭部に説明板が設置されています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=古麓城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:堅志田城 (2022/06/09 訪問)

御船城からの転戦です。梅村神社標識林道入口(32.631326、130.797108)から進入し、神社前を道なりに1Km進むと城跡Ⅰ郭下の駐車場に着きます。

築城年代は定かではないようです。
阿蘇惟長(菊池武経)は弟の阿蘇惟豊に敗れて本拠を失い、惟長の子・惟前は1523年(大永3年)に当城に入りました。
惟前は相良氏と結んでいましたが、1543年(天文12年)に落城し、当城は惟豊方の支配下となりました。
1582年(天正10年)に島津氏が八代城まで進出した後は阿蘇領の最前線となりました。1585年(天正13年)に甲斐親直が死ぬと当城は攻め落とされて島津氏の番城となりました。
1587年(天正15年)豊臣秀吉による九州征伐がおこなわれると、島津氏は堅志田城を放棄して薩摩に撤退しました。

連続堀切は草が多く&深くて、よく見えません。時期が悪かったです。
皆さんの投稿通り、Ⅰ-②郭やⅡ郭方面への案内表示はありますが、道が崩落していて行くことが出来ませんでしたので、遠景の写真を撮って撤退しました。
堅志田城を車で下山中に野生の鹿に遭遇し、一瞬ドキッとしました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=黒淵城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:御船城 (2022/06/09 訪問)

愛藤寺城からの転戦です。城山公園駐車場入口(32.714417、130.800272)から進入して、城山公園駐車場に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。 阿蘇惟長によって日向国に追われた阿蘇惟豊は、甲斐親直(宗運)の助けで惟長を追って復帰します。
その後、阿蘇惟豊の命で御船城主御船房行を討った甲斐宗運は、御船城主となりました。
宗運は御船城を居城として勢力を持ち、大友氏と阿蘇氏の間に立って重要な役目を果たしますが、耳川の合戦で大友氏の勢力が衰えると、島津氏の命で攻め寄せた相良義陽を響ヶ原で討ち取るなどの戦功をあげました。
宗運が亡くなると島津氏が北上して益城郡の諸城を落とし、御船城主甲斐親英は城を捨てて退散しました。
1587年(天正15年)の九州征伐で島津氏が去ると佐々成政が肥後に入り、肥後国人一揆が起きました。一揆に参画した親英が処刑され、甲斐家は滅亡しています。
一揆鎮圧のため御船城には1588年(天正16年)3~5月頃まで黒田孝高が城番として入り、続いて小西行長の支配下に入りました。
関ヶ原の戦いの後は加藤清正の領地に組み込まれ、清正は城の石垣を御船川の改修や若宮堰の建設に使ったとされます。
その後、一国一城令発令の時点で御船城の原形は既になく、1651年(慶安4年)に江戸幕府が肥後国内の古城を調査した際、曲輪250間と記されているそうです。

現在は城山公園となり一画に城山天満宮が建っていますが、 甲斐宗雲の居城跡としては、些か寂しいですね。
ちなみに、「信長の野望」に出てくる甲斐親直(宗運)は僧侶姿で能力が高かった。息子の甲斐親英は無能でしたが。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=堅志田城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:愛藤寺城 (2022/06/09 訪問)

高森城からの転戦です。県道180号の林道入口(32.651431、130.988031)から進入し、林道上の空スペース(32.646410、130.988157)に駐車しました。
林道上の空スペースに行く途中に城門標柱、二の丸(32.647599、130.988702)があります。本丸はこの位置(32.646563、130.987628)です。

築城年代は定かではないようですが、1222年(貞応元年)に阿蘇大宮司惟次によって築かれたとも云われています。
阿蘇氏の後は豊臣秀吉の家臣で佐々成政、さらに宇土城に入った小西行長の所領となり、その家臣結城弥平次が城代となりました。
この小西氏の時代に大規模に改修されたとも云われ、城内から出土したクルス瓦(十字架と聖旗が描かれたキリシタン瓦)は、この弥平次がキリシタンであったからとも考えられています。
関ヶ原合戦後に小西氏が改易となると熊本城主加藤清正の所領となり、加藤氏の家臣長尾豊前守善政、加藤正直が城代となりました。
この加藤氏の時代にも城が大改修され三重の天守が聳えていたといわれています。

県道180号から入る林道はかなり狭いですが、進んで行くと広くなります。
本丸は畑で、その北東の土壇の上に説明板と標柱があります。
本丸の西に空堀を隔てて西にあるのが三の丸、本丸の北が二の丸のようですが、二の丸へ続く道には鎖があり進入禁止のようです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=御船城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:高森城 (2022/06/09 訪問)

長野城からの転戦です。城址碑&標柱付近(32.816235、131.138172)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に高森惟直によって築かれたと云われています。
1586年(天正14年)に島津氏によって攻められ落城しました。

城址碑&標柱は高森側から国道325線を走ったとすると高森4号随道の出口山側にあります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=愛藤寺城に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:長野城 (2022/06/09 訪問)

木山城からの転戦です。長野公民館駐車場(32.862054、131.018720)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に長野氏によって築かれたと云われています。
天正年間(1573年〜1592年)に島津氏が南郷に攻め寄せた時、長野城主長野惟久は南郷城へ入り島津軍と戦ったが敗れて討死しました。

城は長野阿蘇神社の所にあり、拝殿裏側に堀と土塁が残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=高森城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:木山城 (2022/06/09 訪問)

千葉城(城びと未登録 熊本県熊本市)➡宿泊ホテルからの転戦です。木山城跡公園駐車場(32.788636、130.821349)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、木山氏によって築かれたと云われています。
木山氏は阿蘇氏の一族で六ヶ荘木山郷の地頭職を得て代々続きました。
1547年(天文16年)に木山惟久は赤井城を築いて移り、木山城は家老竹崎筑後を城代としました。
1585年(天正13年)島津氏によって攻められ赤井城とともに落城しました。

現在は木山城跡公園となっていますが、朝の渋滞に巻き込まれて到着が予定より20分遅れました。
説明板によれば周囲に空堀、竪堀らしき遺構が残っているとのことですが、わかりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長野城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ777