現地案内板より抜粋。
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2022/05/07 17:36
小竹城案内図 (2017/10/08 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/07 17:16
続100名城制覇に向けて
①対馬&五島&北部九州の遠征
6/5~6/11の予定で遠征する(対馬&五島&北部九州)の船の予約が取れました。
これで遠征に伴う全ての予約(航空券/レンタカー/ホテル/船)が完了したので、あとは遠征するのみです。
梅雨時の遠征なので、雨が降らないのを願います。
②四国&京都&北陸&東海の遠征
7/20~8/3の予定で遠征する(四国&京都&北陸&東海)の予約(レンタカー/ホテル)が完了しました。
あとは青春18キップの購入を残すのみです。(7/1からでないと購入できません)
上記①と②の遠征で続100名城制覇となります。(コロナ過の影響で予定より1年遅れになります)
添付した写真は前回北陸遠征した際、続100名城スタンプ未押印(2017年時はスタンプ未収集でした)の富山城と越前大野城です。
今回の遠征で押印予定です。
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2022/05/07 17:00
館山館 山形県川西町 (2022/05/02 訪問)
たてやまたて 詳細不明な西大枝氏が築城。標高433mの山城。
150mx100mの城跡で周囲に横堀が周っていて東面等は2重の
横堀になっています。遺構は良く残ってますが、写真では表現出来ませんね。
豪雪地帯の藪は強力で雪の重みのため根元で曲がっていて粘り強く折れません。
進むのにある程度足をあげて越えていかなくてはなりません。
股関節が痛くなります。ムチのように跳ね返ってきますし。。
雪の降る前、葉が茂る前の僅かな期間しか訪城出来ず。しかも凄い遺構を
写真で残そうと思っても上手く撮れません。
考えようでは、ここに実際に来ないと見れない贅沢な遺構なんでしょうね。
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2022/05/07 16:51
広いですね! (2022/04/29 訪問)
かなり広いです、岩屋城からもよく見えます。そこから目を少し右に向けると水城の土塁全体が伺えます。
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2022/05/07 16:41
2022/05/07 16:27
義の名将 高橋鑑種の城 (2022/04/29 訪問)
「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」
紹運のこの言葉は心に刺さる、私も同じ思いです!
そんな憧れの城へ来ることが出来ました!
まずは、お墓参りから墓石前に来ると何故か私の眼には涙が・・・家臣たちも忠義を尽くして討死。それを思うと自然と出てきてしまいました。
この後城址の方へ。
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2022/05/07 15:57
2022/05/07 15:51
2022/05/07 15:40
美しいだけではない堅固な二重惣構 (2022/05/02 訪問)
惣構は、城を中心とした城下町を囲い込んだ堀や堀の城側に土を盛り上げて造った土居等の防御施設の事であります。
金沢城下町には、1599年に造られた内惣構と1610年に造られた外惣構が二重に巡っています。
当時の堀は深いところで約5mもあったとされ、土居は
堀底から最大9mの高さを測っていたと云われています。
明治以後に、大部分の土居は堀の埋土として使用され消失しています。
堀の部分は、かつてより幅が狭まって用水として使用されております。
これが金沢用水なのですね。
内外惣構は、金沢城から見て東西に分かれているため、それぞれ東内惣構、西内惣構、東外惣構、西外惣構と呼ばれ、その延長は約9kmとなっていました。
私が行って来た西内惣構宮内橋詰遺構は、堀と土居の関係が良好に残る数少ない地点で有ります。
かつては幅10mもあったとされる堀は埋め立てられて現在堀幅は約4m、深さは約3mとなっているが、堀の城側には高さ約2mの土居が残っており、堀底からの高さは約5mとなっております。
往時の惣構を後世に語り継ぐ貴重な遺構で有ります。
特別公開で、三十間長屋、石川門、鶴丸倉庫加えて河北門続櫓の公開も有りました。
その他、2年後に二の丸御殿の復元開始の予定になっております。
予定通りに順調に開始されますようお祈り致します。
玉泉院丸庭園にある色紙短冊積石垣のような芸術的な石垣も有り、美しさを誇る金沢城なのですが一方堅固な城としての顔も忘れてはなりません。
二重惣構ですね。
それに加えて、二の丸御殿が復元出来れば絶対に行ってみたくなるお城としてのグレードがアップするに違い有りません。
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2022/05/07 14:54
復元模擬天守を見たくて初登城 (2009/06/13 訪問)
佐土原城を終えて直線で南西約16km程の所に在る高岡城別称天ヶ城を13年前の平成21年6月中旬、大分県宮崎県城廻りの11城目を目指す、麓近くに成ると白い天守が目に入って来る、比高約70m程の山上は意外と広く、運動公園、広場、ゲートボール場にも成って居り、広い専用駐車場が完備し利用する。
早速、模擬大手門、模擬天守閣に登り俯瞰する。
案内板に由る歴史は、慶長5年(1600年)関ヶ原撤退戦を切り抜けた島津義弘が日向帰路、伊東氏の日向回復の圧迫を受けて、鹿児島帰着後日向国境警備の重要性を固め、同年この地に城郭を築き天ヶ城と命名、島津に関連する武士団を移住させ国境警備を固めたが、元和の一国一城令で廃城、武士たちは麓に移り住んだ。
平成3年から4年の発掘調査で7ヶ所曲輪、堀切、建物跡が見られた中世山城、発掘調査後は埋め戻され、広場、ゲートボール場、運動公園等に成っている。
平成5年10月模擬天守閣などの建物が完成し郷土資料館に成っている。
この後は時間も有り神武天皇を祀ってる宮崎神宮、神武天皇即位の言葉を塔に刻んだ「八紘一宇」の塔を参拝見学、今は平和の塔と言うそうです。
レンタカーを宮崎駅で戻し、日豊線で鹿児島へ昔馴染み、馴染み居酒屋、カラオケなど天文館の夜を楽しみました。
次は番外編の福岡筑前秋月城へ
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2022/05/07 14:41
2022/05/07 14:28
栃尾城 (2022/05/01 訪問)
上杉謙信初陣の城郭
現在の遺構は、謙信死後の御館の乱のときのもの
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2022/05/07 14:22
加茂山城跡 (2022/04/17 訪問)
上杉氏支配下の番城
主な城主は本庄顕長
剣が峰・尾振山と連なる
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2022/05/07 14:06
石垣や畝状竪堀など見応えがある大規模な山城 (2022/04/30 訪問)
若狭守護武田氏の居城です。
越前の朝倉氏の侵攻を受けた事などにより勢力は衰えました。
織田信長が朝倉氏を滅ぼすと、信長家臣の丹羽長秀などが入り再整備されたそうです。
北東の麓の愛宕神社から登って行くと主郭まで曲輪群が連なっています。
主郭周囲は荒々しい石垣が圧巻です。石垣は、織豊期の改修と考えられるそうです。
主郭南東には広い山上御殿があり、その背後南側は竪堀、堀切で防御されています。
北西尾根部に降りて行くと、堀切、4条の長大な竪堀が見応えがありました。西下には浅くなってますが、20条位ある畝状竪堀群で徹底的に防御されていて、西側の丹後一色氏を意識しているようです。
大規模で見所が多く素晴らしい山城でした。
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2022/05/07 14:03
2022/05/07 13:53
2022/05/07 13:31
大葉沢城 (2022/05/04 訪問)
鮎川氏の居城
50以上もある畝上竪堀群が見ごたえあり
整備されていて、遺構がはっきりとわかる
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2022/05/07 12:17
発掘で発見された天守台 (2009/06/13 訪問)
高鍋城を終えて直線で南南西約12kmの佐土原城を目指す、佐土原城は平成8年からの山上部の本丸・天守確認発掘調査が行われ、成果として多数の瓦と礎石、天守台からは織豊期の瓦、金箔鯱瓦片などが発見され新聞等で発表されていた、是非山上の本丸跡、天守台跡を見たいと、13年前の平成21年6月中旬、大分県宮崎県城廻りの10城目、初登城探訪確認を致しました。
探訪ルートは、二の丸御殿、西から廻る尾根堀底道登城路(シラス台地を掘り切ったか?)、南の城て前の堀切、本丸虎口、本丸跡、本命の天守台跡、残存石垣も確認、元在ったと言う三階櫓が金箔瓦で輝いてる姿を想像、しかし6月草は深くはっきりとは見えない。
フィルムカメラ主体でデジカメの写真が少ないのが残念ですが天守台、堀切、堀底道登城路(ピントが甘いですが)を投稿します。
歴史的には日向の国佐土原も伊東氏の領国、島津氏との攻防で伊東氏は豊後大友氏を頼り、大友氏も島津氏に圧迫され豊友秀吉の九州征伐平定、島津氏は薩摩大隅日向の一部を許され、佐土原城も島津家久へ子の豊久が継ぐが関ヶ原で伯父義弘の撤退戦で戦死、一時幕府領と成るが慶長8年(1603年)島津以之3万石で許され、以降島津氏が継承して明治を迎える。
平成5年6月に発掘調査の上二の丸御殿復元して開館している、御殿は鶴松館として資料館として活用されている登城日は土曜日でした。現在は平成29年より開館は土曜日曜祝日と成ってる様です。
又山上の本丸、天守台には近年の台風被害で一部登城路通行不可と成ってる所も有る様です。
次に天ヶ城(高岡城)模擬復元天守を目指す。
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2022/05/07 10:42
沓掛の地は交通の要衝であった (2022/05/06 訪問)
沓掛の地は、北方の長久手、岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差する場所にあり、交通の要衝であったと言って良い。
古くから城館があったと云ってもおかしくない地形で有ります。
沓掛城は、1551年に今川義元の傘下に入った。
1560年5月18日に、駿河、遠江、三河の兵約二万五千の大軍を率いた今川義元は、沓掛城に入りました。
この時の城主は、近藤景春であった。
ここで今川義元は軍評定を開いて、大高城への兵糧入れや各武将の部署の再確認を行ったと云われています。
翌19日に今川義元は、本隊を従え沓掛城を出発しました。
その後、今川義元は大高道を通って桶狭間に入り、運命の桶狭間の戦いに遭遇するのですね。
城主の近藤景春は沓掛城に戻って、刈谷城攻めを行ったりしていたが、5月21日に織田勢によって攻められ落城しました。
その後、織田信照、川口宗勝が城主を勤めていたが、1600年の関ヶ原の戦いに於いて川口宗勝が西軍に参陣し、敗戦後捕らえられて伊達政宗にお預けと成りました。
ここで、沓掛城は廃城と成りました。
規模は、東西288m、南北234mで、本丸、二の丸、諏訪曲輪などで構成され、総堀に囲まれる形式て有りました。
当時としては、比較的規模の大きい城だったと言えます。
天守等の櫓や石垣は当初より存在しておりません。
即ち、典型的土の城なのです。
現在は、本丸、空堀、諏訪曲輪等の遺構が良好な状態で残っております。
沓掛城の古絵図で見てみると、遺構は当時とほとんど変わっておりません。
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2022/05/07 09:59
中山夜土 (2016/04/02 訪問)
焼失は残念ですが、復元されたら、また行ってみたいお城です。
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