(14人目)は「池田輝政」です。
関ケ原当時の居城「吉田城」を訪れました。
まず池田輝政の遺構を探しました(ありました~!)。鉄櫓(くろがねやぐら)下の北西面の石垣です。輝政が築いた野面積の石垣が見事に残っていました(写真①②は鉄櫓、写真③は鉄櫓下の輝政の石垣)。
また輝政時代のものではないですが、櫓台や他の石垣などには刻印がありました(写真④⑤⑥は千貫櫓石垣と刻印説明)。名古屋城の天下普請で余った石垣が転用されたようです。あちこちで発掘調査の途中なのか工事中なのかわかりませんが、ロープが張られ立ち入りできない場所やブルーシートに覆われた場所が多々あり、近くまで行けない所が多かったのが残念です。
今川氏から城を奪った徳川家康は、酒井忠次を城代に任命します。家康関東に移封後の1590年、秀吉の命により池田輝政が15万石で入り総石垣化を始めます。本丸を中心に半輪郭式に二の丸三の丸に堀を加え、城下町の整備も行い、総構えのの城郭にしていきます(写真⑦⑧説明)。
しかしその半ばここから出陣。小山評定を経て関ケ原の前哨戦では、織田秀信の籠る岐阜城を落とし、関ケ原では吉川広家のすぐ横に陣を張って広家をけん制し、桃配山にいる家康の背後を守っていました。しかし結局、毛利秀元と吉川広家が動かなかったため、輝政も最後まで動く事はありませんでした。
家康から岐阜城攻め落とした功績は大きいと、三河(吉田)15万石から、播磨(姫路)52万石に大幅加増されます。そして、西国ににらみをきかせるような城の築城を家康から命じられ、あの豪華絢爛な姫路城を築城します。吉田城もその後は譜代大名が入れ替わりに入り、余った石材を使って残り部分や輝政時代の石垣の積み直しが行われ、総石垣化が完成されていったようです。
鉄櫓は午後3時という早い時間で閉館します(私は知らずに間に合わず)。しかしその時間以外でも、スタンプは隣の豊橋市役所東館13階の展望室にも置かれていますので、そちらで押して吉田城を上から一望するのもオススメです。私もそこから眺めて見ました(写真⑨⑩)。
そこで眺めていると・・ん?(待てよ🤔? 私はここである疑問が・・・)
輝政はなぜ後堅固にしたのでしょうか? 背後には大きく深い豊川があります。このような川がある背後から攻めるのは難しいので、あまり堅固にする必要はないと普通は思ってしまうのですが・・・ 気になったので、もう一度下に降り、今度は豊川の側から眺めて見る事にします。
次も(吉田城)続きます。
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