南与野駅から徒歩で7分。
日向不動尊が城跡とされています。
境内には堂碑がありますが遺構はありません。
そもそもさいたま市内に遺構のある城も僅かですが。
畠山重忠の家臣、真鳥日向守の城です。
公民館も隣接していて今は地域に根ざした場所になっているのでしょうか。
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2022/06/18 08:07
日向不動堂 (2022/06/04 訪問)
南与野駅から徒歩で7分。
日向不動尊が城跡とされています。
境内には堂碑がありますが遺構はありません。
そもそもさいたま市内に遺構のある城も僅かですが。
畠山重忠の家臣、真鳥日向守の城です。
公民館も隣接していて今は地域に根ざした場所になっているのでしょうか。
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2022/06/18 07:51
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:鷹取城 (2022/06/10 訪問)
元居城からの転戦です。標識付近(33.020439、130.841569)に路駐しました。そこから150mくらいで主郭に着きます。
登り口(33.020626、130.841144)に説明板があります。
築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、原田氏累代の居城と伝えられています。
征西将軍良成親王が、一時在城した染土城がこの鷹取城とされます。
案内標識があるので迷わず辿り着けます。主郭に城趾碑があります。
主郭も段郭も草が深いです。段郭からだと眺望が見渡せます。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=五社尾城に向かいます。
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2022/06/18 07:33
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:元居城 (2022/06/10 訪問)
掛幕城からの転戦です。標識付近の路肩(33.002830、130.849078)に路駐しました。そこから250mくらいで主郭に着きます。
築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、城主は菊池氏七代菊池隆定の五男伊倉七郎定直と伝えられています。
案内標識があり、迷わず辿り着けます。
竹藪の中に石碑と説明板が確認できました。曲輪以外、遺構らしきものは見つけられませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=鷹取城に向かいます。
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2022/06/18 07:25
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:掛幕城 (2022/06/10 訪問)
市成城からの転戦です。カーブミラー横(33.021238、130.897777)に路駐しました。そこから鉄塔管理道を300mくらい登ると主郭に着きます。
築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、柏氏累代の居城と伝えられています。
登り口はわかったが、中に入って迷子になりかけ途中で断念しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=元居城に向かいます。
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2022/06/18 07:21
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:市成城 (2022/06/10 訪問)
黄金塚城からの転戦です。閉鎖中の菊池渓谷中央駐車場(33.008159、130.940498)に路駐し、南東角の入口付近(33.007924、130.940601)に向かいました。
築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、城主は置かれず毎年交代で城番が置かれたそうです。
市成城は菊池渓谷の県道45号線の近くの山にあったと云われています。
登山口は菊池渓谷中央駐車場にあり、県道南側の駐車場から菊池渓谷へ向かう遊歩道の入口に案内標識と説明板、石碑があります。
ここから城跡へ向かう道は以前は整備されていたようですが、現在は全く未整備のようで通行止めになっていた為、入口で断念しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=掛幕城に向かいます。
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2022/06/18 07:16
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:黄金塚城 (2022/06/10 訪問)
竹迫城からの転戦です。県道201号線の岩平公民館(32.990070、130.877827)を西側に曲がり、カーブミラー横(32.989895、130.876764)に路駐しました。そこから主郭まで150mくらいです。なお、岩平公民館の道路側に案内図があります。
築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、城主は惣谷氏と平山氏が代々居城したようです。
台地の上は畑になっていますが、その一角の小高い土壇に石碑が建てられています。
岩下公民館道路側に案内図があります。ここまでくれば、案内標識があるので辿り着けます
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=市成城に向かいます。
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2022/06/18 07:09
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:竹迫城 (2022/06/10 訪問)
須屋城からの転戦です。竹迫城跡公園の駐車場(32.898159、130.795229)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、建久年間(1190年〜1199年)に中原師員(竹迫輝種)によって築かれたと云われています。
中原師員ははじめ原口城を居城としていましたが、後に竹迫城を築いて移り竹迫氏が代々居城としました。
しかし、1510年(永正7年)竹迫公種の時に豊後国の大友義鑑に従って豊後国へ移って廃城となりました。
その後、1511年(永正8年)合志高岑が池上城より竹迫城へ移り、合志城と改めて居城とし、合志氏が続いたが1585年(天正13年)島津氏によって攻められ落城しました。
現在は竹迫城跡公園となっています。
本丸の周囲には土塁が残り、本丸の北側の堀は、芝生が植えられ綺麗になっています。
説明板に古地図が掲載されており、池や川が残っています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=黄金塚城に向かいます。
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2022/06/18 06:43
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:須屋城 (2022/06/10 訪問)
亀井城からの転戦です。ローソンの駐車場(32.855224、130.731799)に駐車し、道路を隔てた反対側の説明板を確認した後、須屋観音堂(32.854928、130.731248)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、 南北朝時代に須屋隆正の居城、または南北朝時代に須屋地域を治めた菊地氏庶流(分家)の須屋市蔵隆正の居城と云われています。
菊地氏が衰えたのちは、合志親重に属したと考えられています。
ローソンと道を隔てた所にある案内板を確認後、遺構として土塁、横堀(空堀)があるようなので、付近を散策しましたが見つかりませんでした。
バイパス近くの須屋観音堂横の小公園にも案内板があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=竹迫城に向かいます。
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2022/06/18 06:34
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:亀井城 (2022/06/10 訪問)
本日は移動距離も攻城する城も多い為、朝食は取らず日の出前にホテルを出発しました。
熊本電鉄菊池線線路横の空スペース(32.838849、130.722202)に駐車しました。
そこから90m先のポイント(32.839131、130.722852)を左折して光照寺に向かいました。
築城年代は定かではないようです。 天文年間(1532年〜1555年)の城主は亀井光総で、豊後国の大友氏と結んで菊地氏と敵対していました。
1550年(天文19年)菊地義武は熊本古城を攻め落とし、さらに亀井城へも押し寄せ城主光総は討死して落城しました。
その後、光総の子吾助が出家して菩提を弔う為に寺を建立したのが光照寺の始まりみたいです。
光照寺付近が城址です。お寺の案内板の脇に亀井城石垣の石碑が建っています。
お寺の西側に石垣があるそうですが、西側は民家の庭なので先人の皆さん同様に断念しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=須屋城に向かいます。
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2022/06/18 00:28
2022/06/17 23:11
2022/06/17 22:58
2022/06/17 22:42
【高城②】高城川(耳川)の戦い (これが島津の「釣り野伏せ」戦法だ!) (2021/02/11 訪問)
(高城①からの続きです)
高城本丸跡から眺めた合戦場の写真を元に、よければ私が作った解説図を見ながら読んでいただければと思います。
日向を追われた伊東氏の要請を受け、豊後の大友宗麟は全軍をもって出陣します。しかし、宗麟は途中の日向(ヒムカ)の地で、キリスト教の理想郷(ムシカ)を作る事に没頭し始め、そこから動きません(これが大友家臣団の不協和音を作ってしまいました)。
大友軍本隊はその南25kmにある山田有信とその援軍の島津家久らがわずかな兵で守る高城を攻撃します。しかし、なかなか簡単に落ちません。そうしているうちに、島津本隊が到着。根白坂に陣を構えたため、大友軍(3万5千)と島津軍(3万)が、高城川(現:小丸川)を挟み対峙します。そして、
① 島津義久(総大将)の旗印を初めて見た大友軍は、敵総大将が自ら出陣してきたのを知り、血気にはやる佐伯宗天・田北刑部は、もはやじっとしていられず、宗麟が制止命令を出していたにもかかわらず川を渡り突進して行きます。
② 義久隊は応戦しますが、ひるんだと見せかけ兵を引きます(ここが罠!)。佐伯・田北両隊は、義久の首を上げる最大のチャンスとばかりに、競うように敵陣奥まで深追いします。
③ すると、山の両側に隠れていた島津以久・島津義弘が山を下り佐伯・田北両隊を取り囲みます(三方から囲まれる)。
④ これを見て両隊が危ないと悟った後詰めの田原紹忍が助けに行きます。
⑤ それを見て高城に籠城していた島津家久・山田有信が城から下り討って出て背後より攻め、大友軍全軍は四方から島津軍に完全に囲まれてしまいました。これにより、大友軍は大敗北を喫してしまいます。😩~
この後、傷を負った大友軍の生き残りの将兵は豊後へ逃げ帰ろうとしますが、途中の日向の耳川まできたところで雨により水位が増して川を渡れず、そこへ島津軍が追ってきたため、ある者はそこで討たれ、ある者は川で溺れて、戦死者の数は膨大に増えてしまいました。高城川と耳川で合わせてその死者数は1万とも2万とも言われています。この負戦により、九州六ケ国の大大名であった豊後大友氏は、この後、没落の一途をたどる事になってしまいました 😱~。
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2022/06/17 22:39
【高城①】二度にわたる九州最大の合戦にも落ちなかった城 (2021/02/11 訪問)
高城は、宮崎県木城町の標高60mにある小さな城です。今は本丸跡に櫓を模したような時計台がひっそりとあり(写真①②)ここにかつて城であった事を伝えています(写真④⑤)。しかし実はここで、過去二度にわたる九州最大規模の合戦がありました。そして何と二度ともこの城は落ちませんでした。😲!
一度目は、天正6年(1578年)豊後大友氏と薩摩島津氏が、両者初めて全軍をもってここで激突しました(写真③:本丸跡にある櫓(時計台)より合戦場所を眺める)。薩摩の山田有信はわずか1500の兵で島津本隊の援軍が到着するまでの23日間耐え続け、ついに勝利します(詳細は次の【高城②】で解説します)。
二度目は、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(=島津討伐)で、豊臣秀長率いる15万の軍勢に囲まれましたが、またしても薩摩の山田有信は1300の兵で23日間耐え続け、ついにまた最後まで城は落ちませんでした。しかしこの時は、島津本隊の援軍が、根白坂で秀長軍に敗北し、有信は孤立してしまったため、やむをえず息子を人質に出して城を明け渡す事にはなりしましたが・・・
また、ここには7つの空堀(竪堀)も残っています(写真⑥⑦ファン必見かも?)。
落ちなかった城 ⇒ ⇒ ⇒ 縁起のいい城? 😊かもしれませんね!
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2022/06/17 22:12
山下城跡案内図 (2017/02/12 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/17 22:08
三木城想像図 (2017/02/17 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/17 22:05
此隅山城跡縄張り図 (2017/05/14 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/17 21:40
2022/06/17 20:46
整備がされていて見易いでした。 (2021/11/03 訪問)
松尾城・荒神城・肥田木城と呼ばれる3つの小山で構成されている須木城。主郭は松尾城で大きく4つの曲輪があります。一番高所にある曲輪入口に石畳の虎口と天端が土塁の石積があります。北面には土塁が施され一部には石が散見します。南側には舗装された車道があるが元々は空堀だったのではと想像しています。宮崎県調査報告書の縄張図には現在の舗装道路が記載されているので確証はありません。
松尾城より東に荒神城、南側に空堀があります。これが松尾城まで続いているように感じます。虎口と土塁も確認できます。
さらに東に肥田木城、南側に堀切を設けています。ここの虎口は桝形に見えるのですが少々形が崩れているのでこちらも確証が有りません。
滞在時間45分:1.6km:累計高低差108m
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