安土城よりも早く築かれ安土城と並び称された琵琶湖の名城には天守もあったらしく、かなり先駆的な近世城郭だったようだ。城跡近くの公園にある明智光秀像は何故だかとっても残念な気がする。
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2020/04/09 20:03
坂本城
安土城よりも早く築かれ安土城と並び称された琵琶湖の名城には天守もあったらしく、かなり先駆的な近世城郭だったようだ。城跡近くの公園にある明智光秀像は何故だかとっても残念な気がする。
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2020/04/09 10:01
2020/04/09 08:18
2020/04/09 07:18
2020/04/09 06:41
2020/04/09 00:09
2019.12.30登城 (2018/12/30 訪問)
明智長山城がある羽生ヶ丘団地を南に下りた場所に羽崎城址があります。
駐車場は無いため、周辺の道が広くなっている処に駐車して登城しました。
一応、城址の案内板があるものの、登城口が判らず、近所に住む人に聞いたところ、親切に教えていただけました。結果、耕作地の様なところ(写真3参照)を横切って登城口に行くことになるので、普通は躊躇するケースです。
城址に神社があるため、そこまでの道は草刈がされていますが、それ以外の場所は藪化しており、
遺構が非常に判り辛い状態です。
立派な城址の石碑は設置されていましたので、史跡指定などして、整備されることを期待したいところです。
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2020/04/08 21:27
悪五郎の城 (2020/03/21 訪問)
【久々利城】
<駐車場他>可児郷土歴史館駐車場
<交通手段>車
<見所>枡形虎口・石垣跡・堀切
<感想>1泊2日東三河・東美濃御城印取得の旅7城目。この城は築城年は定かではないが土岐康貞が築城、土岐三河守悪五郎と称してこの名を世襲する。康貞の子行春が久々利太郎行春と称して久々利氏が始まり200余年続いた。戦国時代には久々利氏は美濃の斉藤氏、信長の美濃攻めの時には武田氏、信長の東美濃攻略時には金山城の森氏の傘下に入り織田家に従属する。本能寺の変のち1583年森長可が久々利城主悪五郎を金山城に招き謀殺、久々利城に夜襲をかけ落城する。森家家臣戸田勘左衛門が城代となって、1600年森家転封となり久々利城は廃城となった。
登城口は県道84号線脇に、登城口にパンフレットが置いてあります。その場所から右手方向に登っていくと城跡、左手を少し入ると石垣跡があります。
城跡虎口前に畝状の土塁が3本あり、進入路を分散させている。当時は食違いになっていたようです。虎口は枡形で、畝状の土塁を含めて三の丸上から狙い打ちできるように横矢になっています。この辺りの防御は堅く森氏時代に改修されたようだ。曲輪は連郭式で山頂部から見張郭→奥の院→北の丸→土橋→本丸→二の丸→三の丸とある。見張郭北側に2重堀切、竪掘り(ちょとわからなかった)がある。連郭の北西部に谷を挟んで平行して細い尾根の武者走りがある。麓からも延びているので、ここから攻めると防備が弱いように感じた。
奥の院が城跡一広い曲輪で曲輪内に転落石が多数落ちている。見張郭との法面が石垣になっていて、そこから落ちたものと思う。城跡内に手書きの案内板(味がある)にも幻の本丸?とあったが、私もここがかつての主郭だったように感じた。
御城印は可児郷土歴史館と併設する袋井コミュニティーセンターにて頒布しています。300円以上の募金をしたら1枚いただけるということになっており、販売はしていませんのでおつりは出ませんので小銭を用意されたほうがよいでしょう。
<満足度>◆◆◆
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2020/04/08 20:05
意外とバリエーション豊かだった (2014/03/28 訪問)
地域1の勢力を誇っていたのに、後北条氏や武田氏に良い様に翻弄され、挙句の果てに長尾景虎に泣きついて全てを投げ渡した山内上杉家・上杉憲顕本拠地。
憲顕って「けんけん」とも呼べるんですよね・・・チキチキマシーン猛レース(注・カルビン見ていたのは再放送ですw)思い出して笑ってしまいましたwww
長野業正が孤軍奮闘で頑張っていましたが、彼の亡き後一気に滅亡したに等しく・・・如何に名門と言えども、上に立つ人物が努力を怠るとこういう事になるのは何時の時代でも同じですね(汗)
そんな平井城は崖端城になっており、通常はここで政務を行い、有事の際には詰めの城・平井金山城にて戦うハズだったんですが・・・平井金山城は滅亡時には使われる事無かったっていうのが寂しいですね(堅固な山城だけに)
と言っても平井城もただ曲輪があるだけの場所ではなく、崖端を利用して遺構を備えた場所になっております。
その近さから恐らく平井城と平井金山城は元々1つの城として機能していたと思われます。
今(といっても訪問したの6年前ですが)は周辺の開発により部分しか残っておらず、見学した際の印象薄かったのですが、今記事upするのに写真見返していたら思っていたよりバリエーションの多い場所だったんですね。
そのほとんどが復元ですが土塁・空堀・竪堀等が見られ、解説も充実しており、無料の駐車場も完備された感じの良い場所になってます。
一応バス路線なので電車・バスで訪問も出来ますが、本数がかなり少ない為車での平井金山城等とのセット訪問推奨で御座います。
ちなみに平井金山城の方は当時途中まで登ったところでオオスズメバチの巣があった(3月下旬に何故活発に活動してる?!)為に引き返さざるを得なかった苦い思い出が・・・
こっちは再訪してから記事upしたいと思います。
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2020/04/08 19:11
茨城県立江戸崎高等学校発祥之地? (2020/03/21 訪問)
大河ドラマ「麒麟がくる」に、ほんのちょっと出そうな「江戸崎城」です。
負けてもヘコタレない小田氏と対立していた、江戸崎 治頼さんの居城です。
そんな小田氏に、一族のゴタゴタで「江戸崎城」を取られた事もありました。
江戸崎 治頼さんを調べたら、美濃の土岐原氏 土岐 治頼さんでした。関東管領 上杉氏に従って、この辺りに定着したようです。
そして、治頼さんのお兄さんが土岐 頼芸さん。
斎藤 道三さんに領国を追われ「江戸崎城」に落ち延びて来たそうです。
ここ、「麒麟がくる」に出ないか楽しみです。
で、「江戸崎城」は坂を上がった高い場所にありました。石碑があり写真を撮ろうとしたら「茨城県立江戸崎高等学校発祥之地」とあります。???
残念ですが、石碑より少し下の広場(曲輪?)みたいな所に、やや劣る説明板です。
茨城県で土岐氏のお名前、新発見でした。
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2020/04/08 14:45
薄墨桜の帰り寄りました (2020/04/07 訪問)
日本三大桜の一つ樹齢1500年で有名岐阜県根尾の薄墨桜を見学した後に1km程の国道157号線下り沿いに在るとの情報で寄りました。
場所は根尾中学校と根尾駐在所の中間国道157号線沿い、拡張で山手を削った護岸コンクリの上に案内板と社の灯籠2基あり、Snakepitさんの投稿に有った様に護岸コンクリ階段は何とか登れましたが案内板が有る処からの階段が丸石を使った石階段で幅が狭く急で枯葉に泥が付着して段幅をより狭くしていて両手を付いて歩かないと危険更に中段以降は更に急で丸石階段が枯葉泥に覆われて危険ロッククライミング式に登るロープが必要で備わって無い。ジグザクの階段が欲しい。
危険で断念し周辺より眺める、護岸壁には南朝方の新田義貞弟の脇屋義助が拠り戦った事をイメージしたレリーフが飾って有り、杉林の樹林間からは曲輪の端の稜線が見える
案内板には太平記によると根尾城が登場し、新田義貞の弟、脇屋義助が拠り戦ったと有りました。
ここは美濃越前の国境157号線を下ると越前大野市が近い所です。
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2020/04/08 09:45
2020/04/08 00:45
2018.12.30登城 (2018/12/31 訪問)
明智長山城址はカーナビに登録されてるため、カーナビの指示通りに上恵土城からに南下し、羽生ヶ丘団地を通り団地の一角に明智長山城址があります。
麓の大手口に駐車場がある様ですが、団地側の二の丸にも駐車ができます。
城址は市の史跡であり、明智光秀ゆかりの城ということもあり、良く整備されています。
遺構はそんなに残っていませんが、馬防柵や逆茂木などが模擬復元されており、中世の城郭の雰囲気を演出しています。
展望台からは可児市街が一望でき、初心者や一般の人でも楽しめる城址です。
時間の関係で大手口の方に降りませんでしたが、大手冠木門が復元されている様です。
なお、搦手口は崩落の影響で通行止めとなっていました。
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日尾城 (2019/04/05 訪問)
かなりつらい登山を要する
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2020/04/07 22:37
周辺砦と共に高天神城巡りを楽しむ (2020/04/05 訪問)
高天神城への登城は今回で3回目。
「1574年の第一次高天神城の戦い」の武田方の戦略と、「1581年の第二次高天神城の戦い」の徳川方の戦略を考えながら、周辺の砦や城と共に高天神城へ登城した。
まず武田方。信玄・勝頼公は共に小山城から塩の道を通って「塩買坂」に陣を張ったと言われる。そこで、小山城→塩買坂と行ってみた。なるほど納得のルートであり、牧野原台地の西端にある塩買坂と正対するように小笠山稜の東端に高天神城があった。また塩買坂の南にある新野氏領内には、笠原城など明らかに武田築城技術が入っていると思われる城が点在していた。これらは、小山城や持舟城などからの物資輸送路の確保に重要な役割を果たしていたのだろうと感じた。徳川方の高天神城主小笠原長忠は猛将であり、徳川の援軍が来ないなか、城の特徴を活かして孤軍奮闘よく戦ったが、東からの補給路がこれだけ確保されている武田の大軍には敵わなかったはずだ。
次に、徳川方の戦略だが、有名な6砦や畑ケ谷城郭遺構を回ってから高天神城を初めて大手門側から登った。家康が陣どった小笠山砦こそ高天神城を向いているが、他の5砦は立地や遺構から、城への敵の補給路断絶や援軍を阻止するような役割をしているのではないかと感じた。砦の分布は、全て先の武田方城群に対して高天神城側だ。なるほど、言われているような厳しい兵糧攻めの戦略がわかる。畑ケ谷城郭遺構は大手門のすぐきわにあり、今も神社などに形を変えて保存されている。戦いは、城の特徴を知り尽くした元武田方高天神衆の武将が徳川方横須賀衆となって弱点である西城の赤根ケ谷から攻撃を行い落城へとつながったのは間違いないだろう。
ただ高天神城は、その圧倒的堅固な作りから、城外戦の戦略が勝敗を左右したのだと感じた。
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2020/04/07 22:13
大津城
関ヶ原の戦いにまつわる激戦を経て今や跡形もなくなったこのお城の天守が、国宝・彦根城の天守に姿を変えた。なかなかロマンチックな話ではないか。
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2020/04/07 20:45
「長島城」 (2020/03/21 訪問)
<オススメ>★★★☆☆
1245年頃、藤原道家が館を築いたとされる。北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって大改修が行われた。1570年、一向宗・願証寺証意によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となった。木曽川、揖斐川、長良川の中州にあり難攻不落の名城であった。織田一門が多く戦死するなど織田信長も苦戦したが、度重なる猛攻により長島一向一揆も平定される。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるが、1586年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、清洲城に移ったとされる。関ヶ原の戦い後は菅沼氏が2万石で入り、長島城を改修し藩庁として用いた。その後、増山氏が8代続き廃藩置県まで至った。現在、現存移築門が遺されている。(願證寺の一向一揆殉教之碑も併せて散策したい。)
<アクセス>
JR長島駅 徒歩15分
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2020/04/07 20:32
「神戸城」 (2020/03/21 訪問)
<オススメ>★★★★☆
伊勢国人領主である神戸氏4代の神戸具盛が築城したとされる。織田信長の伊勢侵攻で神戸具盛は信長の三男・信孝を養子にすることで和睦する。神戸(織田)信孝によって、野面積みの石垣や5重6階の天守が築かれた。信孝の死後は、城主は度々代わり、関ヶ原の戦い以降は一柳氏が5万石で入った。1732年に、本多忠統が2万石で封じられ、廃藩置県まで居城として用いた。現在、天守台や石垣等が遺されている。
<アクセス>
伊勢鉄道 鈴鹿駅 徒歩20分
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2020/04/07 19:45
土岐高山城 (2020/03/21 訪問)
【土岐高山城】
<駐車場他>三の丸跡駐車場あり。
<交通手段>車
<見所>穴弘法
<感想>1泊2日東三河・東美濃御城印取得の旅6城目。城の歴史は説明板にある通り。プラス戦国期には本能寺の変の後、金山城の森長可にも攻められている。地理的に武田・織田・徳川の間にあり戦いの場所になっていたことがわかる。
城跡は山頂にはなく、山頂は墓地になっている。車で行くと途中山頂の墓地に行く方向を通り過ぎて、山の稜線の端っこあたりに城がある。三の丸跡が広場になっていて駐車できます。主郭を含む楕円形の三つの郭が主にあり、簡単な構造となっている。主郭跡には模擬門・模擬櫓と東屋、奥に井戸跡や祠がある。主郭は金網で囲っているので少し雰囲気を疎外している。堀切も埋められてしまっていて、これといったいい遺構はとくに見受けられないが、綺麗に整備された城跡です。
穴弘法は城跡から東方向200㍍ほど下ったところにあります。現地の説明板によると、戦国時代にこの地で命を落とした人々の霊を弔うために元禄年間に開創された寺の跡だそうです。その後荒れ果てていたのを明治時代に地元の人々によって再興しました。岩肌に穴を掘って石仏を納めていますが、当時は武将のお墓があったようです。度々攻められる憂き目にあった城、今見せていただいている者としてお参りさせてもらいました。印象に残る場所です。今回は穴弘法も含めての満足度といたします。
<満足度>◆◆◇
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2020/04/07 19:21
ふかふかの、お城跡。 (2020/03/21 訪問)
南北朝時代「神宮寺城」は東条氏により築城されました。
前回 投稿した「阿波崎城」の前に北畠 親房さんが北朝方の佐竹氏達と「神宮寺城」で戦ってます。
親房さん「神宮寺城」→「阿波崎城」→「小田城」と逃れて行きました。
「神宮寺城跡入口」と看板。駐車スペースがあります。
目の前入口にすぐ梯子段があり、入城するとビックリしました。
木々に隠れて見えなかった遺構があり、別世界です。
写真は一ヶ所で写したのではなく、虎口からパチッ、少し行って土橋からパチッ、またまた少し歩いて土塁でパチッ。奥は竹藪になってますが空堀も確認できます。
木々が覆った「神宮寺城」は地面が腐葉土状で、ふかふかでした。
みなさんも「神宮寺城」ぜひ行ってください!
と、言いたいのですが、コロナが治まってから安心して外出できるようになってからですよ。
お願いします。
私は休みの日、昔の大河ドラマを見ながら籠城しています。コロナ軍には負けません!
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2020/04/07 10:56
新城、古城、古手城 (2020/02/02 訪問)
山梨県笛吹市。石和温泉駅の北に大蔵経寺山があります。その山頂に平場、堀切を伴った新城(にいじろ)。
そこから北西1.5kmにあまり遺構が明確でない古城(ふるじろ)。両地点を結ぶ尾根の中間点を東に行くと平場、古墳遺構?のようなコの字型石積みのある古手城(こてしろ)があります。
いずれも古い文献から推定される場所で確証はないようです。
そろそろ杉、檜花粉が少なくなってきて山城に行けそうな時期なんですが、ウィルスというやっかいな敵が登場しましたね。この戦いには絶対に勝たないと。
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