九州未踏の城廻りを終えて故郷鳥取帰路の途中西播磨の城廻り3城目、白旗城を終えて北に約9km程の上月城を初登城、今回の九州未踏の城廻り累計31城目、ナビは上月歴史資料館の兵庫県佐用郡佐用町上月373に合わせて走行、駐車場は上月歴史資料館に十分のスペース在り、トイレは同資料館を利用。
資料館の前に案内板、小川を渡って登城路が南に登って行く又川沿い50m程の所に尼子勝久、山中鹿之助の追悼碑が有る。
先ずは比高約110m、本丸まで380mと案内、登りは急な丸太土の目階段で尾根筋へ登ると最初の小さな曲輪、物見曲輪の様、だらだらと尾根筋道を登る、曲輪と堀切、本丸下の二段の曲輪が在り切岸が防御、本丸切岸横の登城路で本丸へそこそこ広い、本丸には赤松氏の供養塔、なぜ尼子氏鹿之助の供養塔が本丸に無いのか⁉といぶかる!本丸の東に曲輪群、南西に土橋の様な細長い曲輪、その先に二段造りの曲輪が二ヶ所続く曲輪の左右は深い崖、続き曲輪の奥は崖状に成り堀切、横堀に成ってる、更に進むと元の登城口へ700、800m程と案内に出てるが来た道が分かって居り安心なので堀切を上から見て引き返す。
資料館の方と色々尼子の情報などで情報交換城談義をし時間を過ごす、同時間来訪者は私一人、終わって尼子勝久、山中鹿之助追悼碑にお参りする。
なぜ一時撤退を秀吉、信長から言われた時に尼子勝久、山中鹿之助は撤退しなかったのか?鹿之助の娘婿亀井新十郎は後に秀吉配下と成り活躍して因幡鹿野城城主に成ってる、亀井氏が鹿之助の幸盛寺を鹿野城下に建てて現在まで継承されてる、故郷の寺と墓が鹿野城の西山麓に在り、亀井さん鹿之助と親しみを同郷の方々は感じて居ります。
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